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スットン京太郎の叶わぬ恋  作者: ナ月
第一章【青春編】
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第18話【虫歯キング】


 ―――はっ、はっ、はっ

 荒く熱い息遣いが部屋に響く。


 隆起を繰り返し躍動する筋肉。

 ぽたり、ぽたりとリビングに零れる汗。

 父上は腕立て伏せをしていた。


「虚しいっ、悲しいっ、辛いっ! 恨みっ、つらみっ、ちょべりばっ!」


 しかも片手の腕立て伏せで、腕を交互に使い、疲労の限界まで続ける。

 自分をいじめ抜くのが筋トレと信じている父上は、筋トレの最中、自らを精神的に追い詰めることも怠らない。


「さすが父上。健全な精神は、健全な肉体にこそ宿るというのを体現している」

 ぼりぼりと煎餅をかじりながら、僕は感心した。

「とてもじゃないけれど、健全な精神とは思えないわ~」

 母上がロイヤルミルクティーを舐めるように飲みながら嘆息する。


 ふと、気になった。

 そういえば、母上と父上の出会いというのは、どういうものだったのだろうかと。

 もしかしたら法香ちゃんとの恋愛のヒントになるかもしれない。

 そう思い、聞いてみた。


「母上。つまらぬことをお聞きしますが」

「つまらないことをつまらないまま語ろうだなんて品がないわね~」

「はい。母上と父上の出会いというのは、どういうものだったのでしょうか」


 ぴしり、と母上の能面にヒビが入ったかのように見えた。

 いや、能面というのは失礼か。まぁいいか。


「その話はね~、私の人生最大の汚点の一つだわ~」

 よほどドラマティックな出会いをしたに違いない。

 僕はぜひとも話を聞きたいと思った。


「よし、説明しようっ!」

 父上が息を荒げたまま、さっき僕が乾布摩擦に使っていたタオルで顔を拭いている。

「お前も年頃だ。私たちの出会いを、説明しようっ!」


 なぜか『説明しよう』の部分にとても力を入れて、父上が語り始める。

 母上はどこか遠くのところを眺め、嗚呼、と嘆くような吐息を漏らした。

 父上の話が始まる。


「……そう、あの頃の私はまだ、歯医者さんのことを虫歯キングだと思っていた……。


 歯医者こそ虫歯を引き起こし、痛みのピークを引きだす魔王だと思っていた、三十歳の春のこと。

 眼下にはそよそよとした満開のソメイヨシノと、エゴエゴした小汚い高層ビルが建ち並ぶ。

 バネ設計の依頼を受けた私は、旅客機でユー・エス・エーへ赴いた。


 アメイジングな数日間。

 その、帰り道でのことだ。


 彼女とは、空の上で出会った。


 エコノミー席で、私の隣には大学講師をしているセラミック研究者の女性が同席する予定だった。

 私も会ったことはなかったが、何度かメールでやり取りをしていたし、互いに面識はあったわけだ。

 私は売り子から購入した海苔弁と赤ワインを嗜みながら、彼女へそれとなく話しだした。


『もしも僕がビリヤードだったら、棒だと思う? 玉だと思う?』

 彼女が答える。

『わ、変な人。警備員さーん』

 と。


 私は感動した。

 警備員とは、なかなかどうして、ユニークなところを突くじゃないか、と。まさにビリヤードにおけるトリックショットのように、その言葉は私の心にすとんと入ってきたのだ。

 さすがはセラミック研究者。見る目が違う。

 私は感動のあまりに、動揺していた。


『あなた、大変、とっても、すっごい、トリック、ショット、好き』

 彼女が答える。

『あ、警備員さん。この人、少し頭がおかしいみたい』


 そこで意外な事実が発覚した。


 実は動揺していた私が正常で、おかしいのは女性の方だったということに。

 私と同席予定だった研究者の女性は風邪を召して帰国できず、彼女はうっかり席を間違えて座ってしまっていたのだ。

 この彼女とは、もちろん、妻のことだ。


 そう、私たちは出会うはずではなかったのだ。

 偶然、席を間違えて。

 偶然、互いに名乗らずに話を始め。

 偶然、意気投合したのだ…」


 父上は昔を懐かしむように、汗だくの顔をタオルで拭きながら、赤ワインをたしなんでいる。

 さすがの父上は、上半身裸で首にタオルを巻いて、ワイングラスを持つさまがよく似合う。


「私の人生最大の汚点だわ~」

 母上は同じ言葉を繰り返し、また、こう続けた。

「席を間違えたなんて、恥以外のなにものでもなくてね~」

 ふふ、と父上が笑う。


「空の上のロマンス」

 母上はついつい買い物をしすぎてしまったようで、持ち金が少なかったという。

 警備員にとがめられ、二席分の料金を取られそうになったところを、父がかばったそうだ。

 それでどうしようもなく借りができてしまい、交流が続いた、ということらしい。


「運命、か」

 僕はしみじみと思い、耽る。

 運命。僕と法香ちゃんとの出会いに、運命はあったのだろうか。

 思い返す。僕らの出会い、入学式の日のことを。

 あの日、僕らの出会いは……?


「マイ息子よ」

 そんな妄想に浸ろうとしていた僕へ、父上が話しかけてきた。


 現実に引き戻され、目を瞬かせる。

 父上が何かを言いたそうにしている。

 父上の身体を流れる汗が、きらりと光った。たくましい肉体と世界で一番ニクい顔。父上に対する反抗心は、今は捨てておこう。僕の人生にかかわる、重要な台詞だろうから。

 父上の言いたい言葉を、しかと受け止めようと、僕は構えた。


「トリックショット」

 枠にハマる男にはなるなよ。


「セラミック」

 私は大学教授をやって長いが、教科書通りの人間ほどつまらないものはない。


「ケイビイン・サーン」

 枠にハマるな。枠を超えていけ、と。


 父上はそう言いたいに違いない。

 そうだ。それはいつも言い聞かされていた、僕の人生設計そのもの。

 けして枠にはまらず、テンプレートは捨て置いて、自分なりの答えを見出す。

 枠にハマる男にはならない。それは父から受け継いだ、僕の信念なのだ。


「イエス・マイ・ダディ」

 僕はワイングラスにオレンジジュースを注いで、父上と乾杯をした。

 ちん、と心地よい音が鳴る。

 この日のオレンジジュースは、格別に旨いと感じた。


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