第12話【ほんのりと線香臭い君の香りにも恋をした】
二時限目、英語の授業が始まる。
一度始まってしまえば、僕には授業を中断して、トイレから戻ってきた法香ちゃんに何かを伝えることなどできない。
そこからまた、悶々とした授業が続いた。
初めて人に対して怒りというものを覚えてすらいた。
ヒエールくんが、邪魔すぎる。
……法香ちゃんは何食わぬ顔で授業を受けているように見える。
彼女は、僕からの手紙を読んでしまったのだろうか。
『君の期待には応えられない』といった旨の、あの手紙を。
ヒエールくんが邪魔をしなければ、もしかしたら間に合っていたかもしれないという後悔は尽きない。しかし、法香ちゃんはあの手紙をもう読んでしまっただろう。
トイレに行って、大分時間がかかっていたから、きっとうんちをしながら読んだに違いない。
いっそ水と一緒に記憶も流してくれればいいのに、と思った。
英語の授業がなんともなしに終わり、僕は再びファンクラブに包囲される。
動けない。法香ちゃんのところへ行けない。
「いい加減にしろよ……ヒエール……」
親を殺された勇者のごとき禍々しい怒りを腹の底から感じる。
「いいや、加減などしない。お前の気持ちが変わるまで、俺も考えを曲げない」
上等だ。
「そっちがそう来るなら、僕は彼女に思いを告げるぞ」
「それは勝手にしてくれ」
イガイガと向かい合う僕とヒエール。
そんな僕らの背後で、急にファンクラブの人たちが、ささっと道を開けた。
まるでモーゼの十戒のように、人垣が避けていく。
「……はっ、このかぐわしい香りは、法香ちゃん!」
ヒエール君すら道を開ける。
ちょうど太陽の光も跳ね返し、神々しい輝きさえも放っている法香ちゃん。ああ、さっきトイレでうんちをしていたとは思えない眩さだ。
「京太郎くん、その……」
彼女はどこか気まずそうにしている。
もじもじしている。
かわいい。
じゃなくて、でも、どこか、不安そうに見える。
落ち込んでいるのか?
「……褒め褒めしてあげる。おいで」
褒め褒め。それは彼女がなす、人類を鼓舞する魔法の儀式。
ファンクラブは褒め褒めを尊重する。邪魔をすることなどありえない。
そうして、僕は人通りが少なそうな渡り廊下へと誘われた。
ふりふりとなびくスカートの端を目で追いながら、僕は法香ちゃんの後ろを歩く。
脱脂綿に砂糖水を塗したかのような甘く幸せなにおいに包まれて、僕はそのまま昇天しそうな気持だった。
もしかしたら彼女は天使で、僕は自分が死んだことに気付いていない幽霊だったのかもしれない。
ところでその甘い香りの中に、線香のにおいが混じっていることに気付いた。
彼女の実家はどんなところなんだろう?
そういえば、そういうことを知らないまま、僕は彼女を好きになっている。
彼女の好きな物も知らない。
彼女の日常も知らない。
僕は彼女のことを何にも知らないんじゃないか?
いやでも、他人を知るってなんだ?
頭がこんがらがってきた。
「……京太郎くんさ」
「はい、元気です」
しまった、動揺しすぎて朝の挨拶みたいになってしまった。
「強がらなくていいんだよ」
「いや、その……」
会話はつながったのだろうか?
背中を見せたまま、渡り廊下を歩く彼女。
窓の外では、まだ桃色の花をつけている桜の木が、強い春風に揺られていた。
「私、君のことを、嫌っているわけじゃないんだよ」
あれ。
振り返る彼女の顔は、とても切なそうで。
そうだ。そういえば僕が彼女と出会ったのは桜並木の入学式で、僕は彼女に恋をして、その場で告白をした。
あのとき、彼女は―――?
「初めて褒め褒めしてくれたのは、君だったんだよ」
「え?」
彼女が僕に伝えたい言葉が、分からない。
焦燥。
「うまくいかなかったり、不安になったりすることはあるかもしれないけど、そんな風にしてさ、自分の気持ちに蓋をして、一人で解決しないでよ」
ハッと気づく。
『期待に応えられない』といった旨の手紙。
それを読んだ法香ちゃんは、僕が自信を失い、法香ちゃんのことを諦めたように見えているのだ。
だから、励まそうとしてくれている。彼女は人を励ます方法を、褒め褒めする形しか知らないのだ。僕を褒め褒めすることで彼女自身に迷惑がかかる可能性があると言うのに、それでも、なおも褒め褒めしようとしてくれている。
それはなんて、健気な女神。
「あ、あの手紙は……」
「一度言った言葉は取り消せないよ」
女神が、怒ったように見えた。
「その……!」
「取り消せないものなんだよ」
強い口調。
一度言ったら、取り返せない。
手紙で書いても、取り消せない。
うっかり入れ間違いましたは、もう通用しないということだ。
「……」
だとすれば、僕が伝えるべきことは一つ。最初に伝えたものと寸分変わらぬこの思い。
きりりと眉が締まる。
伝えたい僕の思いは、ただこれひとつ。
「君が好きだ」
「ふえっ!?」
法香ちゃんから不思議な声が漏れた。
「君の放つどこか線香っぽいにおいも好きだっ!」
「え、いや、それは……どうなんだろ」
違ったらしい。
く、また失敗か。
「……線香の臭い、気にしてたんだけどな。ちゃんと香る柔軟剤してるんだけど……」
すんすんと、法香ちゃんは自らがまとっている衣服のにおいを嗅ぎ始めた。
法香ちゃんの衣服をなんの許可もなく嗅げるなんて法香ちゃんいいなぁ、とか本末転倒なことを考えてしまう。
「実家は、お寺なのか?」
「ううん。神社。鳥居があるほうだよ」
「鳥居があると神社なのか?」
「そうそう。ウチは神道なの」
「そうなのか。ウチはカトリックだから、あまり詳しくないんだ」
「え、待って。京太郎くん家、カトリックなの?」
「そうだ。父親が熱心なクリスチャンでな。僕も日曜日は必ず教会にお祈りに行く」
「へぇ~! そうだったんだ。クラスのみんな、無信教だからさ。なんか新鮮だね」
「彼らは法香ちゃんを神だと崇め奉っているぞ」
「あ、はは。まぁ、そうなのかな?」
いつの間にか空気が変わって、僕らは仲良く話していた。
十分休み終了のチャイムの音が鳴る。
こういう会話を、もっと初めの内にするべきだったと、少し後悔していた。
いや、今からでも遅くない。お互いを持って知りあえるような、そんな話をもっとするべきなんだ。
「法香ちゃん」
「なに?」
僕は、新たな一歩を踏み出そうとしていた。
彼女を知るのだ。
好きなものとか、好きなものに対する思いとか理由とか。
彼女がどんな人間なのか、知った上で、ちゃんと告白するのだ。
だから、そのために―――
「親御さんに挨拶させてくれ」
「それは急すぎなんじゃないかなっ!?」
違ったらしい。
恋愛って、難しい。