あまねのせかい
過去の作品です。
至らない点は多々ありますが、どうかご容赦下さい。
目を覚ますと、私は水の中に包まれていた。
「この街は水槽に沈んだよ」
と、深海魚は言う。
テレビを付けてみると、どこの番組も『水槽都市』についての話題で持ち切りだった。市民の意見を無視する国家の横暴。実施日も規模も告げない粗だらけの計画だと。どうやら、私の知らない間に世界は、この街は、なにかに巻き込まれているらしい。その時、アパートの隣人であるお兄さんが泳いできた。
「唐突だったけど、やっと始まったんだな」
それだけ告げると、お兄さんは私の手を引いて、水に包まれた街を泳ぐ。夢の中で上手く走れないように、遥か古代の言葉が、最先端の心に届かないように、私は水の中で重力を失くした。ふわり、ゆらり、感覚が意味を成さなくなる。
「この水は君の哀しみだ。この水槽は哀しみの受け皿だ」
と、深海魚が言う。
反響する声が、鼓膜から脳髄へと刺激した。
花も動物も人も、夢も愛も言葉も心も、全てが水の中で漂う。
「辛かったら泣けばいいだろ。お前、心にまで嘘つく気か」
と、お兄さんは言う
「君の涙は雨だ。雨の音は心だ」
と、深海魚も言う。
そうだ。私は、いつから泣いていないのだろう。ダムに堰き止められてしまった哀しみは、一度決壊してしまえば押し留めることなんてできない。私はそれが怖いのだ。人に縋ることが、依存してしまうことが、哀しみだらけになってしまうことが。
「涙は水の中じゃ分からないよ」
その言葉が、私の水槽を壊す。瞳から溢れる涙は泡となって、やがてその泡は大きくなり、いくつにも分裂し、その一つ一つの泡の中に私が生まれる。とても小さな生命だ。この街を包む水は雨に変わり、遥か頭上の空を目掛け登っていく。そして、全ての哀しみが空を覆ったあと、それは激流となって私達に襲い掛かる。
お兄さんは私に傘を差し出すが、私はその傘を拒む。この雨が私の哀しみならば、全て受け止めなければならない。
体に、心に、言葉に、染み渡らせないといけない。立っているのが困難なほど、その哀しみは降り注ぐ。口から肺へと侵入した哀しみは、私の内側から外側へ向かうように暴れ出し、何もかもぐちゃぐちゃにしてしまいそうだった。それでも、私は天を仰ぐ。瞬間、空に亀裂が見えた。それは徐々に大きく深く広がっていき、まばゆいほどの光が世界にあまねいた。
「さよなら、人間共。君のいるべき場所はここじゃない」
と、深海魚は言う。
「さよなら、深海魚。君のいるべき場所もそこじゃない」
と、お兄さんは言う。
あぁ、そうだ。私のいるべき場所は――、
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