一 序章
眠りから覚めた途端、大切な何かを忘れる。
いつもそうだ。
きっと覚えていたい夢でも見ていたのだろうけれど、忘れてしまった後では思い出そうという気も起きない。
思い出してはいけない、思い出したくないことだってあるから、尚のことだ。
だから起きてすぐは、虚無感みたいな気持ちだけが残って、少し歯がゆい。
「いいかい、テナ。この世界は僕たち一人一人のために作られてなんかない。自由であると同時に、不自由でもあるのさ。都合の良し悪しなんてのは、あくまで主観でしかないから。分かるね」
私には彼の意図したことが分からなかった。
そして、理解できないまま頷いた私を見透かすように彼は微笑みかけた。
幼ながらにして、その表情は悲しみを帯びたものだと強く印象に残っている。
彼は言った。
「特別に意味なんてない。君は特別でありたいのか」
私は彼を永遠に覚えている。
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「やっと起きたのね。体調はどうかしら」
驚くほど透き通った声。
声のする方向に目を向けると、そこには小さな羽を纏った少女が不思議そうな顔で見つめていた。
いや、おそらく不思議そうな顔をしていたのは私の方で、彼女は私の表情を伺っているようだった。
白くて細い腕。なんて弱々しい体だろう。
彼女は今にでも倒れそうなほど、病弱そうに見えた。
「……あなたは?ここはどこなの」
よくぞ聞いてくれたと言わんばかりに、どことなく嬉しそうである。
彼女は大げさに考える素振りを見せ、人差し指を上にしてこう言った。
「雲の上、空の下!」
ああ、にやっと見せる表情がなんとも愛らしい。
ほっぺをつついてしまいたい衝動をなんと表現すればいいだろう。
彼女の言う通りだった。
見渡すとそこには、あたり一帯の雲の絨毯が広がっていた。
驚きのあまりに、思わずわあっと声を出す。
ーー少し落ち着こう。
私はどうしてこんなところにいるのか。
目を覚ます前の状況を思い返すーー。
「………私は……誰?」
空気が冷たいと思うと同時に少しだけ息苦しさを感じた。
ここが雲より高くに位置するからだろうか。
「あなた、何にも覚えてないの。あなたが倒れているところを私が看病してあげたのよ」
倒れていたのなら覚えていないのは当然ではないか!と思ったが、口には出さなかった。
「ごめんなさい、何も覚えてなくて」
ーー私は多くの記憶を失っていた。
覚えているのは、カインという彼の存在と彼への想いのみである。
はあ、やれやれといった溜め息をついてから彼女は見上げた。
「ここは超巨大な樹木の上。皆はこの木を『世界樹』やら『古代樹』と呼んでいるわ」
ごくり。
私たちが今腰掛けているのは、雲で覆われ、底が見えないほどの高さである。
落ちれば一溜まりもないことは明白だった。
「自己紹介が遅れたわね。私はイーティア。リリィ族のイーティアよ」
これが彼女、イーティアとの初めての出会いである。
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彼女の背中には半透明な小さな羽が生えていた。
服には羽が通るだけの切り込みがあるようだった。
「私たちリリィは生まれつき羽を持っていて、空を自由自在に飛び回ることができるわ」
そう言って彼女は空を飛んで見せた。
羨むほどに羽ばたく姿は実に優美である。
「私には羽はないのよねー?」
それを聞いた彼女は、笑いをこらえるのに必死といった素振りを見せ、ゆっくりと降りてから腰掛けた。
「本当に自分の種族も忘れちゃったの?名前も?」
忘れてしまったものは仕方ないじゃない。
それに思い出したくても思い出せないことは、いくらだってあるはず。
「そう。私が思うに、あなたはパーリアの生まれだと思うわ。パーリアはあなたのように色白だから」
パーリア?と質問を投げ返す前に、彼女は説明を続けた。
「この世界には大きく分けて四つの種族が生活しているの。《アーシェ》《パーリア》《リリィ》《ウェイルド》。それぞれが各地方に分かれて国を形成している。ここはリーヤン地方といって、各種族の子どもたちが集うリリィの国よ」
子どもたちが集う国と言われても、イーティア以外の姿を誰一人として見ていない。
「イーティアはこんなところにいつも一人なの?寂しくはない?」
私も彼と出会う前、彼女の年の頃はずっと孤独だった気がする。
「早いうちに誤解を解いてもいいかしら」
コホンと小さく咳立てて、言葉を選ぶように改まって彼女は言った。
「リリィは長寿なの。私の年齢も優に100を超えているわ」
なんと。5才ほどの身長をした可憐な少女が、実は老婆だとは、何より信じがたい。
努力はしたものの、驚きの表情を隠せてはいないだろう。
「ふふ。あなた、驚くのが上手ね」
彼女の話を聞いていても、何かを思い出す気配はなく、初めて耳にする知識そのものだった。
ーー私はなんで記憶を失ったんだろう。
「倒れたあなたを見つけたとき、今からちょうど半年くらい前のことかしら。古代遺跡の調査が行われてーー」
「ちょ、ちょっと待って。私は半年もの間、眠っていたというの」
ーー落ち着け。いや、記憶がないだけあって落ち着いてはいるけれど。
「そうよ。外傷はなかったから、すぐ意識を取り戻すと思って運んできたんだけれど、なかなか起きなくて」
驚きが重なって、頭がついていけていない。
「混乱するのも分かるけれど、いい?私が今から話すのは世界において、極めて重要な話よ。半年前、エルダー地方の古代遺跡から《古代遺産》が発掘されたの。古代の文明は今の私たちより発達しており、その遺産には今の世界を変えるだけの力があった。最初に遺産を発掘したパーリアはその力で世界を統治したの。これまで、世界情勢を動かしてきた《アーシェの天皇》を手にかけて」
なぜか、ハッとした。大切な何かを思い出せそうな気がする。
「それと同時に、突如として現れた《魔物》と呼ぶべき生物が世界中に蔓延ることとなった。遺産の発掘とあまりに同時の出来事だったので、魔物の原因は古代の何かだとも言われているわ。魔物と呼ばれるにふさわしく、彼らは凶暴であり、主に抵抗手段の持たない子どもたちを襲った。結果として世界総人口の三割を失うこととなったわ」
ーー遺産。
ーー天皇。
ーー魔物。
ーー『アルテナ』
「思い出した。私の名前はアルテナ!」
思い出したのはあくまで名前だけだけれど、私は確かにそう呼ばれていた。
「唐突ね。改めてよろしく、アルテナ」
結局、私は彼女の話を空想のように捉えることしかできなかった。
何しろ記憶がなければ、私自身の世界ですら、まるで他所の出来事なのだ。
「それにしても、世界総人口の三割だなんてあんまりだわ。カインは無事かしら…」
私が案じているのは世界ではなく、彼の安否である。
「大事な人なのね。残念だけれど、私が倒れていたあなたを見つけた時には、側には誰もいなかったわ」
「彼ならきっと無事よ。私の知っている彼はしぶとかったもの」
彼女はただ見つめるだけで、何も言葉にはしなかった。
当然のことながら、安否は断言できないのだ。
「私には彼しかないのよ。すぐにでも彼の元へ帰るわ」
彼がこの世界のどこかで生きていることは、私にとって明白な事実だった。
「……分かった。世界樹の上にまで運んでおいて申し訳ないけれど、地上へ降ろす代わりに頼まれてくれないかしら」
そう言って彼女は、いつにも増して真剣な表情でじっと私を見つめた。
「《聖典》を見つけて欲しいの。大変、貴重な書物よ」
それが何であるか、なぜ欲するかは訊けなかった。
有無を言わせぬ、気迫に押され、私は首を縦に振る他なかった。
「分かったわ。見つけられる保証はないけれど、あなたの頼みなら見つけてみせるわ」
ーー斯くして、記憶を失ったアルテナはカインを探す旅に出ることとなる。