第五話 魔女を継ぐ者(1)
「待てぇ!」
「殺すなよ! 生捕りだ!」
暗闇の荒野に、砂埃が巻き上がる。馬の蹄が高らかに大地を鳴らす。
「あぁもうしつこい!」
先頭を走るのは、自らの脚で駆ける、風防を目深にかぶった細身の人影。
「殺さなかったら何やっても良いんだよな!」
「あぁ、程々にな!」
馬に乗る後続の集団からは、下卑た笑い声が響く。
「僕は男だ…!」
彼は小声で毒づくが、しかし、性別の問題すらも無視してしまうような野蛮さが彼らにはあった。
「こんな所で捕まる訳には!」
馬によってじわじわと距離を詰められているのを確認すると、彼は腰元のバルカ刀を握る。
「ナモスアミタバュス──!」
疾走の勢いをなるべく落とさないよう、彼は走ったまま翻る。
「来るぞ! 『斬撃』のヴェントだ!」
「避けろ!」
後続の男たちは、咄嗟の判断で散々になる。中には、馬の背で立ち上がり、それを踏み台にして空中へと跳び上がる者もいた。
当然、逃げ遅れて真っ二つになる者や、落馬する者もいる。
「近付き過ぎだバカ野郎!」
「そのまま行け!」
しかし彼らはそんなことを意に介さず、死体を踏み潰しながらなおも進み続ける。
「良いか、捕まえた奴の手柄だぞ!」
「このまま止まるまで追い続けろ!」
仲間ではない、即席の子悪党集団だからこそできる戦法に、彼は苛立つ。
「賢いのか馬鹿なのか…!」
手加減しているとは言えど、集団の規模はほとんど変わっていない。
このままでは体力が尽き、取り囲まれるのは明らか。そうなれば確実に、彼らを皆殺しにするのは避けられない。
容赦など捨てよ。
「…嫌だね」
脳裏を掠める師の言葉を捩じ伏せ、彼は再び走り出す。
「このまま逃げられる所まで…」
せめて、馬が苦手とする険しい斜面がある場所に辿り着けば、逃げ切れる。
そう彼が考えた瞬間だった。
「うぉ!?」
大地が暗闇で分断されている。そう錯覚してしまうほどの、深く長い渓谷がそこにはあった。
「なんでこんな所に!?」
彼は慌てて急停止する。
それは形状からして、渓谷というよりむしろ地割れに近かった。その不自然な割れ目の底では、轟々と濁流が唸りを上げている。
「ハハッ! 追い詰めたぜ!」
「囲め!」
「ここで捕まえるぞ!」
男たちは、彼を取り囲むように横に広がる。最初から地の利は彼らにあり、追い込まれるように誘導されていたと気付く。
「最早、これまでか」
彼は柄を握りしめ、周囲の男たちと対峙する。彼らは馬から降りると、各々がヴェントを纏う。体が変形する、『異形』のヴェントが多かった。
「…死にますよ、あなたたち」
「強がりは止せ。この人数相手にどうするつもりだ」
彼は心の底から、敗れる気はしていなかった。ただ、無傷で済むとも思っていなかった。
「確かに『斬撃』のヴェントは脅威だ。だが、だからこそ対処されやすい。今のお前みたいにな」
やはり、と彼は内心溜息をつく。『魔女』の暴虐を凌いだ者たちは、対策を熟知している。
「良くわかっているじゃないですか。だったら…」
だが『知る』と『できる』には大きな隔たりがある。況してや、実際に命を賭す場面ともなれば。
「…避けてくださいよ」
柔和だった彼の顔に、無数の青筋が浮かぶ。眼球は一瞬にして血走り、剥き出しとなった歯が獰猛に噛み締められる。可愛らしい女性のような表情が、抜刀の直前にだけ鬼神のそれに変わった。
「なっ…!?」
その豹変ぶりに、男たちは脅えることすら忘れた。そして、抜かれて煌めく光刃に、最悪を直感する。
「ナモスアミタバュス──!」
刀身を優に越える『斬撃』が大地を抉る。そこから生み出された衝撃波が、間合いの外にいる人間を吹き飛ばす。斬圧により空気が吹き飛ばされ、彼らは体内の空気を強制的に吐き出させられる。その痛みはまるで鋭い風に切り刻まれたようであった。
「フーッ…」
彼がゆっくり息を吐く。彼の顔から血の気は引いていき、元の女のような顔に戻っていく。
「…化け物め」
斬撃の余波で吹き飛ばされた者たちもいたが、ほとんどが大怪我を負うことはなかった。
「手加減はしましたよ」
それが奇跡ではないのは明らかであった。現に、大地に残る斬撃痕の上には、死体が一つも無かった。奇しくも、その斬撃痕は地割れと直交するように刻まれていた。
「去れ。このままではお互い、殺し合いになる」
ただ濁々とした激流の響きのみが場を支配したが、それも束の間であった。
「…今さら退けるか。何匹の馬を無駄にしたと思っている」
「勘定ができないんですか。死んだら何も得られない」
「生き残れば問題無いんだよ!」
男たちは一斉に一歩踏み出す。
まさにその瞬間であった。
彼は自らの足元がわずかに傾くのを感じた。
「…まさか」
パラパラと瓦礫が谷底に落ちる音を皮切りに、彼のいた場所がごっそりと崩れ落ちる。
「嘘っ…!?」
彼は懸命に何かを掴もうと手を伸ばすが、悲しくもそれは空を切るばかりであった。
「退け! 退けぇ!」
「クソッ! 賞金が…!」
「手遅れだ! 逃げろ!」
周囲の男たちはおののき、一目散に踵を返す。
「うわぁあああ‼」
ただ甲高い彼の悲鳴だけが、深い谷間に響き渡った。