第二話 ワルモノたちのブルース
第二話
「呆れた。本ッ当に呆れた」
少女の冷めた声が、冷たい部屋にこんこんと染み渡る。
「うるさい」
「……シュウト、あんたねぇ!」
シィと呼ばれた少女は、目の前で寝転がる男に向かって吠える。
「あんたが宿は何とかなるって言ったから!」
「おい! 静かにしろ!」
少女の叫びは、外にいた男の声で遮られる。
「……だから言ったろ」
シュウトと呼ばれた男は、ごろりと寝返りをうつ。無関心を主張するかの如く、彼はシィの方を向くどころか、目を開けてすらいなかった。それでもシィは、鉄格子二枚の先にいるシュウトを睨み付けずにはいられなかった。
「わかったわよ。そっちがそういう態度取るって言うんなら、私だってもうあんたの言うことは鵜呑みにしない」
「……お前が布団で寝たいって騒ぎ立てたんだろうが」
「だからって牢屋!?」
シィは可能な限り小さく、けれど可能な限り怒りを込めて叫んだ。彼女は目の前の鉄格子をがっしりと掴む。通路を挟んで反対側、同じく鉄格子を嵌め込まれた部屋で寝転がるシュウトは、ようやくうっすらと目を開けた。
「屋根有り、壁有り、布団もあって、おまけに飯付き。何に不満があるって言うんだ」
「大有りよ! この齢で前科者だなんて……」
「心配するな。この街を出たら関係無い」
そう言ったきり、シュウトは再び目を閉じた。完全に外界を無視したその態度に、シィの腸は煮え繰り返る。
「うぅぅ……うぅぅ……クルィーザキ領に入ったばかりなのに……」
けれども、シィにはどうすることもできず、唸りながらただ頭を鉄格子にこすり付けることしかできなかった。そうこうしている内に、薄い壁一枚を挟んで隣の囚人が、シィのいる部屋側の壁を蹴る。どん、という鈍い音に、シィの体はびくりと跳ね上がる。
「ご、ごめんなさい」
正体のわからない隣人の主張に対して、シィの口からはか細い声しか出なかった。何か言葉を付け足そうとシィが思案を始めると同時に、こつこつと、固い床を踏み鳴らして、外から人が近付いてくる。
「静かにしろと言っているだろう」
鉄格子の外から、棍棒を持った男がシィを見下ろす。
「ごめんなさい」
「子どもだからって、食い逃げが許されると思うなよ」
「思ってないわよ……シュウトが……」
「何だ? 文句があるのか?」
「……いいえ!」
男はシィを忌々しそうに見下すと、シィの牢屋から離れていく。去り際のその冷ややかな目は、シィに自らの身分を再確認させる。彼女はとぼとぼと、自らの寝床に戻る。
「あぁ、お母さんごめんなさい。シィは親不孝者の駄目な娘です……」
牢屋の出入り口とは反対側、鉄格子が嵌め込まれた小さな窓からは、エデミュナグとオツィラック、二つの巨大な天体が輝いていた。
†
こんこんと、閉められた扉が二度軽く叩かれる。
「どうぞ」
「失礼します」
がちゃりと扉が開けられ、廊下から一人の少年が部屋の中に入る。
「レグネヴァール様。出立の準備が整いました。船乗りたちが言うには、内海も凪いでいるらしく、明朝すぐにでも船を出せるとのことです」
「そうか」
レグネヴァールと呼ばれた妙齢の女性は、少年を背に、窓の外を見つめる。暗闇が海と陸との境界を曖昧にし、ただ潮騒だけが、優しくその存在を主張していた。
港湾街、クワモス。ラガン大陸とラスタバルカ大陸との交易を支える、要所となる街である。
「それと、ご報告なのですが」
「何だ?」
「レグザナと、奴についてです」
レグネヴァールはゆっくりと少年の方を振り向く。少年の顔には緊張がありありと浮かんでいたが、彼女はそれを一切歯牙にもかけずに楽しそうに笑った。
「……先にレグザナの方を聞こうか」
「はい。レグザナと思しきヴェント使いが、ラガン大陸で散見されているようです。どうやらあの方が失っているのは、左腕のようでして」
「左? たしか奴は」
「はい。利き腕です。ですが、特に支障は無いようです」
「支障? ……あぁ、なるほど。昔に逆戻りというわけか」
レグネヴァールはくすくすと笑う。少年は不安そうに顔を曇らせる。報告にあったレグザナは、自身のヴェントを何の臆面もなく使っている。しかし、レグネヴァールは全くそれを気にしていない。
「遮ってしまったね。続けてくれ」
「……はい。目撃証言から推察するに、あの方はグラディオス大陸へと向かっているようです」
「グラディオス? なぜあんな未開の大陸に?」
「申し訳ありません、理由までは……。これはあくまでも推測でして。あの方の、これまでの動向を洗いきれていなくて……」
「いや、気にしないでくれ。愚問だった」
レグネヴァールは楽しそうに、顎に手を添える。
「ウルティオ。レグザナがグラディオスに向かっていると、推測したのは何故だ?」
「それは、目撃証言が新しくなるにつれて、あの方がグラディオスへと近付いているようなので」
その言葉を聞いて、レグネヴァールは黙り込む。ウルティオは数秒黙った後、彼女の目を見て口を開いた。
「どう、されますか?」
「まだしばらくは泳がせておけ。ここからグラディオスにまで足を伸ばすのは、些か骨が折れる。様子を見よう」
「わかりました」
「……それで?」
レグネヴァールの顔が変わる。楽しそうだった笑顔は、さらに深く深く、研ぎ澄まされる。
「奴は?」
「はい」
ウルティオは、喉が渇いているかのような錯覚に囚われ、静かに生唾を呑む。
「数ヶ月前、ラガン大陸で取引をした、小さな町のことを覚えていますか?」
「……八丁、取引した所か?」
「そうです。土塀に囲まれた」
「あぁ。覚えているよ」
「今から二週間前、あそこで、斧のようなものを振り回すヴェント使いが現れた、と」
「良し、良し! ……ちゃんとバカなんだろうな?」
「七以上は数えられない、と言っていたらしいです」
「それはまた大層なバカだ」
嬉しそうにはしゃぐレグネヴァールに、ウルティオは固い表情を崩さない。
「それで? 奴は?」
「はい。そのまま東へ、ラガン大陸の中央へと」
「あぁ、反対方向か」
一気に項垂れるレグネヴァールを見て、ウルティオはようやく肩の力を抜いた。
「その後の動向は未だ掴めておりません。しかし、報告のあった時期から考えると、そろそろクルィーザキ領に入る頃だと思われます」
「ふむ……だとすると深追いはできないか」
レグネヴァールは眉間に深い皺を寄せる。それにつられて、顔に刻まれた小さな皺たちも深くなる。しかし、その目だけは爛々と輝いていた。
「三年だぞ……三年待ったんだ……」
ウルティオは、必死に口から出そうになる言葉を抑え込んだ。彼女の悲願は、決して彼女のためにならない。そのことを理解して口を挟み、そして消えて行った同志たちを、彼はよく知っていた。
「奴の狙いは何だ……? このままクルィーザキ領に留まられでもしたら……」
レグネヴァールはぶつぶつと口を動かす。完全に沈思黙考の構えに入っており、そこにウルティオの事を顧みる余裕は無かった。彼は静かに、そして悲しげに自らの主を見つめた。ただ潮騒だけが、重苦しい沈黙を取り除いていた。
†
「ほら、さっさと出てけ。食い逃げ野郎ども」
その言葉とともに、若者と少女は屋外へ放り出される。彼らの足下には小さな影しかできず、その頬を太陽はじりじりと焼く。少女も遅れて、その後に続く。
「お前らのような旅人が、治安の悪化に繋がるんだ。こっちは良い迷惑だよ」
「……あんたらが仕事してないだけなんじゃねーの?」
「何だと?」
「シュウト、あんた何言ってんのよ!?」
シィは慌ててシュウトを睨み付けるが、シュウトは小さな欠伸を一つしただけだった。
「せっかく出してもらえたのよ? なんで喧嘩売るの!」
「事実だよ、事実。治安が悪いのは旅人のせいじゃない。そうだろ、保安官さんよ」
「貴様、また牢屋にブチ込まれたいのか?」
保安官は目に見えて苛立ち、シュウトを睨み付ける。しかし、微風を楽しむが如くシュウトはへらへらと笑うだけだった。
「よく匂うぜ、この街」
「……貴様」
「すっ、すみません保安官さん。この人バカなんですよ。大目に見てくれません?」
シィはぎこちない笑みを浮かべて保安官を説得しようとするが、しかし彼はシィを見てはいなかった。
「……お前ら、|二度と食い逃げなんぞするんじゃねーぞ《・・・・・・・・・・・・・・・・・・》」
「逃げてねーよ」
「シュウトは黙ってて!」
若い保安官はシィとシュウトを睨み付けると、踵を返して駐屯所へと引っ込む。その姿が完全に見えなくなったのを確認すると、シィはようやく一息つく。
「……ふん、偉そうにして!」
シィは駐屯所に向かって、人差し指と薬指を天に向けるようにして、拳を突き出した。
「何だ、それ」
振り返ることなく無関心そのもので保安官に背を向けていたシュウトは、少女のその仕種にだけ食いつく。
「あぁ、これ? これはね、簡単に言うと死……」
少女はそこまで口にして、はたと動きを止める。
「し?」
若者は軽く首を傾げる。その様子を見て、少女はにやりと笑った。
「これはね、ラガン大陸で、ありがとうって意味の合図よ」
「ふーん、そうなのか」
「そうよ。本当にシュウトは世間知らずね。今のは、泊めてくれてありがとう、ってあの人にお礼をしたの」
「へぇ。さすが、シィは物知りだ」
「でしょ? これならシュウトも覚えられるわよね」
シュウトは早速、手を動かして少女の真似をする。それを見て、シィはくすくすと笑う。
「このままずっとラガンを東に行くんでしょ? 覚えておいて損は無いわよ」
「確かにな。これは便利だ」
若者は真面目な顔で頷くと、すたすたと歩き始める。
「えっ? ちょっと、シュウト。どこ行くの?」
シィの言葉に、若者は何の反応を示さない。そのままどんどんと離れていく彼を見ながら、シィは慌てる。
「ちょっ……待ちなさいよ!」
シィはきょろきょろと周囲を見渡し、目当てのものをすぐに見つけ、大きく手を振る。それは、彼女たちが駐屯所から出てくる時からずっと彼らを見つめていた。
「ガーちゃん!」
シィの言葉に、駐屯所の傍で繋がれていた巨大な二足歩行の鳥が動き出す。自らを柱へと繋ぐ手綱を、嘴で器用に外すと、彼女へと駆け寄る。
「偉いね! 行こっか!」
ガーと呼ばれた巨鳥は嘴に銜えていた手綱をシィに渡すと、彼女の横にぴったりと寄り添う。小走りでシュウトに駆け寄るシィに合わせて、ガーはゆっくりと大股で進む。
「それにしても、一晩で出られるなんて幸運いてるわね」
「あぁ、勘の良い奴らで助かる」
「え?」
シュウトの言葉の意味を図りかね、シィはシュウトを見るが、彼がシィを見返すことはなかった。そのまま彼は迷いなく足を進めていくが、その方向がどうにもシィの不安を掻き立てる。
「……ねぇシュウト、どこ行くの?」
「東」
「そっちは南でしょ」
シィは手元の方位磁針を見ながら文句を言う。しかし、シュウトは聞く耳を持たず、ひたすらに街の中を進んで行く。
「シュウト。私、お金欲しい。そうじゃないと、また無銭飲食で捕まっちゃうよ? しばらくこの街で働いたら良いんじゃない? ここ、けっこう大きい街だからすぐに働く所も見つかるわよ。そしたらお金貯めて……、あの店にもお金返せるよ」
シィはシュウトの背中に語りかける。巨大な斧のようなものを背負った、彼の背中。その柄の部分に張ってある、六本の細い鋼の綱が、シュウトの背中で揺れて鈍い音を出す。まるでぞんざいな扱いに不満を漏らしているかのようだった。
「シュウト、聞いてる?」
「……やっぱり、そうだよな」
「え?」
シィが口から間の抜けた声を出すのと同時に、シュウトがぐるりと振り向く。シィは慌てて立ち止まり、巨鳥は彼の唐突な動きに全身の羽を逆立たせて警戒する。
「意外に」
「ん?」
「気が合うかもな。俺たち」
「……どうしたの?」
「俺もお前と同じことを考えていた」
「そうなの!?」
驚きと喜びが混じった顔で、シィは笑う。シュウトは再び前を向いて歩き出し、その少し後ろをシィとガーがついて歩く。シィは嬉しげにシュウトの背中に語りかける。
「うんうん、バカだバカだとは散々思ってたけどそういう所はちゃんとわかってるのよね、シュウトは! やっぱり路銀は欠かせないわよねー。終わるかどうかもわからない旅だけど、多少の蓄えは必要よ!」
シィは笑顔でまくし立てる。その前をシュウトは全く振り向くことなくすたすたと歩いていく。彼がどこに向かっているのか、後ろにいるシィには見えず、当然予想すらできなかった。しかし今のシィには、それはどうでも良いことだった。
「ねぇねぇ、何して働こうか! 私、給仕係やってみたい。昼下がりの表通りに屋外用の卓を並べて、お客さんに料理を振る舞うの。素敵じゃない? 可憐な新人給仕係の登場で、店は繁盛間違いなしよ。ガーちゃんの首に看板をぶら下げたら宣伝効果も抜群! その内、店の顔になったりして……」
「着いたぞ」
「それでシュウトはね……え?」
立ち止まったシュウトに合わせて、シィも立ち止まる。シュウトの背中に隠れてその全貌は見えなかったが、その店構えに彼女はとても見覚えがあった。シィは慌てて、身を乗り出すようにシュウトの横に並ぶ。
「ここって……」
「入るか」
「え? え!?」
シュウトは扉に手をかけると、わざとと思えるほどに力強く開けて中に踏み込む。まるで押し入るかの如き勢いは、殺されることなく、そのまま彼を卓の一つにつかせた。
「ちょっとシュウト!?」
置いてけぼりを食らい店の前に佇むシィを見て、シュウトは不思議そうに首を傾げる。
「何してんだ?」
「は!? いや、だって……」
その時になってようやくシィは、目の前の扉が閉まっていないことに気が付いた。まったくぴくりとも閉まる気配がなく、通りから店の奥までよく見える。それはつまり、店のどこからでもシィの姿が丸見えであることも意味していた。
「ひぃっ」
睨み付ける視線が、一斉にシィとシュウトを貫く。
「おっ、お前らは……!!」
「よぉ店主さん。一日ぶり」
背負っている巨斧を椅子に立てかけ、どかりと大きな音を立てながらシュウトは席につく。遠慮の欠片も無く、足を卓の上に叩きつける。
「品書は?」
「てめぇ……!」
がたりがたりと、先客たちが目を光らせて立ち上がる。その眼光は、店の外にいるシィを怯えさせるのに十分であった。
「ここは良い品よりも良い客が揃ってるようだな」
気概の欠片も感じられない姿勢で、シュウトは店主ににやにやと笑いかける。しかし店主は、ここにきてようやく平静を取り戻し、ただゆっくりと片手を挙げる。その挙動に、周囲の客たちは動きを止める。しかし、その顔触れはどれもこれもが不満に覆われていた。
「おい」
客の一人が声をかけるが、店主はそれを片手で制す。
「良いんだ」
押し殺すかのような声で店主が言うと、品書をシュウトに差し出した。シュウトはそれをぱらぱらとめくりながら、半目で眺める。
「……昨日と同じで良っか。二人前な。表の鳥には、適当に野菜くずでもやってくれ」
品書をぱたんと閉じると、シュウトは突き返すようにそれを店主の方に手渡す。
「お前、金は?」
「細かいことは気にするな……。あ、この言葉も昨日と同じか?」
喉の奥を震わせて、シュウトは上機嫌に笑う。店主の顔を覗き込むように、にたにたと笑う。しかし店主はそれを意にも介さず、店の奥、厨房へと引っ込む。
「おいシィ。どうした。早く入って来い」
「えぇ……」
シィはげんなりして肩を落とすと、巨鳥を店の外に待たせ、おずおずと店内に踏み込む。目、目、目。そのすべてが今にもシィをばらばらに引き裂かんとしているものばかりだった。
「ちょ、ちょっとシュウト。どういうこと?」
シィは小走りでシュウトの前に座り、彼に顔を寄せて小さな声で喋りかける。
「腹減ったろ?」
「そうじゃなくて! これじゃ昨日とまったく一緒じゃない!」
シィは昨日のことを思い出す。街に着いてすぐ、シィは食事と寝床をシュウトに要求した。すぐにシュウトは自信満々にこの店に入り、満腹になるまで食事を堪能した後、ふてぶてしく無一文であることを店主に告げた。その後は一晩、先程までいた保安官たちの詰所、もとい牢屋に連行されて放り込まれた。
「嫌よ、また牢屋なんて!」
「良いじゃないか、もう一晩ぐらいゆっくりしても」
「良いわけないじゃない! それに……何かおかしいよ」
「おかしい? そうか?」
シュウトはくすくすと笑う。珍しく機嫌が良いシュウトをシィは薄気味悪く思うが、しかし彼女は、シュウトの目がいつも通りにぎらぎらと光っていることに気付いていた。
「だって、そうでしょ?」
シィは周りを見る。屈強な男たちが、恨めし気に二人を睨み付ける。外に待たせている巨鳥が警戒心を剥き出しにするほど、その殺意は明確だった。しかし彼らは、昨日と同じく二人に対して一向に手を出さない。その気になれば、暴力的な手段に出ることも容易い──どころか、シィの見立てでは、そちらの方を好みそうな顔触ればかりだ。
「私たち、お金持ってないのよ? なんでご飯の用意してくれるのよ」
だが、彼らはその怒りを抑えこんでいる。しかも昨日は、大人しく保安官まで呼んで、シィたちを連行させた。
「さぁ? 不思議なこともあるもんだ」
シィの不安はどこ吹く風かと、シュウトは相変わらず笑ったままだった。ここにきてようやく、シィはその意地悪く光る眼を見て気付いた。何かを推し量るかのような、値踏みするかのような、その目に。
「……意地悪」
「何がだ?」
シュウトは楽しげに応える。けれどもその顔からはようやく、にやにやと小馬鹿にした表情が鳴りを潜めた。シィはシュウトの意図を、大まかに掴み始めていた。
「お、来た来た」
厨房の奥から、店主が皿を持って近付く。ぴくりとも笑わない表情と足音の大きさが、彼の心中をよく物語っていた。店主は無言で料理が盛られた皿を、二人分、卓に置く。同じく無言で、シュウトは食事を始める。そのシュウトの様子を、シィはまじまじと見つめていた。
「……何だ?」
「変なもの、入ってないかなーって」
「あぁ。入ってるかもな」
「え!?」
「変な匂いはしないから、大丈夫とは思うが」
喋りながらもなお、ぱくぱくと食物を口に運ぶシュウトに、シィは呆れる。荒野での旅路で数々の虫を生きたまま丸呑みしてぴんぴんしている男の言葉を、シィが信じる気はまったくなかった。彼女はそっと皿に触れて、目を閉じてそこに意識を集中させる。
「……大丈夫みたい」
「ほんほにほはえのうぇんほはえんいだな」
「食べながら喋らないでよ」
シィはおずおずと、料理を口に運ぶ。もぐもぐと眉をしかめながら食べるシィを、シュウトは不思議そうに見る。
「大丈夫じゃないのかよ」
「毒は入ってないけど……。麺は酷い茹で方だし、煮汁がさらさらすぎて全然麺と絡んでない。相性が最悪ね。おまけに煮汁は塩気が強すぎるわ。付け合せの野菜も生煮え。昨日も酷かったけど、今日はまた格段と……」
「ほうほう」
「あ」
シュウトの呑気な相槌を耳にして、シィは慌てて視線を上げる。彼女はようやく、自分の声が静かな店内に響き渡っていることを自覚した。
「……良い舌だ、お嬢ちゃん」
シィの背後から、低い男の声が重くのしかかる。振り向かずとも、彼女にはそれが誰かわかった。
「俺は美味いと思うぜ。少なくとも虫よりは」
「お前には言ってねーよ貧乏舌。腹下してくたばれ」
「生憎だが、俺の腹は虫たちにとって居所が良いらしい」
店主がようやく、シィの頭上でシュウトと会話らしきものを交す。シィにとっては、背後にいる店主が気になり過ぎて不味い食事が意識から消えたことが、唯一の僥倖であった。
「それに、味は舌だけじゃわからないもんさ」
店主は眉をぴくりと動かし、シィはこっそりとシュウトを見直した。料理における香りの重要さを、シュウトが如何にして知り得たのか、彼女には不思議でならなかった。
「これは七星花か? それとも幸辛草? 混ざりの安物だよな。しかも海を超えて来たから湿気ってやがる」
「やはりお前は……」
「この街に入った瞬間、ぷんぷん臭ってきやがるからよ。懐かしさで思わず、ボロい店だと気付かずに入っちまったぜ」
くすくすとシュウトが笑いながらこぼす。彼の言葉に、店主だけでなく客全員がシュウトへの警戒心を露わにする。先程までの単純明快な彼らの敵意が思案で薄まるのを、シィは肌で感じた。しかし彼女だけが、会話の内容からは完全に置き去りにされていた。
「肝の据わった奴だ。感心するぜ」
「そういうあんたらは、臆病者ばかりが雁首揃えているようだ」
「テメェ!」
「調子に乗るなよ!」
突如として響き渡る怒号に、シィはびくりと体を揺らす。ついに周りの男たちが立ち上がり、わなわなと体を震わせる。彼らの額には青筋が浮かび、筋肉は膨張する。
「食後の運動にはちょうど良い。付き合うぜ」
がたりと、弾けるようにシュウトが立ち上がる。彼が手に取った斧のような武器が、彼の勢いに同調するかのように、その身に張られた弦を震わせる。
「ちょ、ちょっとシュウト!? あんたこの人数相手に!?」
シィは慌てて立ち上がり周囲を見回す。シュウトの言葉に、周囲の男たちがにやにやと笑い始める。シィが見たことのない異様な武術の構えを取る者、剣や棍棒を握る者、そして中には体を変質させるものや火炎や風を纏う者までいた。
「ヴェント使いまで……」
「人数は多い方が、宴は盛り上がる。そうだろ?」
「あんた数えられないでしょうが!」
シィの叫びはシュウトにまったく届いておらず、彼は楽しそうに目の前の店主を睨み付けていた。
「これだけ人数に差があるのに、よくもそれだけ吠えられるもんだ」
「待ってください私は頭数に入れないでくださいお願いします」
シィは早口で捲し立てるが、それを聞き入れる者は誰一人としていなかった。
「つまんねぇこと言うなよシィ。まだまだ足りないぜ、こんなんじゃ」
シュウトはちらりと店の外へと目配せする。それにつられて、シィも扉の向こう側を見て、目を見開いた。
「何なら、表にいる奴らも招待するか? なぁ?」
「……え?」
唖然とした彼女の口から、思わず声が漏れた。店の外にいる二人組に、シィは見覚えがあった。油断なく彼らを見つめていたのは、二人の保安官だった。
「なっ!?」
ざわざわと店内が慌てふためく。彼らに宿っていた力が、その行き場を失くして彷徨う。ただシュウトだけが凛と構えたまま、不敵に笑っている。
「どうする? 俺は一向に構わないが?」
「……全部計算尽くってことか?」
「計算? 何のことだ?」
店主には、シュウトの言葉がただ惚けただけのように聞こえるだろう。しかしシィだけは、これが計算ではないことに気付いていた。彼女は、シュウトが計算できるほどの人間だとは微塵も信じていなかった。
「何が望みだ」
ただこれまでの一連の流れが、彼が無意識的に放つ横柄な口調ですらも、シュウトに味方しているのだ。シィは生唾を呑み込む。そんな彼女を、シュウトは見下ろす。
「こいつがよ」
「わっ、私?」
「働きたい、金が欲しい、とさ」
「……待っていろ」
店主は店の奥に引っ込む。その様子を、シィは呆気に取られて見つめていた。周りにいる男たちは、歯ぎしりをしてシュウトを睨み付けていた。誰も彼に跳びかかろうとしない。シュウトはその様子を見て、構えていた巨斧を納める。大して時間が経たない内に、店主が麻袋を持って戻ってくる。店主の手のひらに収まってはいるが、その体積はシィの顔程はあった。
「ほらよ、嬢ちゃん」
「え!?」
店主はその麻袋をシィに手渡す。見た目とは裏腹のずっしりとした重みに、シィは驚く。金属どうしが擦れて響き合う音、そして光を黄金色に反射する円形。
「食事への助言、その礼だ。飯は……賄だな」
「ん!? へ!?」
「おいっ! その金は……!」
「お前らは黙ってろ」
騒ぎ立てる男たちを、店主は一言で黙らせる。彼の顔は平静を装ってはいるが、呼吸は浅く、目は血走っている。
「嬢ちゃん。あんたは今日限りで解雇だ。二度と来るな。いや、来させるな、と言った方が良いのか?」
「そもそも雇われた覚えがないんですが」
「くくく、細かいことを言ってやるな、シィ。行くぞ」
シュウトはご機嫌で彼らに背を向ける。シィは慌てて彼の後ろを追いかける。扉を超えて外に出た時、ようやくシィは肺の奥まで空気を吸う。今の今まで満足に呼吸ができていなかったことを気付かされた。
「あ、そうだ」
シュウトはゆっくりと振り返り、右手を掲げる。その指の動きに、シィはとてつもなく嫌な予感がした。
「ありがとうよ」
シュウトは人差し指と薬指を天に向け、拳を突き出す。予感は的中し、シィの顔がみるみる青ざめる。
「──ッ!! 二度と来るんじゃねぇッッッ!!」
店の柱が震えるほどの店主の怒号が、街に大きく響いた。
†
「……良かったのですか」
「良いわけないだろう」
凪いだ海上で、レグネヴァールはすでに遠くなったクワモスの港を──ラガン大陸を見つめる。人混みの喧騒が消えた代わりに、船体に打ち付ける波と海鳥たちの鳴き声が耳を占める。
「だが、寄り道ばかりもしていられない」
燦々と照りつける陽光に、レグネヴァールは目を細める。しかしその目はしっかりとラガン大陸を、進行方向とは逆を捉えていた。
「我々の計画はあの日から、既に遅れてしまっている……。大義を忘れるわけにもいくまい」
「……おっしゃる通りでございます」
「ウルティオ、ラスタバルカ大陸に着いてからの予定は?」
「はい。このまま船が進めば、日が暮れるまでには到着となります。そこで宿を取っていますが、内海の状態次第では翌明朝すぐにでもブラファルド大陸へ出航となります」
「そうか」
その言葉を最後に、彼女が言葉を発することはなかった。ウルティオは一礼すると、甲板に留まったままのレグネヴァールに背を向け、船内へと去る。扉を開けて船内へ踏み込んだ直後、眼前に少女が立つ。彼女はまるで誰かを待ち伏せていたかのようだった。その顔を見て、彼は言葉に詰まる。
「どうだった?」
少女の言葉に、ウルティオは静かに首を横に振る。
「レグネヴァール様は、変わってしまった」
「ウルティオ、あなたは」
「勘違いするな。あの人への忠誠は変わらない」
ウルティオは悲しげな顔をしたまま少女の横を通り抜ける。
「あとでゼハズさんに、レグネヴァール様のために熱いお茶を淹れていただくよう、頼んでおいてくれ。海の上はまだ冷える」
「……わかりました」
少女は俯きがちに返事をする。彼女を置き去りにして、ウルティオは早々に薄暗い船内の奥へと歩いていく。その目はしっかりと前を見つめていたが、拳は固く握られていた。
†
「魔草!? それ極刑ものじゃない!!」
簡素に均された、クルィーザキ領内の街から街を繋ぐ『道』。道の両脇には大量の蛍光岩石が等間隔に置かれた道を、シュウトとシィは歩いていた。つい先日まで地図と方位磁針を握りしめ荒れた大地を歩いていたシィにとっては、素っ気ない道であっても、まるで絨毯が敷かれたかのように歩きやすい道だった。
「あぁ、やっぱりラガン大陸でもそうなのか」
「当たり前でしょ!? 麻薬の方がまだマシ……って、じゃああの店にいたヴェント使いって……」
「あぁ、偽物だ」
「たいへん! すぐ戻らないと!」
「待てって。戻ってどうするつもりだ」
「保安官に知らせるのよ! 決まってるじゃない!」
シィは慌てて元来た道を戻ろうとするが、シュウトは懐から金貨が詰まった麻袋を取り出す。
「戻れば、俺たちに待っているのは極刑だ」
「んなっ? そのお金ってそういう……」
「そういうことだ」
シュウトは金貨を懐に戻すと、すたすたと歩く。シィは肩を落とし、とぼとぼと彼の後ろをついて歩く。そんな彼女を見て、従者の如く彼女の隣を歩く巨鳥は、彼女を慰めるようにその巨体を寄せる。
「シュウトはわかってるの? 魔草が蔓延った街は……」
「心配すんな。あの街の保安官は、あの店で取引が行われていることをもう気付いてる。だから俺たちを店の外から監視してたんだ」
「え? だったら何で立ち入って捜査しないの?」
「さぁな。何かしらの理由があるんだろう。だから俺たちをたった一晩で牢屋から出したのさ」
「それって」
「俺たちに食い逃げさせたくないんなら、金貨の一枚ぐらい渡せば良い。だが、それをしなかった。あの保安官たちは、俺たちにあの店で一暴れして欲しかったのさ。乱闘騒ぎになれば、どさくさに紛れて保安官たちもあの店の中へと踏み込める」
「私たちを囮にしたの!?」
「そういうこと」
シィはようやく事態の全貌を把握した。シュウトは、あの店で乱闘騒ぎが起きない──起こせないことをわかった上で、二日連続で食事に集り、事態を察知している保安官たちを利用して金銭まで要求したのだった。
「最低。本当に最低よ。保安官まで……誰も彼も……まともな人間が一人もいないじゃない!」
「ああいう奴らが旅人を利用するのは常套手段だ」
「それだけじゃない! シュウト、あなたも! こんな大罪を見逃すなんて!」
そこまで言った所で、シィの脳裏に疑問が過ぎる。
「ちょっと待ってよ。じゃあ保安官の人たちが私たちのことを見張ってなかったら、どうするつもりだったの?」
「その時はその時だ。宴が始まるのさ」
平素とまったく変わらぬ口調で、シュウトは淡々と言い切る。シィは思わず頭を抱える。頭痛にも似た倦怠感が彼女の体に重く圧し掛かる。シィは改めて、自らの直感がある程度まで正しかったことを悟る。シュウトには、相手の弱みを利用するという発想はあっても、そこに駆け引きをするという概念が存在しないのだ。
「あの店にいる男たちが保安官を無視して襲いかかることは? 保安官が私たちを一日で牢屋から出さなかったら? そもそも、一番最初にあの店に入った時に殺されていたかもしれないのよ?」
彼にあるのはただ、彼自らが持つヴェントへの信頼。ただそれだけだった。無窮の信頼だけを抱えた行動はもはや賭博とは言わない。そのことをシィは知っていた。彼女の言葉に、シュウトは小馬鹿にした顔でシィを見下した。
「あのなぁ、シィ。一番最初に入った時も無料で飯が食えたし、牢屋も一晩で出られたし、あの店主は金をくれた。何が不満なんだ?」
「……シュウト、あなた本当にバカなのね」
シィは小さく深く息を吐き出すと、目を見開いて大きく息を吸い込んだ。
「何が“気が合うな”よ! 私はもっと真っ当なお金が欲しかったの!」
「根無し草を雇う物好きはいないさ。諦めろ」
へらへらとシュウトは笑う。シィの剣幕をさらりと受け流し、飄々と歩き続ける。
「あぁ……こんなお金、使いたくない」
「金は金だ」
「気持ちの問題なの! どうやって使えば良いのよ、こんなお金」
「考え方次第だろ。保安官たちはいよいよ犯罪に気付いて動き始める。あの店の奴らは秘密を守り通す。誰も損してない。この金は、あいつらの顔を立てた俺たちへの報酬さ」
「報酬? そんな変な話、今まで聞いたことないわ。あのね、シュウト。お母様が言っていたわ。人はお互いに助け合って生きているの。それを見える形にしたのが、お金なのよ?」
シィの言葉に、シュウトは肩を竦めてわざとらしく大きな溜息をつく。
「……何よ」
「シィ。そういう説教をする奴は、馬鹿と同じくらい早死するぜ?」
見下した為たり顔で、シュウトはシィを笑った。
「~~っ! 話を逸らすな!」
シィはもっと彼に言いたいことがあったが、何かを言おうとするよりも先にシュウトに背を向けられる。シィの中で、彼への憤りだけが跳ね回る。ひたすらに続く道を、シュウトは東へ向かって歩き出し、シィと巨鳥はその後ろを追いかけるしかなかった。シィは思い切り息を吸い、その背中に向かって吐き出す。
「私は絶対! シュウトより長生きするんだから!」
後ろを歩くシィには、彼の表情を見ることはできなかった。
to be continued...