5-3
「きゃあっ」
サクリ。
そのかすかな音は、驚くほどはっきりとセレイガの耳に届いた。
自分の体を含むあちこちで炎が燃えているのに、そのささやかで軽い音は、重い響きでセレイガの耳に届く。
その一瞬で、セレイガを取り巻く時間の流れが変わってしまった。
周りの全てが、
ゆっくり、
動いていた。
彼の思考、
だけが、
いつも通りの、
速さで、
動いて、
いる。
振り下ろした木刀で、おざなりにサルシュを突き飛ばし、振り向く。
「殿下、この女が、卑怯な真似を! 決闘に水を差すような、許しがたいことを」
見ればトウラが、浮き魚の上の立川に掴み掛かり、大声で喚いている。
必死でセレイガが彼女の元に駆け寄ろうとしても、非常に遅いスピードでしか近付けない。ただ彼の思考だけが無駄に空転していた。
浮き魚の事故防止の障壁は、すばやくぶつかる物以外を防いだりしない。トウラが手に握っている、小さな氷のナイフで、立川は傷付けられていた。
やっと背中くらいまで伸びていた、立川の美しい髪が、無残にも半ばで切られている。黒い髪が、パラパラと地面に散っている。
あの髪の一本一本までも、全てセレイガが呪われ囚われた、至高の存在。
美しい、セレイガのユニコーンの――。
「トウラ。貴様。きぃさぁまぁ」
セレイガは全身の痛みなど忘れ去っていた。どこよりも、こめかみが痛む。許せないと、セレイガの中の呪いが叫ぶのだ。
燃え始めそうなくらい、セレイガの聖痕は輝いていた。
「殿下っ。聖痕が、光って」
真正面でそれを見たトウラは自分の危機にも気付かずに、のん気に驚いている。
セレイガは黙って木刀を振った。
雑念が混じったせいか、木刀はトウラを溶かし切り裂くことなく、ただぶん殴った。
「うぐぁっ」
トウラが無防備に木刀の一撃を受けて、転がる。
「殿下! 決闘を途中で放棄されるのですか」
サルシュははっとして、不愉快そうに声をかけた。しかしセレイガは、不愉快を通り越して、通り越して、通り越していた。
「黙れ」
軽く腕を振るうと、セレイガの放った風の砲撃は、サルシュを障壁ごと小石のように弾き飛ばした。以前の魔力が戻っている。
木刀で殴られたトウラは、腹を押さえて地面の上でのたうっている。今度は、首の骨を折ろうと、腕を振り上げた。
「セレイガさん!」
殺シテハ、ダメ。
セレイガに寄生する呪いが、小声で言った。
振り上げた腕を、ゆっくりと下ろす。セレイガは、振り返った。
「立川君……」
「セレイガさん」
彼女は呆然と、浮き魚の上で立ちすくんでいた。
「立川君、他に、怪我は」
立ちすくむ彼女は、小さく弱々しく、セレイガにはどうすればいいのか分からなかった。
「だい、丈夫です。大丈夫です。少し、油断してしまって」
立川は肩先の髪をそっと掴んで、悲しげに目を細めた。
「怪我はどこにもありません」
口元だけで、弱々しく微笑む。
セレイガはどうすればいいのか、本当にどうすればいいのか分からなくなって、セレイガのほうが泣き出しそうになった。聖痕の光が、青みを帯びる。
「立川君、立川君、ユニコーン。俺はっ、俺は」
彼女が傷付いている。
傷ひとつ付けたくないと誓ったのに、守れなかった。
守ると約束したのに。
初めて、命じられたのに。
「守ると、言ったのに」
立川はそっとセレイガに微笑みかけた。
「仕方ないですよ、セレイガさん。大丈夫です」
大丈夫です。
初めから、守ってもらえるなんて思ってませんでしたから。
諦めを含んだ彼女の瞳が、そう告げていた。
そう、告げていた。
「うおぉぉぉ――」
セレイガは吼えた。
憎い、憎い。彼女が憎い。
期待などされていなかった。初めから、誓いなどなかった。
分かっている。守りきれなかったのは、自分だ。
弱い自分が憎い。愚かなセレイガ自身が憎い。
残酷な、彼のユニコーンが憎い。
「殿下」
風で吹き飛ばされたサルシュが起き上がりながら、声を上げた。土にまみれているが、障壁が効いていたのか、特にダメージは見えない。ニヤ、と笑いながら言った。
「殿下、目が覚めたんじゃないですか。あの女は、ユニコーンじゃなかった。これであの女は、ユニコーンじゃない」
セレイガは、右手に木刀を提げているので、左手でこめかみを撫でた。彼は見下しきった目で、サルシュを見た。この、聖痕の輝きが見えないのだろうか。
彼女がセレイガのユニコーンでないのなら、どれ程嬉しいだろう。たかだか髪を切ったくらいでこの呪いが解けるのならば、男として最低であろうと、立川の髪を丸坊主にだってしただろう。
最早彼女が死んだとしても、この呪いは解けない。セレイガの中に、セレイガの側にこそ、呪いはあるのだから。
体の中の、呪いに尋ねる。殺しては、ダメだ。殺さなければ、いいのだろう?
木刀に、炎を流し込む。風で背中を押しながら、サルシュに斬りかかった。
「中断して、悪かったな」
サルシュは、障壁を一部分だけ厚くして、セレイガの木刀を受ける。
「は、いいですよ。あなたを俺が、殺せるならね」
サルシュが片手で炎を生み出す。ごく近距離から放出された火の玉は、セレイガに当たる前に風の障壁でかき消された。大雑把で高濃度の魔力の障壁で、サルシュ程度の砲撃、避ける必要もない。
魔力が余っているので、風を全身に纏っている。障壁になるとともに、セレイガの体を上から覆って、風によって操っている。すでに体中穴だらけ、黒焦げだらけのセレイガは、痛みを無視して内部からの力と共に、外部からの風の圧力で体を操る。
「くっ」
体の傷を無視できるし、風の速さを扱えるようになる。サルシュが障壁を厚くするより先に、突き刺す。
殺す。いや、殺さない。
殺すものか。
「うぐっ」
木刀を抜いて、もう一度刺して、また抜く。
「炎よ!」
サルシュは砲撃を繰り出すが、セレイガは避ける必要もない。ただ、刀を振るうだけだ。
また、突き刺す。
死ね。
いいや、死よりも深い屈辱にまみれるがいい。
サルシュの腰、内臓に穴が空かないように足の付け根辺りに穴を開けた。刀を引き抜いた時セレイガは、急激に近付く敵の気配を察知して、サルシュから素早く離れた。
木刀を振って飛んできた石つぶてを弾き飛ばす。
単なる小石を投げ付けられただけだったが、小石は濃密な魔力を帯びて、サルシュの炎の砲撃よりも、よほど危険そうだった。
セレイガは木刀を構えて向きなおった。サルシュもぎょっと、小石の飛んできた方角を見た。
「……ユニ、コーン?」
サルシュは目を見開いた。呆然と、信じられないものを見てから、のろのろと首を動かしてセレイガを見た。
セレイガは嫌そうに吐き捨てた。
「ユニコーンか」
セレイガは横目でユニコーンの蹴り飛ばした小石を見る。やはり、この馬は学園の教師か何かだろう。ただの学園に飼われているだけの馬が、こんなに強いのでは堪らない。
構えていた木刀を下げる。彼は学園の関係者に勝てる気はしないし、勝てたとしても喧嘩を売るのが得策ではないことは分かる。立川が望むのならばなんだってするが、今彼が自分の従兄弟をなぶっていたのは彼のわがままで、立川の望みではない。学園の人間に制止されてまで行うようなことではない。
ユニコーンは首を伸ばして空を向くと、歌うように細く一声鳴いた。泣き声と共に馬の口からは黒いもやが吐き出されて、馬の頭上で広がると、パサリと落ちて広がった。もやが一度馬の全身を隠すと、馬は立ち上がった。
そこに居たのは、一人の男だった。
「僕の生徒をこれ以上傷付けさせるつもりは無い。もう勝負は付いているだろうが」
馬は、冷たげで美しい声で言った。輝くような独特の光沢のある白い肌と、美しい長い黒髪の、男だ。
「タイラン……」
サルシュは、夢のように呟いた。
「おまえが、いや。あなたが……ユニコーン」
そこに居たのは、サルシュの担任教師のタイランだった。
やっぱりあの馬は雄だったと、セレイガは冷静に考えて、興味を無くして立川の元に歩み寄った。




