そして星になったよ
大輔と真吾の兄弟が住む家の近くに、まるでソフトボールの上半分を切ったような岩山があた。
岩山は、高台にある住宅地の中に存在しており、その周りを囲むように家が立ち並んでいる。
岩山と言っても、二階建て住宅の二階天井くらいまでの高さしかなく、小学校の校庭の隅にあっても違和感がないくらいの大きさである。
また、まるで朝日が、海上から半分顔を覗かせているかのような綺麗な半円の形をしているので、近所の人達も縁起物のように好意的に受け入れていた。
しかし、よくよく見ると、表面上はデコボコしており、お世辞にも綺麗とは言えない。
一目見た時、人間のニキビ顔に似ていることから、いつしかその岩山は、「ニキビ岩」と呼ばれるようになった。
近所の子供達は、そのデコボコを利用して、ロッククライミングするかのごとく登って遊んでいた。
大輔と真吾の兄弟は、いつものように、学校からの帰り道、家に寄らずに真っ直ぐこの岩山に遊びに来ていた。
小学五年生の大輔は、去年の夏くらいからこのニキビ岩を登れるようになったものの、三つ年下の真吾には、この山は高すぎた。
「お兄ちゃん待ってよ」
「真吾にはまだ無理だよ」。
すいすい登って行く兄を羨ましく思いながら、真吾は今日も岩山登りに挑戦してみた。
窪みや出っ張った部分を利用して、左右の手足を交互に動かしながら兄の後を追ってみたが、途中で窪みに手が届かなかったりして、いつも半分くらいの所で諦めていた。
下まで降りた後、真吾はいつものように、兄がニキビ岩の上で楽しそうに遊んでいるのをただぼんやりと眺めているしかなかった。
しばらくして、早く帰れと言わんばかりに、夕方五時を知らせるチャイムが街中に流れ始め、大輔が手馴れた手付きで下りてきた。
「真吾、五時になったから帰ろうか」
大輔と真吾は、放り投げたままにしてあったランドセルを背負いながら、友達に別れを告げ、学校とは反対方向に歩き出した。
「兄ちゃん、あの岩の上には何があるの?」
真吾は、まだ見た事のない世界を早く知りたくて、兄に尋ねてみた。
「岩の上はなあ、景色が良くて気持良いんだぞ。僕達の家も小さく見えるし、ずっと遠く
まで見えるよ」
「遠くまで?」
「うん、海も見えるし、船も小さく見える。お父さんが乗っている船も見えるかもな」
「お父さんの船も?」
「うん、たぶん」
真吾は、いつか大輔のようにこのニキビ岩の上に立ってみたいと思っており、頂上にはきっと楽しい世界があるに違いないと考えていた。
ニキビ岩から住宅街を抜け、比較的交通量の少ない県道を渡ると、港まで通じる一本の
坂道に出る。その坂道を下りきった所に大輔と真吾が住んでいる二階建てのアパートがある。
ニキビ岩からなら子供の足で歩いて十分くらいの所だ。
大輔と真吾は、階段を上がり「石田」の表札が掛けられている玄関のドアノブを手前に引いた。
「ただいま」
大輔と真吾は玄関で靴を脱ぎながら、紀子に聞こえるように挨拶した。
聞こえるような大きさで言ったつもりだったが、その声の大きさは、学校で友達と話す時の半分くらいであった。
「今まで何やってたの?」
そう言いながら、リビングルームから紀子が出てきた。
ベージュに無地のTシャツ、ブルーのジーパン姿の紀子は、一見すると現役の女子大生と間違われそうなくらい若々しい。
目は一重でやや細く、鼻筋は通っているが、唇は薄く、スリムな体型のせいか、一見神経質そうな印象を与える。
紀子は、大輔と真吾の父・哲二の後妻であり、この兄弟の継母である。
哲二は、行きつけのスナックでアルバイトをしていた紀子と親密な関係になり、今年の年明け早々からこの家に住むようになった。
実の母親の孝子は、真吾が小学校に上がる直前に癌でこの世を去っていた。
「今日も真っ直ぐ家に帰らずにあの岩で遊んで来たんでしょ。何度言ったら分かるの?あの岩は危ないから登っては行けないのよ」
紀子は、諭すような口調だった。
「ニキビ岩には言ってないよ」
大輔は、か細い声で言った。
「うそばっかり。じゃあ、学校終わってどこに行ってたの?」
「学校のグラウンドで遊んでた」
「ほんと?ほんとなの真吾」
「う、うん」
「毎日毎日学校が終わってから日が暮れるまでグラウンドで遊んでいるの?そんなに学校が
楽しいの?」
大輔と真吾は黙ってうつむいていた。
「なんで黙っているの?ウソ付いたってダメなのよ。私知ってるんだから。いつもニキビ
岩に遊びに行ってるんでしょ。どうしていつも学校が終わったら真っ直ぐ家に帰って来な
いの?心配するでしょ。前のお母さんがいた時もそうだったの?それとも私が家にいたら
帰りづらい?」
紀子は腰に手をあて、兄弟を見下ろすように言った。
「何で僕達を睨むの?何も悪いことしてないよ。ニキビ岩に行ったらいけないの?お母
さんはそんなこと言わなかった。お母さんはもっと優しかった」
大輔が言い終りかけた時、紀子は持っていたファッション雑誌を丸め、思い切り大輔の
頭を叩いた。その勢いで大輔が二、三歩後ろへよろけ尻餅をついた。ファッション雑誌の
表紙を飾っているモデルの顔が歪んだ。
「お母さん、お母さんって、あなた達の本当のお母さんは死んでいないの。今は私があな
た達のお母さんよ。また死んだお母さんの話ししたら怒るからね。分かったらさっさと部屋に行きなさい」
紀子は、雑誌の表紙を気にしながらリビングルームに戻った。
「兄ちゃん大丈夫?」
弟の問いかけにも答えず、大輔は目を赤くしながら、下唇に歯の跡がつくのではないか
と思われるくらいに懸命に歯を食いしばって立ち上がった。
真吾は、兄の後を追うように、無言のまま玄関のすぐ横にある自分達の部屋に入って行った。
大輔と真吾が使っている部屋の広さは六畳だが、二人分の机と二段ベッドがあるため、それほど広さを感じない。
「兄ちゃん、大丈夫?」
大輔は何も答えずに、ランドセルを机の上に置き、ベッドに潜りこんだ。山になった布団
が小刻みに震えていた。
真吾も大輔と同じようにランドセルを机に上に置き、二段ベッドの上に上がった。
(本当のお母さんなら、あんなに怒ったりしない。叩いたりしない。お母さんに会いたい
なあ)
真吾は、微かに憶えている母親の優しさを思い出しながら、ベッドの上で座ったまま、
兄が泣き止むのをただじっと待っていた。その内、眠くなったのか、ベッドに横になった。
「真吾、起きろよ。しんごっ」
兄の声に目が覚めた真吾は、いつの間にか自分が寝てしまっていたことに気付いた。
「真吾、お腹すいただろ。お兄ちゃんがラーメン作ったから一緒に食べよう」
「お姉ちゃんは?」
真吾は目をこすりながら兄に尋ねた。
「あいつならどこかに遊びに行ったみたいだ」
紀子は、海上自衛官である哲二が、航海で家を空けることが多く、それを幸いとばかりに、週に何回かは一人で遊びに出かけていた。
真吾は、リビングルームで、大介が作った、インスタントラーメンを、汗をかきながら兄と一緒に食べていた。
「兄ちゃん、お父さんはいつ帰ってくる?」
「それは兄ちゃんにもわからん。あと一ヶ月くらいしたら帰ってくるかもな」
「いっかげつ?」
「うん、あと三十回寝ればいいんだよ」
「あと三十回寝たらお父さん帰ってくる?」
「うん、帰ってくる」
「お土産いっぱい買ってきてくれるかな?」
「うん、買ってきてくれるよ。真吾がおりこうさんにしていれば」
(あと三十回寝ればお父さんに会える。楽しみだなあ・・・)
真吾は額の汗を拭きながら、哲二と会える日を心待ちにしていた。
日中はうだるような暑さも落ち着き、朝晩が日を追うごとに過ごしやすくなってきた十月初旬のある日、真吾は学校が終わると、寄り道もせず急いで家に帰った。
昨夜、紀子から、哲二が明日帰ってくるから、学校が終わったら、真っ直ぐ家に戻って
くるようにと言われていたのだ。
「ただいま」
玄関には、真吾の履いている靴より倍近く大きい黒の革靴がきちんと揃えられていた。
哲二が航海を終え、約五ヶ月振りに我が家に帰ってきた。
真吾はランドセルを背負ったまま、リビングルームに入って行った。
哲二はソファに座ってテレビを観ていた。
「おお真吾!」
「お父さん、お帰り!」
「真吾、元気だったか?おりこうさんにしていたか」
真吾が走りながら体当たりするかのように飛びついてきたのを、哲二はソファに座ったま正面から受け止めた。
「学校はちゃんと行っているか?誰かにいじめられてないか?」
哲二は、真吾を思いっきり抱きしめた後、横に座らせながら聞いた。
「うん、ちゃんと学校行ってるよ。勉強も楽しいよ」
「勉強は何が一番好きだ?」
「う~んと、算数かな、あと漢字もおもしろいよ」
「担任の先生は優しいか?」
「うん、とっても優しいよ。僕大好き」
「そっか、それならお父さんも安心だな。お兄ちゃんはまだ学校か?」
「うん、もうすぐ帰ってくるよ」
「お父さん居なくて淋しかったか?ずっと留守にしててごめんな。明日から二週間くらい
は仕事休みになるから、お兄ちゃんと一緒にキャッチボールしたり、遊園地行ったり色々
遊ぼうな」
「ほんと?」
「ああ、お父さんはウソつかないぞ」
「やった!」
真吾は、ランドセルを下ろすのも忘れて、父との久しぶりの会話を楽しんでいた。
その日の夜は、哲二の提案で、近くのファミリーレストランで、久々の家族四人での夕
食となった。
真吾は、父哲二が家にいる時は、トイレ以外はずっとそばを離れなかった。哲二がソフ
ァでテレビを観ている時は、真吾も一緒に哲二の横でテレビを観てるか、マンガ本を読ん
でいたし、買い物に行く時も一緒に付いて行った。
ある日の夜、真吾は、いつものように哲二と一緒にフロに入っていた時、以前から疑問
に思っていたことを聞いてみた。
「ねえお父さん、お母さんはほんとに死んじゃったの?」
「うん、そうだなあ。もうお母さんには会えないけど、死んではいないよ。お母さんは星
になったんだよ」
「お母さん、お星様になっちゃったの?」
「ああ、そうだよ。お星様になったんだよ。だから、空から真吾を見守っているのさ。真
吾はお母さんの顔見れないけれど、お母さんは真吾の様子をじっと見てるんだよ」
「そうなんだ・・・」
真吾は恥かしそうに微笑んだ。
「よし、真吾、二十数えたら上がるぞ」
週末になると、哲二と大輔、真吾の三人は、遊園地やドライブなどで家族水入らずの時間を心から楽しんだ。紀子は、色々理由を付けて決して一緒に行こうとはしなかった。
二学期の終業式があったその日、日本上空に強い寒気が流れて来た影響で、真吾が住んでいる西九州地方にも初雪が見られた。
「わあ!雪が積もってるぞ」
真吾は、学校が終わると、校庭で同級生達と雪合戦を始めた。
真吾にとって、グランドが白一色になったのを目にしたのは生まれて初めてであり、雪合戦もまた初めての体験であった。
手を真っ赤にしながら、雪を手のひらサイズにまるめ、近くにいる友達に投げたりして遊んでいた。
「真吾」
声のする方へ振り向いた途端、真吾の顔に白くて冷たいものが覆った。
「わあ、冷たい!」
「ばーか、油断するなよ」
「兄ちゃん、いつからいたの?いきなり投げるなんてずるい!」
「いきなりじゃないだろ。真吾ってちゃんと声かけただろ」
真吾は、兄と一緒になって雪を投げ合ったり、雪だるまを作ったりして、初めて触れる雪の世界を存分に楽しんだ。
大輔と真吾は、しばらく遊んだ後、二人並んで学校を後にした。
「兄ちゃん、今日サンタさん来るかな?」
真吾は、シャーベット状になった歩道を歩きながら兄に尋ねた。
「うん、来るよ。絶対来る」
「兄ちゃんはサンタさんに何をお願いしようと思ってる?」
「まだ決めてないんだ。何にしようかな。真吾は?」
「僕は、お母さんに会いたい」
「え?」
「お母さんに会えるようにって、サンタさんにお願いしようかな」
「う~ん、それは無理だと思うな」
「どうして?」
「お母さん、死んじゃっただろ?もし会えるとしたら、幽霊になって出てくるかもしれないぞ」
「でも、お父さん言ってたよ。お母さんは死んでない、星になったんだって」
「ほし?」
二人は、ニキビ岩がある住宅街を通り抜け港に通じる坂道を下り始めた。
「お母さんが、星になって僕達を空の上から見てるって、お父さんが言ってた」
大輔は黙っていた。
「ねえ、お兄ちゃん、もうお母さんには会えないの?死んじゃったから会えないの?」
「会えるよ」
「いつ会える?」
「わかんない。でも今日は無理だと思う」
「なんで?」
「わかんない」
大輔のうつむきながら歩いている横顔を見て、真吾も黙ったまま並んで歩いた。
大輔が持っていた鍵で玄関を開け、リビングルームへ行くと、テーブルの上に置手紙が
あった。
(大輔と真吾へ 今日は、美容室に行って来ます。それと他にも色々用事があるから、遅
くなります。パパが帰ってくるまでには家に戻ります。)
「何て書いてあるの」
真吾が尋ねた。
「紀子ねえちゃん遅くなるって」
大輔は、困ったような顔をして、手紙をテーブルの上に置いた。
日が暮れ、室内もすっかり暗くなった頃、哲二は仕事を終え家に帰って来た。
「二人とも電気も点けないで何してんだ」
哲二は、リビングルームの電気を点けながら言った。
「お父さん、お帰り」
二人は、テレビゲームに夢中のあまり、辺りが暗くなっているのに気がつかなかった。
「紀子ママは?」
哲二がネクタイを解きながら聞くと、大輔がテーブルに置いてある手紙を渡した。
「なるほど」
哲二は、手紙を読み終え一瞬唇を尖らせた後、大きくため息をついた。
「紀子ママは遅くなりそうだから、今夜は外食にしようか。何が食べたい?」
哲二は、諦めにも似た表情で、大輔と真吾に聞いた。
「ピザが食べたい」
その日の夕食は、真吾のリクエストにより宅配ピザとなった。
電話で注文してから二十分後にピザが届いた。
「紀子ママはお父さんが出張でいない時も、どこかに出かける事が多かったかい?」
哲二は、ピザを一切れつまみながら、大輔に尋ねた。
「うん、時々出かけてた」
「どこに?」
「わかんない、何も言わないで出かける事が多かったから」
「そっか」
哲二は、ダイニングチェアーにもたれながら深くため息をついた。
「せっかくのクリスマイブだというのに、紀子ママは何をしているのだろう?帰りも遅くなりそうだし、しょうがないから、ケーキも紀子ママ抜きで食べようか?」
やがてピザを食べ終わり、哲二が買ってきたケーキを開けようとした時、紀子が息を切らしながら帰ってきた。
「遅くなってごめんなさい」
「こんな時間までどこに行ってたんだ?」
哲二は努めて冷静に言った。
「美容室に行った後、友達の買い物に付き合わされちゃって。ほんと遅くなってごめんな
さい」
「友達って誰だ?男か?」
「違うわ、そんなはずないでしょ?学生時代の友達に決まってるじゃない。私の事疑って
るの?」
「紀子は、俺が航海のために長い間留守にしている時も、あちこち遊び回ってたんだろ?ちゃんと子供達の面倒見てくれていたのか?」
徐々に哲二の声が荒くなっていった。
「そういう哲二さんだって、航海って大変な仕事しているようだけど、あちこち外国に停泊するんでしょ?その時は休みになって遊び回っているんじゃないの?私は哲二さんがいなくて大変だったのよ。子供二人いて不安な時もあったわ。あなたには分からないでしょうけど、これでもストレス溜まるのよ。あなたが長期出張で家を空けてた時、たまに遊びに行ったわ。でも何も後ろめたいことなんかしてない。私が遊びに行って何が悪いの?」
紀子は今にも泣き出しそうになっていた。
哲二はかぶりを振りながら、箱を開けたままにしてあったケーキを取り出し、用意して
あったナイフで四等分に切ろうとした。
「この際だから言わしてもらうけど、本当は私あなたと結婚するのためらったわ。だって
子供産んだことがないのに、いきなり二人の男の子の母親よ。おまけにあなたは留守がち
で、今年の夏なんか五ヶ月も留守にしていたじゃない。哲二さんは航海中あまり電話くれなかったし、電話で話してても上の空。付き合っていた頃はもっと優しかった。男ってみんなそうなの?哲二さんには私の気持なんか分からないのよ」
紀子は、今までの鬱憤を吐き出すかのように早口でまくし立てた。
「もうケンカしないで」
震える声で大輔が言った。
紀子は、持っていたハンカチで顔を覆うようにしながら、家を飛び出して行った。
「大輔、真吾、ごめんな。せっかくのクリスマスイブだっていうのに。最悪のクリスマス
になっちゃったな」
哲二は、さきほどから持っていたナイフでケーキを切り始めた。哲二の手のひらは、握
り締めていたナイフの柄の形がくっきりと残っていた。
その夜、真吾は母・孝子と一緒に公園で弁当を食べている夢を見た。その公園は、港が
見下ろせる高台にあり、桜の名所として多くの見物人が訪れている。
真吾は、毎年桜が見所の時期に、家族皆でこの公園で母が作った弁当を食べるのを。と
ても楽しみにしていた。
料理好きだった孝子は、三段の重箱一杯に色とりどりの弁当を作っていた。ごはん一つ
取っても、海苔巻き、いなり、赤飯などで、おかずは、エビフライ、鳥のから揚げ、たこ
の形にアレンジしたウインナー、春巻き等、種類が豊富で、見た目にもとても鮮やかなも
のであった。
「お母さん、ハンバーグ取って」
「はい。真吾大好きだもんね」
真吾は、孝子の隣でもたれかかるように座って、母がとってくれた大好物のハンバーグ
を食べ始めた。
「お母さんが作ったハンバーグとってもおいしい!」
真吾は、孝子を見上げながら言った。
「ほんと?良かったわ。真吾にそう言ってもらうと、お母さんとっても嬉しいわ」
しかし真吾の目に映ったのは、実の母の孝子ではなく継母の紀子であった。
(違う、この人はお母さんじゃない。お母さんはどこに行ったの?)
「真吾、しんご、起きろ」
真吾は、哲二に体を揺り動かされ目を覚ました。
大輔が、うなされている真吾を見て、哲二を呼んで来たのだ。
「真吾、どうしたんだ?うなされていたぞ。変な夢でも見たか?」
「お母さんと一緒にお弁当食べている夢を見た。でも、その人はお母さんじゃなかった」
「そっか。真吾、お母さんに会いたいか?」
哲二は、真吾を強く抱きしめながら言った。
「うん、会いたい。お母さんに会いたい」
「そっか、真吾ごめんよ」
そばに居た大輔も、哲二につられるように涙が溢れ出た。
真吾の枕元には、「サンタさんへ お母さんに会わせて下さい」と書いた手紙のそばに、赤と緑のリボンで結ばれた箱が置いてあった。
街は、クリスマスから年末へと賑わい始めたある日、仕事から帰宅した哲二は、郵便受
けから、一通の手紙を取り出した。
差出人は紀子からで、住所は哲二が知らない町の名前が書かれてあった。
哲二は急いで玄関を開けると、仕事帰りに寄ったスーパーの買い物袋とかばんを置き、靴を履いたまま封を切った。
(哲二さんへ。この前のクリスマスの時は取り乱したりしてごめんなさい。でも、あの時
話した事は、全て私の正直な気持ちでした。私と哲二さん達と一緒に暮らし始めて、も
うすぐ一年になるけど、楽しい思い出より辛い事が多かったような気がします。哲二さん
が留守だった時、ついカッとなって大輔や真吾を叩いたりした時もあったし、子供達を置いて
一人で勝手に遊びに行った時もありました。母親失格です。結局私はあの子達の母親にな
れませんでした。これから先もあの子達を育てて行く自信がありません。それに、今まで隠していたけど、やっぱり私、自分の夢にもチャレンジしてみたいの。哲二さんとの結婚で一度は諦めたけど、やっぱり夢を追い求めて行きたいって思ったの。我侭言ってごめんなさい。最後にひとつだけ言わせて。哲二さんの事今でも愛しているし、あの子達の事も大好きよ。ただ、私が至らなかっただけ。ほんとうにごめんなさい。 紀子)
手紙の他に、紀子の判が押された離婚届も同封されていた。
「お父さんお帰り」
真吾が出迎えた。
「ただいま」
哲二は、手紙を上着ポケットに無造作に突っ込んだ。
「よーし、大輔、真吾、今夜は、すき焼きにするか!肉もたくさん買って来たぞ!」
哲二が離婚届に判を押したのは、紀子と暮らし始めてあと一週間でちょうど一年になる
一月四日だった。
始業式を明日に控えたその日の夜、真吾は、哲二と大輔の三人共同で、大好物のカレーライスを作ることになった。
「紀子ママが出て行ってから二週間になるから、お前達は薄々分かっていただろうとは思
うけど、紀子ママはもうこの家には戻って来ないんだ」
人参を切りながら、哲二が話しを切り出した。
「どうして?」
そばでジャガイモの皮を剥いていた真吾が不思議そうな顔で聞いた。
「うん、紀子ママは、高校生の時くらいからデザイナーになる夢を持っていたんだ。高校
卒業して夜働きながらデザイナーの勉強してたんだよ。お父さんと結婚した時に諦めたと
思っていたけど、もう一度やってみたいだってさ」
「僕達のせいじゃないの?僕達と一緒に居るのが嫌で出て行ったんじゃないの?」
「大輔、それは違う。お前達のせいじゃない。お前達が居なくても、結局は同じ事になっていたと思う」
三人は、その後黙ったままカレーライスを作り、夕食を終えた。その夜に食べたカレーライスは、真吾にとって今までで一番まずいものになった。
新学期が始まり、学校が終わると、真吾は久しぶりにニキビ岩に直行した。北風が吹く寒い一日であったが、一緒に遊びに来ていた同じクラスの友達と鬼ごっこなどをして、走り回っていた。
やがて、友達も一人減り、二人減り、最後に真吾一人になった。
「お兄ちゃん、遅いなあ。真っ直ぐ家に帰ったのかなあ」
真吾は、昨夜大輔と、始業式が終わったら、ニキビ岩で一緒に遊ぶ約束をしていた。
真吾は、大輔が家に帰ったと思い、自分も家に帰ることにした。
住宅街を抜け、港に通じる長い下り坂に差し掛かった時、反対方向からスーツ姿の哲二
が走って来るのが見えた。
「あっ!お父さんだ」
真吾は、ランドセルを左右に激しく揺らしながら走って行き、哲二に跳びついた。
「お父さん、僕を迎えに来てくれたの?」
「真吾、お兄ちゃんが、大輔が車に轢かれたんだ」
哲二は、強く真吾を抱きしめた。
大輔は、下校途中、ニキビ岩に行くために車の交通量の少ない住宅街を通っていた時、一時停止を怠った乗用車に轢かれてしまったのだ。
その日通夜が営われ、大輔の担任の教師やクラスメートらが次々と弔問に訪れた。
「お父さん、お兄ちゃんは死んじゃったの?」
真吾は、棺の前でうつむいて座っている哲二に聞いてみた。
「いや、お兄ちゃんは死んでなんかないよ。星になったんだ」
「お兄ちゃんも星になっちゃったの?」
「ああ、そうだ」
「じゃあ、お兄ちゃんとお母さんは一緒の所にいるのかな」
「そうかもしれない。お兄ちゃんは、お母さんの所に行ったんだよ、きっと」
「ふ〜ん、いいなあ、お兄ちゃんだけ」
真吾は、そう言いながら、笑っている大輔の遺影をじっと見た。
翌朝、真吾は起きてすぐ、大輔が寝ていた布団を捲ってみた。大輔が寝ているような気がしたのだ。その後、トイレ、リビングルームなどを探してみたが、やはり大輔はいなかった。
真吾にとって、大輔のいない朝は初めてであった。
真吾は窓を開けてみた。ジョギングをする老夫婦、新聞配達をしている学生、真吾が目にするいつもと変わらない朝であった。だが、真吾にとって兄のいない朝は想像できないことであり、自分は違う家に連れて来られたのではないかと錯覚するくらい、周りの風景が違って見えた。
初七日が終わり、真吾は一人で登校した。授業中もどこかぼんやりして集中できなかった。下校する時、友達にニキビ岩で遊ぼうと誘われたが、兄のいないニキビ岩には何の魅力も感じなかった。
真っ直ぐ家に帰ってきた真吾は、兄と一緒に遊んでいたテレビゲームをして哲二が帰って来るまでの時間を潰すことにした。
辺りが薄暗くなった午後六時過ぎ、森の熊さんのメロディが流れた。哲二からの電話だった。
「ごめん、真吾、今日はちょっと遅くなりそうなんだ。お腹空いたら、戸棚にあるお菓子食べててくれ」
「うん、分かった。早く帰ってきてよ」
真吾は、言われた通りに戸棚からスナック菓子を取り出して、毎週欠かさず見ているアニメ番組のチャンネルに合わせた。
そのアニメ番組は、学校でも話題になるほどの人気アニメで、主人公やストーリー等についてよく大輔と話をしていた。
今の真吾にとって、一人で観るテレビは、時代劇を観るくらいにつまらないものに思えて、途中で再びゲームに切り替えた。
ゲームにも飽きてきた頃、再び電話から軽やかなメロディが流れた。
「真吾、ごめんよ。七時過ぎたな。お腹空いたか?お父さん、八時過ぎには帰れそうだから、それまで我慢しててくれ」
真吾は、さきほどと同じ返事をして受話器を置いた。
ふと、窓に目をやると、空には星が瞬いていた。
真吾は、何かを思い出したかのように、家を飛び出し、ニキビ岩へ向かった。
初めて見る夜のニキビ岩は、昼間よりも数倍大きく見え、まるで巨大な隕石が半分埋まっているかのようであった。
真吾は、哲二が買ってくれた手袋をはめ、慎重に岩を登り始めた。
いつもは届かなかった窪みに手が届き、初めて岩のてっぺんに立つ事が出来た。
真吾は、今まで見ることが出来なかった景色を見て感動した。
規則正しく並んである家々に明かりが点っており、その間を縫うようにして走る車もミニカーのように小さく見える。遠くに青く光海が見え、そのはるか向こうには、明かりが点いたり消えたりしている建物が幽かに見えた。
(あそこがお兄ちゃんが言ってた港なんだろうな)
空を見上げると、幾つもの星が散らばっていた。
(お母さんとお兄ちゃん、どこにいるんだろ?僕も星になってお母さんに会いたい。お兄ちゃんと遊びたい)
真吾は、飽きることなく満天の星空を見上げていた。
この小説は、僕が生まれて初めて書いた短編小説です。作品そのものの出来、不出来より、書き上げた充実感の方が大きかった。これかも、駄作を、ちょくちょく書いて行きたいと思います。