「大丈夫。ここを動いちゃだめよ?」
何が起こったのか、良平は最初理解できなかった。芽衣と弁当を食べ終わった直後のこと。ぶん、ぶん、ぶん、と大きな羽音のような音が聞こえてきたのだ。音の出所を探ろうとキョロキョロと見回していると、教室の外に面している窓が突然割れた。
きゃぁっ、とめぐみと洋子の悲鳴。割れた窓は左端の列、一番後ろの席のすぐそばの窓。前後二つの机を向かい合わせにして勉強をしていた彼女たちにガラスの破片が降り注ぐ。
「っ……なんなのもう、洋子、大丈夫?」
両腕で顔を覆い、目を閉じ、とっさにガラスから目を守っためぐみは腕を下ろし眼を開けた。腕や頭に乗っていたガラスがぱらぱらと落ちていく。
「……あれ、洋子?」
めぐみは向かい合って座っているはずの洋子がいなくなっていることに気づく。とっさによけたのだろうか。運動神経のよう彼女ならあり得そうな話だが、違った。教室を見回してもその姿は見えない。と、めぐみは教室にいる、他の生徒の様子がおかしいことに気付いた。皆一様にこっちを見ている。いや、突然窓が割れたのだから、その行動自体はなにもおかしくはない。妙なのはその表情だった。
それは驚愕と恐怖の表情。皆一様に青ざめた目で見ている。そこでめぐみはその視線が自分ではなくいましがた割れた窓の外に向かっていることに気付いた。
めぐみは振り返った。そこには洋子がいて、こっちを見ていた。
「……え」
ただし、その顔に右目はなかった。
めぐみの悲鳴が響く。その光景に良平も芽衣も動けなかった。洋子の体は血液にまみれ、その小さな体には大きな爪が食いこんでいた。顔は真っ青で、舌がだらしなく飛び出している。
めぐみが窓に背を向けて逃げだす。洋子の体が上に持ち上げられ、見えなくなった。代わりに窓の外に現れたのは、黄色と黒の縞模様が入った大きな塊。
鉄がひしゃげるような凄まじい音が響いた。めぐみは足がもつれて、うつぶせに倒れる。
その塊が窓枠を破壊して強引に教室に入り込んできた音だった、歪な球状のそれは、先端に真っ赤な円錐形の槍のようなものが付いている。ずるり、とその塊が再び窓の外へ出てゆく。再び洋子の姿が見えたが、教室内に残っている誰にも、もうそれを見る余裕はなかった。かわりに彼らが見ていたのは頭だった。強靭な顎と、真っ黒な複眼。黄色と黒の悪魔の顔。
(蜂だ!)
良平は心の中で叫んだ。それは紛れもない、写真で見るスズメバチの頭部そのものだった。巨大すぎる、ということを除けばだが。
巨大蜂は再び上昇。しかし脅威は去っていない。黄色と黒の影が一匹。教室に飛び込んできて、倒れたままのめぐみの足に取り付いた。
またも蜂だった。今度は人間とほぼ同じ大きさをしている。
「い、嫌ぁっ!」
めぐみは悲鳴を上げ、足や手を動かして使って必死に抵抗する。しかし蜂はそんな些細な抵抗など意に介さず、その身体を教室の外へとずるずる引き出してゆく。
「めぐみちゃんっ!!」
先に動いたのは芽衣だった。彼女は勇敢にも蜂に接近しながら呪文を唱える。
「サンダースピア!」
バチバチと音を立てながら芽衣の右腕を電光が纏い、振るうと同時に雷が文字通り槍のようにまっすぐ、巨大蜂の頭部めがけて放たれる。
彼女の得意とする雷属性の魔法だ。至近距離からの一撃は、通常の魔物ならひとたまりもない。
猛烈な閃光と爆発音。
だが。
「駄目だ、逃げろ芽衣!!」
良平は叫ぶ。芽衣の渾身の一撃は、ほとんど効いていなかった。少し焦げただけのその頭部。蜂はめぐみから爪を離し、ジロリと睨むようにその複眼を芽衣に向ける。
「逃げてッ!」
蜂の鉤爪から脱しためぐみ。だが彼女は、自分はもう助からないことを悟っていた。先ほど転んだ時、足を挫いていたのだ。自分は逃げ切れない、そう瞬時に判断した彼女はためらうことなく、正面から蜂に取り付く。ぐ、と。蜂の背に回した手で翅を掴んだ。少しでも動きを封じ、芽衣たちに逃げる時間を与えるために。
あるいは芽衣を囮にすれば逃げることができたかもしれない。このまま彼女に標的が変わるのを待てば。しかし、それだけは絶対にできなかった。そんなことをするわけにもいかなかった。
めぐみは蜂もろともに床に転がる。
「めぐみちゃん!」
「いいから早く!」
蜂はその翅を羽ばたかせたり、そのかぎ爪でめぐみの体を引っ掻いて拘束を解こうと足掻く。めぐみは、必死になってそれに耐えていた。
「芽衣ッ!」
良平は芽衣の右手を掴む。
「逃げるぞ!」
「でもめぐみちゃんが!」
「早くしろって!」
芽衣を引っ張って逃げようとする良平に、あくまで抵抗する芽衣。
(だめ、はやく!はやく逃げて!)
めぐみは必死に祈り二人を見る。その瞬間彼女を振りほどこうとしていた蜂が、攻勢を変えた。その強靭な顎で、めぐみの喉笛に噛みつく。
「ぐぁ」
人間の声とは思えない悲鳴。蜂はそのままめぐみを抱え、腹部を後ろに引き、構えた。
「に……げで。おねが……」
懇願するめぐみの瞳にうたれて、芽衣の力が抜ける。良平はすぐさま走り出した。教室の外へと。皆とっくに逃げたのだろう。他の生徒は影も見えない。
ずぶり、と肉を引き裂くような音。良平に手をひかれ、後ろを見ながら走っていた芽衣は、毒針を身体につきたてられ、全身の力が抜け、動かなくなるめぐみの姿を最後まで見続けていた。
廊下に出た良平は、芽衣の手を引きながら必死に走った。いつの間にか警報を知らせるサイレン鳴り響いている。しかし、その音より蜂の羽音の方が今の彼らには重く響いていた。良平は走りながら、ふと廊下に面した窓から外を見る。それは最悪な光景だった。
蜂は一匹や二匹ではなかった。人間くらいの大きさの蜂は何匹もいて、その多くが人間の、生徒たちの亡骸を抱えて飛んでいる。魔物の群れが人間の町を襲う。こんなことはここ数百年の間ありえないことだった。
そして、まだ獲物を抱えていない数匹が、廊下を走る彼らに気付いた。
「っ!!!」
まさに絶体絶命だった。六匹もの大きな蜂が、良平たちめがけて降下してくる。
「こっちよ!」
声がする。振り向くと、「天馬先生……!」芽衣が涙声でその名を呼んだ。
「はやく!」
魔法生物学担当、彼らの担任でもある若き女教師、天馬紗希。彼女は良平たちの手を引き、そこから少し離れた場所にある階段を駆け降りた。それからまた廊下を走って、ある教室のドアを開け、二人と一緒に飛び込んだ。
「ここは……」
真っ暗で狭い教室の中を、良平はキョロキョロと見回す。
「科学準備室。大丈夫よ。退魔結界が張ってあるから。奴らは外から入ってこれないわ。ここは安全」
見ると、部屋の床、壁、天井、あちこちにいくつもの魔法陣が書き込まれていた。『退魔術』の授業でよく目にする退魔法陣だ。
複数の退魔法陣を組み合わせ、室内に強力な退魔結界が展開されている。
「よかった……」
ふぅ……と良平は一息つく。芽衣は彼の右腕にすがりついて泣いていた。
「めぐみ……ちゃ……わたし、あの子を……見殺しに……」
「あれは……ッ、仕方……なかったんだ」
良平はめぐみの背に左手を回し、その小さな体をぎゅっと抱きしめた。
「りょう……っへいくん……」
芽衣は右腕を離し、良平の胸に身体をうずめた。
「……」
一方の天馬先生は携帯電話をしばらく耳にあて、なにか話をしているようだった。やがて通話を止め、それをポケットに閉まった。
「まだ逃げ遅れた生徒がいるみたいね。あなたたちはここにいて」
教師同士で生徒の避難誘導のため、連絡を取り合っているようだ。
もしこれが授業中であったなら、よりスムーズな避難誘導が可能だっただろう。しかし昼休みで、教職員はほとんどが二階の職員室にいたため、このような不安定な形で生徒を避難させなければならなくなっていた。
天馬は準備室のドアに手をかける。
「先生!?」
「大丈夫。ここを動いちゃだめよ?」
「せんせ……いっちゃやだ」
芽衣は顔を上げ、小さな子供のように哀願する。
「大丈夫。必ず戻るから。……そうね、5分だけ。それだけ待ってくれれば、ほかの生徒たちをを連れて帰ってくるわ。必ず」
そう言って、天馬紗希はドアを開け、すぐに閉めると悪夢の中に駆け出して行った。
「良平くん……先生、戻ってくるよね?」
「ああ。当り前さ。先生を信じよう」
しかしその直後、良平は誰かの悲鳴を聞いた気がした。
「っ!」
「良平君……?」
思わず体がこわばり、芽衣が不安げな表情で良平の顔を覗く。
「いや、なんでもないよ……大丈夫だ」
「うん……」
5分という時間は、今の彼らにとっては長すぎる待ち時間だった。真っ暗な教室でたった二人。鳴りやまないサイレンと、忌わしい羽音が響き続けるというこの状況は、確実に二人の精神を蝕んでいった。
カーテンがかかっている窓の外、巨大なその影が何度も映る。
「入って、こないよね……?」
震えた声で、芽衣が良平の後ろに回した手の力を強めつつ問う。
「大丈夫さ。魔物は、退魔の結界には絶対に入ってこれないんだ」
言いながら、良平も芽衣を抱く力を強めた。
ずいぶん長い時間が流れた気がした。
やがて、カーテンの外が真っ黒になる。
もう日が落ちたのか?良平はそんな風に考えて、
「違う!!」
まだ、5分すらたっていないことに気づいた。彼は芽衣を抱いたまま慌てて立ち上がるが、もう遅かった。
轟音とともに、窓のある壁が大破する。最初の襲撃と同じように、巨大な蜂が壁を突き砕いた。
芽衣の悲鳴が響く。
(結界が張ってあるのにどうして!!)
疑問が頭に浮かぶ。が、考えても無意味だ。とにかく逃げなければ。
だが、逃げることももう叶わないと悟った。
窓の反対側にある扉、この部屋の出入り口。そこも破壊されていた。外には、怪物蜂の群れ。そのうちの一匹が、頭だけになった天馬を抱いていた。
「うふ、うふふふふふふふ!りょうへい!せんせー帰ってきたよ!いっぱい、いっぱいつれてきたよ!あははははは!!もう大丈夫だね!もう怖くないね!あははははははは」
ひどく乾いた笑い。
頭部だけになった天馬と目が合った芽衣は、ついに発狂した。
「めい……!」
良平は、狂ってしまった幼馴染を、せめて、最後まで離さないように強く抱いて。
そして二人は死の濁流に呑まれていった。