Episode:74
「そういえば、この子の名前を聞いていませんでしたね。何と言うのです?」
最後の一言はあたしじゃなくて、研究者の人に向けてだ。でも彼は気づかなかったのか、それとも答えたくないのか、ともかく黙ったままだった。
先輩があたしの顔を見る。代わりに聞けっていうんだろう。
「――ねぇ、この子の名前、教えて」
「名前は……つけてません……」
消え入りそうな声で、この子を育ててた研究者の人が言った。
「やれやれ、やはりそうでしたか。先程から一度も名前を呼ばないので、そんなことだろうとは思っていましたが」
確かによく考えてみるとこの人、名前を呼んでない。だいいち呼んでたら、あたしだって知ってるはずだ。
逆に言うと可愛がってるようでいて、結局はこの子を「モノ扱い」してたってことになる。
ただ珍しく、先輩はそこで黙った。普段だったらもっといろいろ言うはずなのに、冷たい目で研究者の人を見ているだけだ。
「何を見ているのです。人の顔を見るのは失礼だと、教えたはずですよ」
「す、すみませ……」
謝りかけて、謝ってよかったのか迷う。
先輩は軽くため息をつくと言った。
「子供の前ですからね」
「あ……」
つまりあたしがさっき、途中で言うのをやめたのと同じ理由だ。まだ小さい、しかも病気の子供に、大人の汚い話を聞かせていいわけがない。
先輩が水槽のガラスに手をつきながら言った。
「名前をつけてあげないといけませんね。ですが、何とつけたものやら……」
と、またあの声が響いた。
(同じ、して)
「同じ?」
思わず訊き返す。
「――また一人芝居ですか?」
「え? あ、えっと……」
今の声は、先輩には聞こえなかったらしい。
「えぇと、えっと……」
あたしを見てる女の子と、先輩。どっちの話を優先したらいいんだろう?
交互に見ながらしばらく悩んで、あたしは女の子のほうを先にした。この子は具合が悪いけど、先輩は別に具合は悪くないから、具合の悪い人のほうが先だろう。
「何を、同じにするの?」
(同じ、いっしょ)
ちょっと前と言ってることが全く同じだ。やっぱりこの子、話しかけてもらってないせいで、あんまり言葉を知らないんだろう。