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短編&中編集

どうにかして平穏な婚約破棄を目指したい

作者: 初音の歌


「アンタみたいなナヨナヨした男、こっちから願い下げなんだからね!」

「それはこちらの台詞だ! 女らしさって言葉を辞書で引いてから出直してこい!」



 人気のない学園の校舎裏で、一組の年若い男女が言い争っていた。

 女性の名はサーシャ。武門貴族の娘。

 男性の名はレイス。外交で有名な名家の跡取り。

 そんな二人は、口汚く言い合う。遠慮も加減も無い、口数の応酬だ。どちらも互いの人格を尊重する気が一ミリも無い。


「……っ、はぁ、はぁ……」

「……ぜぇ、ぜぇ……ば、バカみたいに声張り上げるから……息が……」


 壁に背を預けて座り込み、肩で息をする二人。

 レイスは、細身で上品な顔立ちの少年だった。金茶の髪をゆるく撫でつけ、睫毛はやたら長い。普段の立ち居振る舞いも、どちらかといえば「か弱い文官候補」に分類される。

 対照的に、サーシャはスレンダーな体つきながら、腰に手を当てて立っている姿が板につく。眉はきりりと上がり、青い瞳はいつでも正面から物事を射抜いてくる。武門の令嬢らしく、制服の着崩しひとつしていないのに、妙な迫力があった。


 そんな二人が、荒い息を整えながら、ほぼ同時に天を仰いだ。


「……で」

「……で、じゃないわよ」


 苛立たしげに口を開いたのはサーシャだ。胸の前で腕を組み、レイスを睨みつける。


「考えなさいよ。私達、このままいけば本当に結婚させられるのよ? 両家の親はノリノリ。うちの父なんか、毎回言うんだから。『外交に出る時はレイス君の家と組めば安心だ。娘を任せる相手としてこれ以上はない』って」

「こっちの父も似たようなことを言っているな。『武門の家と縁続きになれるなど願ってもない。護衛の質も保証されるし、代々の友誼にも合致している』……まるで取引の報告だ」


 二人分のため息が、ぴったりハモる。

 レイスは膝を抱えながら、冷静な声音で続けた。


「……要するに、俺達の婚約は、家同士の友好と実利の結晶なんだ。下手な理由で破棄したら、双方の顔に泥を塗る。外交的にも悪い印象を与えかねない」

「そうなのよね。うちなんか、武門だから噂も早いし、変な話が立ったら一気に広まるわ。『武門の娘が婚約者を振った』『外交名家の坊ちゃんが婚約者を泣かせた』……そんな見出しが学園中に躍るの、絶対イヤ」

「見出しって……ここ学園だぞ? 新聞じゃない」

「だってほら、情報通の子達いるじゃない。あれほとんど新聞みたいなものよ」


 サーシャがむっとしたまま言い切ると、レイスも「まあ、否定はしない」と肩をすくめた。


「それにしても、アンタと婚約なんて思ってもみなかったわよ。そりゃ毎年、家の付き合いで顔は合わせてたけどさぁ」

「俺も同じ気持ちだよ。お互い顔合わせる度に「あ、ども」とか挨拶して終わりだっただろうに」

「ただまあ……家の関係性を考えたら、悪くないのは確かだけどね」

「それは、まあな」


 お互いに顔を見合わせ、溜息一つ。

 外交で有名なレイスの家。武で指折りなサーシャの家。

 昔から付き合いは長く、レイスの親が外交で他国へ赴けば、サーシャの親がその護衛として着いていく。

 両者の家は、昔から続く友好関係だ。

 だからこそ、その子供達は感情で婚約破棄することが出来ない。


「とにかく、派手な揉め事は御法度、ってことだね」

「ええ。あくまでも『残念ね、でも仕方ないわね』って顔で、親にうなずかせる必要がある」


 そこで、二人の視線が自然と絡む。

 同じ結論。別々の思考回路を辿って、同じところに行き着いた、という顔。


「……つまり、平穏に婚約を白紙にするためには」

「私達の相性が悪い、っていう『納得の材料』を、周囲に、特に親に見せる必要がある、ってことね」


 レイスは指を折って整理を始める。


「一、喧嘩別れや浮気の発覚は、論外。両家の面子と信用に傷がつく。二、第三者を巻き込んで大事件を起こすのも却下。武門的にも、外交的にも評価を落とす。三、健康問題などの嘘は、長い目で見てリスクが高すぎるから不可」


 サーシャも別の指で数え上げる。


「じゃあ、残る道は……『価値観の不一致』『将来の方向性のズレ』あたりね」

「ああ。『二人は決して悪い子たちじゃないのだけれど、どうにも夫婦としては噛み合わないようだ』という印象を、じわじわと浸透させる」

「じわじわ、ね……」


 サーシャは腕を組んだまま、顎に指を当てて目を細めた。


「……具体的には?」

「まずはデートだな」


 レイスがきっぱりと言うと、サーシャが露骨に顔をしかめた。


「……アンタと?」

「嫌そうな顔をするな。俺だって不本意だ。だが、手順としては必要」


 レイスは少し考え込むように視線を落とし、丁寧に言葉を選ぶ。


「学園内か、街中かはともかくとして。周囲にそれとなく見られる状況で、俺達が『いまいち盛り上がっていないデート』を重ねる」

「それ、多分楽勝よ。自然に接するだけで達成できるわ」

「同感だよ。俺たちが仲の良いデートなんて出来る訳が無い」


 妙に心のこもった同意が返ってきて、二人とも一瞬だけ苦笑する。


「で、どう『いまいち』にするの? わざと喧嘩する?」

「いや、喧嘩は逆効果の可能性もある。『若い二人が言い合いしながらも仲を深めていく姿』なんて、下手をすると微笑ましく見られかねない」

「めんどくさいわね、恋愛観って」

「全くだ」


 レイスは膝を抱えていた腕をゆるめ、立ち上がると、指で空中に小さな図を描くふりをする。


「例えば、趣味の不一致を見せる。俺は静かな読書が好きで、サーシャは体を動かすのが好き……」

「事実だけど、なんかムカつく言い方ね」

「事実だからだよ」


 さらりと返しつつ続ける。


「図書館デートをしてみる。俺は本に夢中、サーシャは退屈そう。途中で武術の訓練をしたくなり、そっちの話になると急に目を輝かせる……そういう姿を、誰かに見られる」

「なるほどね。逆に、闘技場みたいなところを見学するデートもありかしら。私が前のめりで試合に見入ってる横で、アンタは顔色悪くしてるとか」

「観客席で目をそらしている俺を、うちの母辺りに見られたら、その瞬間『この子は向いてないわね』と判断されそうだな」

「それそれ」


 サーシャはぱん、と手を叩いた。


「次に……会話のズレ、ね」

「これは苦労せずとも自然に発生しそうだ」

「それ、ちょっとだけ傷付くからやめなさいよ」


 言い合いながらも、二人の表情には、さっきまでのむき出しの怒りはもうない。代わりに、共犯者特有の微妙な親近感が芽生えつつあった。


「……例えば?」


 サーシャが促すと、レイスは少しだけ視線を外し、考えるように目を伏せる。


「俺は将来、父のように各国を回る外交官を目指している。言葉や文化の橋渡しをして、戦争を避けたい。そういう話をする」

「私は、国内の騎士団運営に口を出したいのよ。無駄な演習やら、古い慣習やら、見直すところが山ほどあるから」


 サーシャはきっぱりと告げる。その声音には、本物の野心がこもっていた。


「外に目を向けるアンタと、内側を固めたい私。方向性が違うのは事実。そこを人前で上手く見せれば、『あら、この二人、思っていたより理想が違うのね』ってなるわ」

「いいな。お互い演技しなくても、大丈夫なのが最高だ」

「まあ、実際本音だしね」

「俺もだ」


 レイスは小さく笑い、ふと真顔になる。


「……そして、最終的には、こう持っていく」


 彼は指を一本立てる。


「『お互いを嫌いなわけではない。尊敬もしている。ただ、夫婦としては違う道を歩んだ方が、国のためにもなる』――そういう論調で、両家に話を持ちかける」

「つまり、国と家のために身を引く賢い子供達、って構図にするわけね」

「そう。俺達のわがままじゃなく、最善の判断だと見せる」


 サーシャはつんと顎をあげ、どこか勝ち気な笑みを浮かべた。


「いいじゃない。嫌いな婚約者との結婚を避けつつ、『あの子達は立派だわ』なんて褒められるのなら、悪くない落としどころだわ」

「やけに楽しそうだな」

「当然でしょ。このままだと、アンタと結婚する未来が待ってるんだから。全力で回避するに決まってるじゃない」


 そこで一瞬、沈黙が落ちる。


 レイスもサーシャも、心のどこかで、別の顔を思い浮かべていた。


 レイスは、図書室の窓辺で本を抱えて笑っていた、あの年下の、小さな男爵令嬢の横顔を。

 サーシャは、訓練場で汗を拭いながら、「よくやったな」と笑ってくれた、年上の騎士の逞しい背中を。



「私、好きな人がいるもの。叶う事なら、あの人のお嫁さんになりたい」


 小さな声で、しかしきっぱりとサーシャが言う。耳の先だけが、ほんの少し赤かった。


「キミがそう言うなら、俺も言おうか」

「なによ」

「俺にも、好きな人がいる」


 今度はレイスの方が、ほんの少しだけ視線を逸らした。

 二人は互いの顔を見ないまま、しかし同じ一点を見つめるかのように、空っぽの校舎裏を見やる。



「……その人達のためにも、失敗できないわね」

「そうだな。下手なことをして、この恋を諦めたくない」

「私もよ。私の恋……真実の愛」

「真実の愛、か。そうだな、俺たちの真実の愛」


 レイスはそこで、少しだけ視線をサーシャに向ける。


「キミの想い人は……年上の騎士ってところか?」

「……なんで分かるのよ」

「……胸板が厚くて、爽やかな男前とか?」

「だから、なんで知ってんのよ!」

「知ってない! キミが分かりやすいだけだ! この筋肉フェチ!!」

「うっさいわね、この年下好き! どーせアンタの事だから、儚げで大人しい新入生あたりが好みなんでしょ!?」

「何故分かる!?」

「アンタも分かりやすいのよ!!」


 ぎゃあぎゃあと言い合う二人。

 しばらく言い争った後、またしても肩で息しながら座り込む。


「と、とにかく。私達はお互いの恋路のために協力し合う共犯者。いいわね?」

「ああ。共闘だ。真実の愛の為に」


 レイスが右手を差し出す。

 サーシャは一瞬だけ迷ったあと、その手を握り返した。

 ぎゅっと握られた手は、驚くほど温かい。


「……変な気起こしたら、斬るから」

「起こさない。というか、君に斬られる未来、普通に想像できて怖いからやめてくれ」

「想像できるくらいには分かってるのね、私のこと」

「それを相性の良さに数えないでくれ」


 一拍遅れて、二人はふっと笑った。

 握手を解きながら、レイスが改めて作戦をまとめる。


「じゃあ、まず『退屈そうなデート』から始めよう。学園内の庭園、図書館、訓練場……人目につきやすい場所を中心に」

「そこで、趣味と会話のズレをさりげなくアピールね。あからさまじゃなく、でも『あれ、この二人、なんか噛み合わないわね』って思わせる程度に」

「そして噂は形となり、お互いの家に届く」

「そこまでいったら、親に『互いを尊重した上での決断』として、婚約解消を申し出る」


 二人は目を合わせる。


「「……完璧ね(だな)」」


 息ぴったり。声がハモった。

 不敵な笑みを互いに浮かべ、二人は校舎裏を後にする。


 平穏な婚約破棄を目指す、貴族令息と貴族令嬢の密談は、こうして幕を開けた。

 その背中が、今はまだ、ほんの少しだけ似た歩幅で並んでいることに――当人達は、気付いていない。





◇ ◇ ◇





 早速、次の日から作戦は始まった。


 昼下がりの学園の廊下は、授業と授業の合間でほどよく賑やかだった。行き交う生徒達の会話と靴音が、磨き上げられた床に跳ね返っていく。

 その中を――やけに「絵になる」二人が歩いていた。


 外交名家の令息レイスと、武門の令嬢サーシャ。

 レイスは、少し猫背を意識して伸ばし、きちんとした姿勢で歩いている。サーシャはその隣で、歩幅を合わせるようにすっと寄り添っていた。肩と肩が触れるか触れないかの距離。遠目には、どう見ても「仲睦まじい婚約者同士」である。

 そしてちゃんと、互いに笑顔も作っている。

 ……作っている、のだが。


「――それでね、サーシャ。最近うちの父上が嘆いていてね。『常備兵の維持費が馬鹿にならん』と」


 レイスが、いかにも世間話めかした声色で切り出す。

 笑顔は、貴族社交界仕様の完璧な微笑。


「まあ、それはどこの家も同じですわね」


 サーシャも負けじと、令嬢的完璧スマイルを浮かべて応じる。

 頬の角度、視線の向け方、すべて教本通り。


「でも――国の護りにお金を使うのは当然の事。必要な出費よ」


 言葉の内容も、武門の娘として実に模範的だった。

 ……ここまでは、完璧だった。


(よしよし。ここでアンタが反論してくれれば、「価値観のズレ」アピールの第一歩ってわけよ!)


 サーシャは内心で親指を立てる。笑顔を崩さぬまま、横目でレイスの「反論」を待つ。

 別に台本なんて考えてない。お互いに自然な振る舞いをすれば、それで作戦は遂行される。

 きっとレイスのことだから、兵費を抑えた方がいい、とかなんとか言うに決まって――。



「安全を金で買えるのであればそれが最良だ。その時その時で傭兵に頼るより、利がある。兵の質も維持できるし、戦力の読みも立てやすい」

「……………………」



 しかし、口から出てきたのは、見事なまでの本音だった。

 サーシャの笑顔が、一瞬ピキッと固まる。

 こめかみに、にゅっと青筋が浮かびかけ――


「……アンタ、なに賛同してんのよ!? 反対しなさいよ!? 兵に無駄な金使うなとか言いなさいって!」


 笑顔を崩さぬまま、声量だけを一気に絞った。ほとんど囁きに近い小声。近くを歩く生徒には、微笑みながら甘い言葉をささやいているようにしか見えないだろう。

 レイスも同じく笑顔のまま、冷や汗をだらだら垂らしつつ小声で返す。


「す、すまない。だが仕方ないだろ!? 戦の度に、民から徴兵していては安定した戦力は保てない! 安定した外交を成立させるのは、自国の安定した戦力だ!」

「分かってるわよそんなことは! 本音はいいの、本音はっ!」


 サーシャの笑顔のこめかみに、青筋が一本、二本と増えていく。


「建前喋れって言ってんのよ! 目的忘れたの!? 私達の意見が不一致するところを見せなきゃいけないんでしょうが!?」

「じゃあ先にキミが反対すればよかったんじゃないか!? たとえば『兵にばかり金をかけず、民にも配分すべき』とか!」

「武門の娘がそんなこと言ったら父様に説教されるわよ!!」


 二人は笑顔。声はひそひそ。内容は完全に喧嘩。

 しかし、廊下の向こうから見ている三年生の女子グループには、こう見えていた。


「見て、あの二人。なんだか楽しそうにお話してますわ」

「あら本当。レイスさん、柔らかい顔をなさって……」

「サーシャさんも、あんなに穏やかな笑顔、珍しいわ。まあ、お似合い」


 評価は上々である。方向性だけ、盛大に間違っている。

 当人達はというと、小声の応酬に夢中でそんな視線に欠片も気付いていなかった。


 一旦深呼吸。

 レイスはサーシャに目で合図し、二人で同時にすうっと息を吸い込む。


(落ち着け。まだ慌てるような時間じゃない)


 頭の中でそう唱え、笑顔を整え直す。

 今度はレイスから、再び「話題」を投げた。


「ところで、サーシャ。常備兵の件とも絡むが……」


 レイスは少しだけ視線を前方に向ける。廊下の中央、ちょうど人気の多い地点だ。教室から生徒が出入りし、先生が通りかかる可能性もある。

 ここでこそ、「デートらしい会話」を見せるべきポイント。


「他国との外交関係について、父上は常々、『友好は常に気を配るべきだ』と仰る。力による征服よりも、友好の手を差し伸べたい、とね」


 柔らかな口調。聞きようによっては、将来を真剣に考える若者の好ましい発言だ。


(さあ、ここで反対してくれ。武門として「いざという時は剣を抜く覚悟も必要」とかなんとか……)


 レイスが期待半分、不安半分でサーシャを横目で見る。

 サーシャは、にこっと上品に微笑んで――



「ええ。武力は暴力ではないもの。力を示すのは『貴国と並び立てます』という敬意も含んでいる。剣はなるべく鞘に収まったままの方がいい」

「……………………」



 模範解答を返してしまった。

 今度はレイスの笑顔がピキンと固まる番だった。

 こめかみに、くっきりと青筋が浮かぶ。


「反対しろよ!? なんで合いの手打ってんのさ!? ここは武力で威圧して、周辺国を治めるべきとか言うことあるだろ!?」


 笑顔のまま、こまめに頬の筋肉を動かして「楽しそうに話してます感」を出しつつ、小声で全力ツッコミ。

 サーシャも引かない。


「言える訳ないでしょ!? ウチの家は蛮族じゃないの! 武は暴力と違うの!! 振るわずに済ませるのが最高の武力なの!!」

「知ってるよそんなことはっ!」


 レイスも、笑顔の口角を保ったまま、こめかみの青筋を増やす。


「本音と建前使いこなせって言ったのはキミの方だろうが! 目的忘れてんじゃねぇぞ!!」

「アンタだってさっき常備兵の話で本音全開だったじゃない!!」


 小声でぎゃあぎゃあ。笑顔でぎゃあぎゃあ。

 二人は笑顔を絶やさぬまま、お互いにしか聞こえない罵倒を繰り返す。

 そしてそのまま廊下を歩いていく。婚約者同士の距離感で。

 サーシャは歩みを緩めず。レイスも歩幅をあわせたまま。


 その様子は傍から見れば、仲睦まじい恋人同士のやり取りで。


「まあ、仲の良い御二人ですわね」

「将来は安泰か。うらやましいな」


 そんな感想ばかりが飛び交っていた。

 別の教室から出てきた教員も、ちらりと視線を向けて、ふっと微笑む。


「ふむ……あの二人なら、将来も上手くやっていけそうだな。外交と武門の橋渡し、か。頼もしいことだ」


 当人達は気付かず歩み去る。

 まだ初回の作戦が失敗しただけ。まだ二の矢、三の矢があるのだ。





◇ ◇ ◇





 それからも、レイスとサーシャは、計画通りに……もとい、計画通り「のつもり」でデートを重ねていた。


 学園の廊下での談笑デートは、見事に「周囲からの好感度アップ」という望まぬ成果を叩き出し。

 では次だ、とばかりに用意したのが、図書館デートと、闘技場デートである。


 結果から言うと、どちらも「失敗」だった。





◇ ◇ ◇





 ある日の午後、王都の大図書館。


 高い天井まで本棚が並び、静けさの中に紙とインクの匂いが満ちている。

 レイスとサーシャは、並んで閲覧室の席に座っていた。

 机の上には、分厚い書物が一冊――外交史に関する年代記である。


 本来の予定はこうだった。


 レイスが本に夢中。

 サーシャは退屈そうに頬杖をついて、退屈アピール。

 その姿を、周囲の誰かが目撃。

 これは価値観が合っていないのでは? という印象が、じわじわ広まる――はずだった。


「……よし、俺は予定通り、この年代記に没頭するから」

「ええ。私は退屈そうにしてるフリをしてるわね」


 互いに頷き合い、予定通りの行動に移る。


 静けさが世界の図書館。人の声こそ少ないが、人の眼は案外多い。

 なにせ王都でも有数の図書館だ。貴族や、有名な商家の人間もここには足を運ぶ。

 ここでの噂は王都に広がると言っても過言ではない。レイスは作戦の成功を信じていた。


(このまま図書館で時間を潰すだけで策は成る……ふふふ、俺も充実した休日を過ごせるし完璧だ)


 思わず笑みを溢しながら、年代記の頁をめくる。

 ぺらりぺらりと、非常にためになる記述が幾つも。レイスの没頭は演技ではなく、自然の動きになる。


 そこでどれだけ時間が経ったか。同じ姿勢で居た事に、少し疲れを覚えた頃。

 レイスは視線を前に向ける。サーシャが座っている真向いの席。きっと暇そうに欠伸でもしてるのだろう思って。



 そして視線を向けたそこに――――本を一心不乱に読んでいるサーシャの姿があった。



(ん、んんんんんん!?)


 思わず叫びたく感情を押し殺し、眼を白黒させながらサーシャを見る。

 読んでいる本は、どうやら外国の本。背表紙に刻まれた文字は、異国語。その下に、小さく王国語で訳語が添えられている。


『東方諸国の兵法概論 第一巻』


(ア、アイツ……異国の兵法書に夢中になってやがる……っ!)


 顔が引き攣るのを、レイスは自覚する。

 怒鳴り散らかしたいが、残念ながらここは図書館。大声や騒ぎは御法度な場所。

 ましてや貴族令息であるレイスだ。この図書館で騒ぎを起こすことは許されない。家の名を穢す事になる。

 だから小声で必死に呼びかけ。


「ちょ、ちょっとサーシャ? サーシャさん?」

「…………」

「おーい、聴いてますかー? 聴こえてますかー?」

「…………」


 ガン無視である。

 食い入るようにページをめくり続け、一度も顔を上げない。

 サーシャは完全に「熱中」の目になっていた。眉間には軽い皺、しかし口元には僅かな高揚。ページを追う瞳は真剣そのものだ。


「……うそだろ……なんでそんな楽しそうに本読んでるのさ」


 呆然としたレイスの声も、今の彼女には届かない。

 結局、サーシャはそこから閉館ギリギリまで兵法書にかじりついた。





 陽が傾き、外の空が橙色に変わり始めた頃。

 やっとのことで司書が「閉館の時間です」と声をかける。

 レイスは、ずっと静かに年代記を読みながら、心の中では煮えたぎっていた。

 そして、図書館の外に出た瞬間――。


「俺より熱中してんじゃねぇよ!! 閉館ギリギリまで読み耽るな馬鹿!」


 小声なのに、魂の叫びがこもっていた。

 サーシャは、まだ本の余韻が抜けきらないぼんやりした顔で振り返り、遅れて怒声の内容を理解した。


「ば、馬鹿とは何よ!? 仕方ないじゃない! 異国の兵法書なんて滅多にお目に掛れないんだから!」

「知ってるよ! だからこそ図書館も奥の方に置いてるんだろうが! なんで見つけてくるんだよ! 大人しく座っとけ!!」

「仕方ないでしょ暇だったんだから!! そしたら奥で見つけちゃって……大体こんな希少本を置く図書館が悪いのよ!!」

「責任転嫁するな!!」


 またしても、ぎゃあぎゃあと喚き散らかす。笑顔と小声のセットは崩さずに。

 そのやり取りも、遠くから見ている者にとっては。


「いいわねぇ、二人とも本が本当に好きなんだわ。図書館デートで閉館まで過ごすなんて」

「将来、知的で落ち着いた夫婦になるんだろうなあ」


 と、羨望混じりの好意的な溜息を誘うだけだった。





◇ ◇ ◇





 別の日、学園の闘技場。


 貴族の通う学園には、武芸の授業もある。

 そして時折、学生たちは闘技場に集まり「プチ闘技大会」を開く。

 教員や看護員も集う中、生徒達の腕を競う、迫力ある競い合いが繰り広げられている。


 観覧席には、学園外からの見物人もちらほら。一種のお祭りイベントだ。

 この日の予定は逆パターン。サーシャが戦いに熱中。レイスが「ちょっと苦手そう」な顔をして、戦いに興味がない様子を見せる。

 これまた「価値観のズレ」をアピールするための計画である。

 

「じゃ、私は自然体でいくから。さあ見るわよー! 楽しみでウキウキしてくるわ!」

「俺は頑張って、興味なさげな顔をする……」


 そう言って観客席に並んで座った二人。

 闘技場の中央で、ちょうど紹介の声が響く。


「次の試合は、留学生代表と、王都騎士団候補の模擬戦――!」


 歓声が上がる中、異国の紋章を胸に刻んだ戦士が、リングに姿を現した。

 長身、無駄のない筋肉、重そうな戦斧を軽々と担ぎ。

 その一歩ごとに、砂煙がふわりと上がる。


「…………」


 レイスの瞳が、細くなる。


(他国から、こんな戦士が来ているのか……? 筋力、機動力、武器の重さ……持久戦には弱いが、一撃の破壊力は高い……盾持ちとの相性はどうだ? うちの国の標準的な編成だと――)


 気付けば、彼は前のめりになっていた。

 肘を膝につき、指先を組んで、試合に集中する。目は真剣そのものだ。

 一方サーシャは、当初の予定通り、開始直後は前のめりで観戦していたのだが――。


「……ちょっと、アンタ」


 ふと横を見て絶句した。

 隣のレイスが、自分以上の食いつきで試合を見つめている。

 しかも、口元をわずかに動かして、なにやらぶつぶつと呟いている。


「あの踏み込み……間合いの詰め方が速い……いや、あれは盾兵の間合いを知らない相手だから通用するだけか? だとすれば、うちの国と本格的に戦う場合、奴らは最初の一戦で大きな損耗を――」

「私より前のめりになる馬鹿がどこに居るのよ!!」


 試合の合間、観客の歓声が一瞬引いた隙を狙って、サーシャが小声で怒鳴った。


「決勝戦までガン見するなこの阿呆!! 途中でちょっとは退屈そうにしなさいよ!」

「無茶を言うな!」


 レイスも負けじと小声で返す。目線は一切リングから外さない。


「他国にあんな戦士がいると知って、目を逸らせるか!! 相手の戦力から目を離すのは、外交官としてやってはならぬ愚策だ!!」

「今日だけは愚策でいなさいって言ってんのよ!!」

「出来るかそんなこと! 他国の戦力分析を疎かにする外交は存在しねぇ!!」

「威張るな、このスカタン!!」


 二人のひそひそ喧嘩は、観客席の離れた場所から見ると――。


「ほら見ろよ、サーシャさん、レイスと一緒に観戦してるぜ」

「レイス、けっこう真剣な顔で試合見てるな。サーシャ嬢の影響かな?」

「いいよなぁ……一緒に同じものを熱中して見られる相手って。理想の夫婦じゃん」


 と、やっぱり好感度だけが青天井で上がっていくのだった。





◇ ◇ ◇





 ――そして今。


 レイスとサーシャは、それぞれ別々の場所で、同じように項垂れていた。


 レイスは、学園の図書室で。

 サーシャは、騎士団の訓練場の片隅で。


 共通しているのは、二人とも「愛しい人」のそばにいる、ということだけだった。





◇ ◇ ◇





「……それで、最近はどうなんですか? サーシャ様とは」


 木製の机の向かいで、男爵令嬢がにこにこと微笑んでいた。

 柔らかな栗色の髪をリボンでまとめ、机の上にはノートと、レイスが持ち込んだ教本が広がっている。

 本来の目的は、彼女の勉強を見てやること――なのだが。


「どうって……」


 レイスはペンを持ったまま、ゆっくりと視線を落とした。

 脳裏に浮かぶのは、図書館で兵法書に齧りつくサーシャの姿や、闘技場で二人並んで戦士を見つめていたあの光景だ。

 どれもこれも、傍から見れば「仲の良い婚約者」以外の何ものでもない。


(実際には、あれもこれも婚約破棄のための作戦なんだけどな……全部逆効果だったけど……)


 心の中で地べたに突っ伏しながら、顔だけは平静を装う。


「……まあ、それなりに……」

「あっ、やっぱり!」


 男爵令嬢の顔がぱあっと明るくなった。


「こないだ図書館で、お二人が一緒にいらっしゃるのを見ました! 閉館まで、ずっと一緒に本を読んでらして……とても素敵だなって」

「……見られていたのか」


 レイスは天を仰ぎかけて、ぐっと堪えた。


「それに、闘技場でも。サーシャ様って、試合を見るときすごく熱心じゃないですか。でも、その横でレイス様も真剣な顔をしていて……」

「……見られていたのか」


 心の中で涙目になりながら、レイスは机の下で拳を握る。


「だから……」


 男爵令嬢は、両手を胸の前でぎゅっと握りしめた。


「私、友達にも聞いて、サーシャ様のお好きな場所を探しておきました」

「…………は?」

「これで次も上手く行きますよ!!」


 ぱぁぁぁ、と満面の笑み。

 差し出されたメモには、「サーシャ様がよく行かれる武具店」「サーシャ様がお好きそうなカフェ」「サーシャ様が立ち止まって眺めておられた騎士団の練兵場の見学スポット」など、事細かに書き込まれている。


(な、なんという情報収集能力……! いや、感心してる場合じゃない……!)


「サーシャ様、強くて素敵な方ですもの。レイス様と、きっと素晴らしいご夫婦になります」


 男爵令嬢は、善意100パーセントの笑みで言い切った。

 レイスは、笑顔を崩さぬまま、内心で崩れ落ちる。


(違うんだ……俺が好きなのは君で……その、つまり……いや言えるわけないだろ馬鹿!)


 心の中で自分にツッコミを入れながら、レイスは震える手でメモを受け取った。


「……ありがとう。とても、参考になる」

「はいっ!」


 まっすぐな笑顔が、胸に刺さる。別の意味で、致命傷だった。





◇ ◇ ◇






 一方その頃、騎士団の訓練場。


 木剣の打ち合う音が、乾いた空気に響いていた。

 サーシャは額に汗を光らせながら、木剣を構え直す。目の前には、動きやすい貫頭衣姿の騎士が一人。

 歳は二十代前半、精悍な顔つきに、しっかりとした胸板。

 サーシャの「想い人」である。


「今の踏み込みは悪くない。けど、肩に力が入りすぎだ」


 騎士は、穏やかな声で注意する。


「はい……!」


 サーシャは素直に頷き、深呼吸を一つ。木剣を持つ手の力を少し抜いて構え直す。

 打ち合いを再開して、数合。

 木剣と木剣がぶつかり合うたび、サーシャの胸は別の意味でも高鳴っていた。


(ああもう、顔が近い、声が低くて格好いい、胸板厚い……!)


 頭の中では恋する乙女の悲鳴が鳴り響き、それを戦闘用の集中力で必死に押し込める。

 ひとしきり打ち合ったあと、騎士が木剣を下ろした。


「今日はここまでにしておこう。疲れが出てきた」

「いえ、まだ――」

「無理は禁物だ。君には、婚約者もいるんだしな」


 その一言で、サーシャの動きがぴたりと止まる。


「……婚約者、ですか」

「ああ。レイス君だ」


 騎士は、爽やかに微笑んだ。


「この前、君達が闘技場で一緒に試合を見ているのを見た。あれは良い光景だった」

「…………」


 サーシャの頬がひくりと引きつる。


「君が戦いに夢中になると、周りが見えなくなるのは知ってるが……」

「は、はあ……」

「レイス君も、同じように真剣な顔で試合を見ていてね。ああ、価値観が合っている相手なんだな、と感心したよ」

「……………………」


 内心のサーシャは、砂漠で崩れ落ちる旅人のようだった。水辺を求めて倒れ伏す、哀れな少女。

 だが、顔には出さない。武門の令嬢の矜持で、笑顔を貼り付ける。

 騎士は、そんな彼女の心中を露ほども知らず、さらに良い笑顔になった。


「外交で有名なあの家なら、きっと蔵書も豊富だろう。二人で読むなら、この辺りがお勧めだ」


 そう言って、布袋から何冊かの本を取り出す。

 背表紙には「戦略論」「国際条約史」「騎士団編成の基礎」といった、妙に実務的なタイトルが並んでいた。


「戦場と外交は繋がっている。レイス君も、興味を持つんじゃないかな」

「…………」


 善意だけを宿した、爽やかな騎士の笑顔。白い歯が輝く。

 サーシャは、その笑顔を受け取ったまま固まる。


(違うのよ……そうじゃないのよ……! その視線とその優しさを、私は『私個人』に向けて欲しいのよ……!!)


 叫びたいのをぐっと堪え、彼女は丁寧に本を受け取った。


「ありがとうございます。……きっと、レイスも喜びます」

「はは、嬉しそうに話すじゃないか」


 騎士は朗らかに笑う。


「二人の仲が上手く行くことを願っているよ。君達のような若者が、国の未来を支えるんだからな」

「……はい」


 笑顔のまま、サーシャの内心は、レイスと同じく致命傷だった。





◇ ◇ ◇





 こうして。


 婚約破棄を目指して始めたデート作戦は――


 図書館では「知的で相性の良いカップル」としての評価を上げ。

 闘技場では「同じものに熱中する理想の夫婦」としての評価を上げ。


 そして当人達の恋心は、別の相手に向かったまま、見事に空回りしていた。


 男爵令嬢は、善意100パーセントで二人のデートプランを応援し。

 騎士は、善意100パーセントで二人の将来にエールを送る。


 レイスとサーシャの受難は続く。


 傍から見れば、安泰でしかない受難の道を――二人は今日も、全力で踏みしめていた。




 そして――時は流れる。





◇ ◇ ◇





 学園の大広間には、いつもとは違う照明が灯っていた。


 天井から吊るされたシャンデリアは、普段よりも多くの蝋燭を抱えて白く輝き、壁際には花が飾られ、楽団が柔らかな音を奏でている。

 華やかな色のドレスと礼服が行き交い、笑い声とグラスの触れ合う音が溶け合っていた。

 貴族も多く通うこの学園では、時折こうして「プチ夜会」めいたパーティーが開かれる。

 社交の予行練習であり、将来の縁談を探る場でもある、現実的な意味のあるお祭りの日だ。


 その華やかな空間の片隅で、レイスとサーシャは、表面上は穏やかに、内心では全力で闘志を燃やしていた。


「解っているわね、レイス」


 サーシャは、ライトブルーのドレスの裾をつまみながら、舞踏会用の完璧な微笑を浮かべた。

 背筋を伸ばし、首の角度、視線の高さまで「武門令嬢の理想形」といった佇まい。


「そちらもな、サーシャ」


 レイスは、濃紺の礼服に身を包み、金茶の髪をいつもより丁寧に整えていた。

 穏やかな微笑みは「外交名家の若様」の見本のようである。

 だが、その笑顔の裏側では――


(ここで決める。ここで駄目なら、もう敗北一直線だ……!)

(今宵こそ、価値観の不一致を世に知らしめてやるわ……!)


 ほぼ背水の陣。決死の覚悟であった。

 この場には、主要な貴族家の子弟が揃っている。

 成績優秀な平民達も招かれ、将来の「取り立て」や「側仕え候補」として見られることも多い。


 つまり――ここで「決定的な価値観の違い」を印象付けることができれば、両家にとっても、「円満な婚約解消」という選択肢が現実味を帯びる。


 ……はずだった。


 二人は、そこまでは読んでいた。

 だが、忘れていたことがある。

 このパーティーに気合を入れているのは、自分達だけではないということを。


 婚姻の相手を探す者。

 有力家との縁を結びたい者。

 逆に――両家の仲を壊し、自家の入り込む余地を作ろうと企む者。


 レイスの家も、サーシャの家も、国で指折りの名家だ。

 外交と軍事、二つの大きな柱を仲良く握っている両家を「邪魔だ」と感じる者がいても、おかしくはない。


 その一人が、今まさに、レイスとサーシャに向かって歩み寄ろうとしていた。





◇ ◇ ◇





 少し離れたところで、楽団が舞曲を奏で始める。


 輪の中央では、既に何組かの男女が踊り始めていた。

 その輪から半歩外れた位置、柱のそば――「会話をするにはちょうどいい距離感」の場所に、レイスとサーシャが立っていた。


 そこへ、ふわりと香水の香りをまとった令嬢が一人、取り巻きの令嬢数名と共に近づいてくる。


 淡い桃色のドレス、くるんと巻いた金髪。

 その微笑みは柔らかいが、瞳の奥には、別種の光が宿っていた。


「まあ、レイス様。サーシャ様もご一緒でしたのね」


 完璧な礼儀を踏まえた挨拶。

 隣に控える少女達も一斉にスカートをつまみ、優雅にお辞儀をする。

 レイスは微笑みを崩さず、礼を返した。


「これは、ごきげんよう。お招きの夜にお会いできて光栄です」


 サーシャも同様に、礼儀正しく一礼する。


「ごきげんよう。パーティーを楽しんでらして?」

「ええ、おかげさまで」


 表向きは、なんの変哲もない社交のやり取り。

 しかし、この令嬢こそが――両家の仲を割りたいと考える家の娘であった。


 彼女は、さりげなく会話の輪を広げるように、自分の取り巻きを配置する。

 視線を少しだけ動かし、周囲に「ここで面白い話が始まりますよ」と言わんばかりの気配を流す。

 そして、わざとらしくない程度に肩を落とし、憂いを含んだ吐息を漏らした。


「しかし……本当に、惜しいと申しますか、不憫と申しますか」

「……不憫?」


 レイスが、穏やかな笑顔のまま首をかしげる。

 令嬢は、そこでようやく少しだけ「本音の色」を滲ませた。


「外交で名を馳せる名家なのに、不憫ですわね」


 言葉は、柔らかい。

 けれど、その中身は鋭い棘を含んでいた。


「乱暴なお家との婚約を結ばれるだなんて。わたくしなら、レイス様に悲しい想いはさせませんのに」


 その一言に、輪の中の空気が、わずかに変わる。

 取り巻きの令嬢の中には、口元を手で隠しながら、くすりと笑う者もいた。

 遠巻きに様子を窺っている男子生徒達の間にも、小さなざわめきが走る。


 サーシャは、最初の一瞬だけ、意味が理解できずに固まった。

 その直後、こめかみがじわりと熱くなる。


(……今、この女……うちを「乱暴なお家」って言った?)


 血がさっと逆流するような感覚が背筋を走る。

 だが同時に、どこか冷静な自分がいた。


(……待ちなさい。これ、使える。両家の不仲の火種としては、かなり有効な……)


 頭の片隅で、婚約破棄作戦の可能性がちらつく。

 令嬢の言葉に乗っかって、「そうですね、武門のやり方にはついていけません」などとレイスが言えば――

 ここで決定的に不仲な印象を周囲に与えることができる。

 それくらい、サーシャも解っていた。


 解っていたのだが。



「訂正して貰えますかね?」



 ゆっくりと、しかしはっきりとした声が、横から響いた。

 レイスだった。

 彼は穏やかな笑みを崩さぬまま――こめかみには、くっきり青筋が浮かんでいた。



「武門の力は暴力ではない。国を護る盾であり、壁です」



 柔らかい口調のまま、言葉には微かな刃が宿る。



「軽口で済まされる誹謗ではありませんよ?」



 その瞬間、令嬢の笑みが、わずかに引きつった。

 だが、そこに――横手から、別の令息が、すぐさま口を挟む。

 背の高い、いかにも自信家といった顔つきの青年。

 彼もまた、出世と家の伸長を狙う野心家だった。


「おやおや、レイス殿は随分とご立腹のようだ」


 男は、あからさまに口元を歪めた。


「だが、サーシャ嬢も可哀そうだな」


 今度は、サーシャの方をちらりと見る。


「力無き者は、剣や盾の背後で喚くしか能が無い。誉れ高き武門が、顎で使われているのは遺憾だ、と私は申し上げているのだよ」


 周囲の空気が、ぴりりと張り詰める。

 そこまで露骨に口に出したら、もはやただの喧嘩売りだ、と誰もが思うレベルだった。

 サーシャのこめかみで、何かがはっきりと音を立てた気がした。


 ピキリ、と。



「……他国と、剣を用いぬ戦を続けている者達に対し」



 サーシャは、ゆっくりと男に視線を向ける。

 瞳は笑っていない。だが、口元だけは淑女らしい微笑を保っている。



「よくぞ言いました。それ」



 言葉を一拍おいて、はっきりと続ける。



「その言葉、我が武門に対しての最大の侮辱と知っての行いですね?」



 男の顔から、少しだけ余裕が消えた。

 サーシャの声は、決して大きくはない。

 けれど、その一言一言が、鋼のように重く響く。


(レイスの家が他国で血を流さずに済ませるから、私達の剣は、最後の切り札でいられる。それを分かってない奴に、偉そうに侮辱される筋合いなんて、これっぽっちもないわ)


 レイスは、サーシャの横顔を見ながら、心の中で深く頷いていた。


(そうだ。うちの家は、君達の剣が守ってくれる国を土台として、言葉の矢を飛ばしているに過ぎない。剣を軽んじるということは、自分達が立っている大地を軽んじるのと同じだ)


 互いの家の役割は違う。

 だがその違いこそが、国を支える「二本柱」だと、二人は知っている。



 だから――それを侮辱する言葉を、決して許せなかった。

 若くとも、二人が『貴族』であるが故に。



 レイスはグラスを静かにテーブルに置き、令息に向き直る。


「あなたは、戦場だけが戦いだとお考えのようだ」


 柔らかい声。


「しかし、戦を始めないようにすることもまた、戦いです。剣を抜かずに済ませるために、何百という言葉を交わす。国境の向こうにいる者達と、同じ地図を前にして、互いの利を探る」


 そこで一瞬だけ言葉を切り、笑みを深めた。


「その間、国を護る盾が、決して折れないと信じられるからこそ、できる仕事ですよ」


 サーシャも言葉を継ぐ。


「そして、その『言葉の戦』に勝ち続けてくれるからこそ、私達は剣を抜かずに済むのです」


 青い瞳が、まっすぐ男を射抜く。


「外交の家を、ただ『剣の後ろで喚くだけ』などと……本当によくぞ言いましたね」


 レイスとサーシャ、二人分の圧が、正面から降りかかる。

 男は、一瞬だけ顔を歪めたが――周囲の視線に気付いて、舌打ちを飲み込んだ。

 令嬢も、さっと顔色を変える。


「……こ、これは少々、言葉が過ぎましたわ。ね? わたくし達は、ただ心配して――」

「心配なさる必要はありませんよ」


 レイスが淡々と返す。


「これまで通り、我が家は言葉で。武門は剣で。それぞれのやり方で、国を護るだけですから」

「そういうことです」


 サーシャも微笑みながら、ぴしゃりと締めた。


「私達にとって、相手の家は誇るべき『戦友』です……軽口で貶すような真似、二度とお控えくださいな?」


 令嬢と令息は、完全に形勢不利と悟ったのか、何か言い訳を呟きながら、取り巻きと共に逃げるようにその場を離れていった。

 取り残された輪の中には、しばし沈黙が落ち――

 やがて、小さな拍手と歓声が、あちこちから湧き上がる。


「さすが、外交名家の令息様……言葉が見事だ」

「武門のご令嬢も、凛としていて素敵……」

「外交と武力、二つの柱が、お互いを立て合っている……まさに国を護る御二人ね」

「あの二人の婚約は、やっぱり国にとっても良縁なんだろうな」


 そんな声が、耳に入ってくる。

 レイスとサーシャは、同時に「あっ」という顔をし――

 即座に笑顔を貼り直した。

 そして、互いにだけ聞こえる声量で、ぎりぎりと囁き合う。


「何やってんだ!? 賛同しとけよ!? そうすりゃ婚約破棄できただろ!?」


 レイスが、笑顔を保ったまま、こめかみに青筋を浮かべる。


「こっちの台詞よ! なに反論してんのよ!? 今日が最大のチャンスだって解ってるでしょ!?」


 サーシャも負けずに青筋を立て、にこやかに。


「じゃあキミ、さっきの暴言に頷けって言うのか!? 俺が、キミの家を『乱暴なだけの家』だなんて口が裂けても言えるか!!」

「じゃあアンタは言えるの!? 外交の家が『剣の後ろで喚くだけ』だなんて、あんなの肯定できる訳ないでしょ!!」

「それとこれとは別だろうが!!」

「別じゃないわよ! ……っていうか、なんで毎回本音で殴りに行くのよアンタ!」

「そっちこそ、たまには黙ってろよ!」


 ぎゃあぎゃあ。

 しかし、あくまで小声で、笑顔は絶やさない。

 遠目には――


「さっきのことを笑い飛ばしてるのかしら。懐の深いお二人ね」

「嫌な話が出た後でも、ああやって仲良く談笑できるなんて……理想の婚約者だなぁ」


 としか見えない。

 レイスとサーシャは、どんどん遠ざかっていく婚約破棄の未来をひしひしと感じながら、笑顔のまま小声で罵り合い続ける。






 そして楽団の音楽は華やかに響き。

 シャンデリアの灯りは二人の頭上を、容赦なく祝福するように照らしていた。






この後、二人は結婚します。

常に笑顔で、小声で会話を交わす二人は、おしどり夫婦として有名になったとか。

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