4 ティア
ティアは岡本の家に居座ってしまった。しかも仕事場にまでついてくる有様だ。もうどうにもならないので、岡本は彼女に机を一つ与え、書類整理の仕事をさせることにした。
「おはようございます。日本から来ました中村です。皆さん、よろしくお願いします」
後任の中村友彦がやってきた。これから岡本は彼と引き継ぎを行い、二週間後には晴れて日本行きの船に乗れるはずだった。
「彼女は? 私のもらった名簿には女性職員はいませんでしたが。それに……」
けげんそうに中村は岡本に尋ねてきた。無理もない。駐在官事務所内には原則として現地の人間は採用しない。女性などもってのほかだ。
「昨日、私が採用した。彼女には書類整理を手伝ってもらう。貴殿には申し訳ないが、処理するものが多くて間に合いそうにないのだ」
「そうですか」
なんとなく納得できない顔ながらも中村はうなずいた。事実、岡本の机の上は大量の書類で埋まっており、それを分類、ファイリングするだけでもけっこうな労力が必要ではあった。
「しかし、この駐在官事務所内は日本人に限るということではありませんでしたか」
情報の漏洩を恐れての決まりである。それを曲げての現地女性の採用に中村が不審を抱いたのは当然だった。
「彼女は大丈夫だ。私が保証する」
「しかし……」
人手が足りないのは本当だ。中村は事務所の様子を見て思った。しかしどうもおかしい。南洋での滞在暦が長い岡本松籟という人物が、社則に反するようなことをするとも思えない。
「彼女は私がいなくなればこの事務所からいなくなる。それまでの臨時の手伝いだ。違反のないよう就業時間以外でも私が見ることになっている」
岡本はとうとうこう言った。ティアが岡本の後を追いかけて帰宅するのは目に見えていたからである。
それを聞いて中村はははあ、と言い、急に態度を和らげた。小声でこうそっと岡本に耳打ちする。
「なんだ、そうでしたか。それなら早く言ってくださればいいものを……美人ですねぇ。うらやましいですよ」
「あっ、いや、なんだ……。まあそういうことだ。悪いがよろしく頼む」
岡本は急いでその場を取り繕った。正太郎とはまた別種のやっかいごとを抱え込んでしまった瞬間だった。
このことのせいか、中村友彦は岡本にたいして妙になれなれしかった。年が近かったせいもあったかもしれない。うっとうしくはあるものの変に敵意を抱かれたりするよりはましだったので岡本は彼を適当にあしらい、たまには飲みに連れて行ったりもしていた。
そんな時期の、飲み屋でのできごとである。中村は酔っ払った声で岡本にこう切り出した。
「いいっすねえ岡本さんは。あんな美人を連れて帰れるなんて。なんですか、この島では美女を連れて日本に帰るのが流行ってるんですか」
「なんの話だ」
岡本はぎくりとしたが、中村が正太郎の騒ぎを知っているはずがない。そう思い、彼は中村に話を続けさせた。
「まぁたとぼけちゃってえ。知ってるんですよ、僕。前の人もすごい美人を連れて帰りましたよねえ。そうそう、彼我の女王とか言う」
岡本の酒が止まった。
「……誰だお前」
中村は自分のことを僕とは言わなかった。そのことに気づき、岡本の背中を冷たいものが走った。こころなしか、丸い、いかにも中年の日本人男性といった中村の顔立ちも違って見えていた。
「いやだなあ、僕ですよ、僕。水城正太郎です。あなたとこうして酒が飲めるなんて幸甚ですよ」
ゆらりと中村が立ち上がった。その姿は背の高い、ひょろりと伸びた彼の後輩の姿に変化し、酒場の喧騒に浮き上がって見えた。
「お前は水城じゃない」
数秒か、数分か、しばらくたった後に岡本は言った。酒などとうに吹き飛んでしまっていた。
「いいや。僕は水城正太郎ですよ。ほらここにちゃんと、例の髪飾りも持ってる。これが何よりの証拠です」
相手は懐に手を入れ、きらきらと光る、繊細な銀細工の作り物を取り出した。岡本が島長の家で見たものにそっくりだった。
「どこで手に入れた」
岡本は思わずうなったが、相手はびくともしない。ただにやにやと笑っているだけだった。その様子を見て、いや、と岡本は思い直した。
「どこでそんな話を聞いた。ニセモノの髪飾りで俺をだまして、いったい何をたくらんでいる」
あっはっはっは、と相手が破顔する。この岡本の前に現れた男はどう見ても正太郎にしか見えなかった。しかし、正太郎はこんな風には笑わなかったような気がする。
「本物ですよ、本物。なんならここでその証拠をお見せします」
「よし、やってみろ」
売り言葉に買い言葉と言うか、勢いと言うか、とにかく岡本はそう言ってみた。何が起こるかなど考えてもいなかった。
正太郎によく似た男が大事そうに、大きな手のひらに髪飾りを載せた。そしてその髪飾りをもう片方の手で覆って隠す。手品師がやる手つきにそっくりだった。
「いいですか……一、二、三!」
声と同時に片方の手を外す。と、そこには髪飾りはなく一羽の蝶がとまっていた。蝶は金属光のまたたく青い羽根を光らせ、男のまわりを飛び回る。
「どうですか。信じてもらえました?」
蝶がまた元通りに男の手のひらの上に戻ってきた。にこやかに相手の男は岡本に話しかける。しかし岡本は憮然とした表情のままだった。
「その蝶は、あの娘の化身なのか?」
「そうですよ」
ひどく軽率な感じで男が答えた。岡本は酒場の椅子にまた座り直し、下から男のことをねめつけた。
「……帰れ。お前は水城じゃない」
「なぜ」
「あいつは自分の大事な女のことをそんなふうに扱ったりしない。おおかたその髪飾りも、その蝶もニセモノだろう。そんな虫、この島にはたくさんいるからな」
すっ、と目の前の男の姿がかげった。同時にテーブルに突っ伏して寝ている、丸い顔をした中村の姿がだぶって見えていた。
「こいつは驚いた。あなたはなかなか手ごわそうだ」
「お前は誰だ」
男の姿が薄くなっていく。その後ろの眠っている中村はだんだんと現実味を帯びてきていた。
「水城正太郎につながる者、とだけ申し上げておきましょう」
中村が目覚めて眠そうに右手で自分の目をこすった。得体の知れない男の姿はもはやとうに見えなくなっていた。
「あなたの眼力に敬意を表して、一点だけご忠告させていただきます。あなたの連れているお嬢さんは危険ですよ。お気をつけなさい」
声が聞こえなくなるのと入れ替わりに、寝ていた中村が顔を上げて話しかけてきた。息が酒臭かった。
「やだなあ、こんなところで寝ちまうなんて。今何時です?」
「十一時半だ。もう帰るか」
中村は同意してうなずいた。
「俺も焼きが回ったかなあ。飲んでて寝ちまうなんてなかったのに。どのくらい寝てました、俺?」
「……ほんの数分だよ」
確かにそんな程度の時間だった。中村を宿舎に送りながら、岡本は正太郎によく似た男が言った言葉の意味をずっと考え続けていた。