2 島長
暗いジャングル内に咆哮が聞こえる。重苦しい楔は管理者がいなくなったせいで朽ち、弱くなっていた。呪術によって押さえこまれていた強靭な巨躯は本来の輝きを取り戻し、動くたびにまばゆいほどの鱗片を撒き散らす。
彼は長く伸びた尾を振り、まとわりつく邪魔な呪縛を断ち切った。次は頭だ。長い間眠っていた意思が目覚め、彼は三つの頭をそれぞれに動かして周囲の状況を窺った。
自分は自由だ。彼はそれを認識した。自分をずっと監視していた青い蝶の群れもいない。それを操っていた彼のあるじとも言うべき存在も感じられなかった。
いや、その存在はあるじなどではない。彼の本来のあるじは別な場所にあった。彼はこの地に降り立ち、かの者と戦って敗れたのだ。それゆえの服従だった。
かの者は大地から生まれた。星辰の従者であった彼は、相対した一撃でかの者に敗れ去った。その時はかの者はまだ現在の姿ではなく、大地の精気そのものといっていい状態だった。
それゆえ負けた。今のかの者の姿は彼よりもずっと脆弱だった。なぜこんなにも長い間、自分はかの者に従っていたのか、彼は自問する。理由は分かっていた。彼は主なる者に繋がれ、そのエネルギーを得ることで動いている。かの者は彼の本来の主人から自分へと、彼のエネルギーの流れを繋ぎ替えたのだった。
もっともそれにより、彼はかの者のエネルギーを吸い取り、現在の姿に変えたと言ってもよい。膨大な大地の精気はほとんどが彼に流れ込んでいた。凶たる星辰の従者から柔和な大地の守護者へと、その力は彼のありようをすっかり変えてしまっていたのだった。
その仮面が今はがれようとしている。かの者からの回路が途絶えた今、彼が必要とする量のエネルギーは星辰から得るしかなかった。彼は意志を司る中央の頭をもたげ、頭上に瞬くシリウスに向かって呼びかけた。
殺戮がやってくる。
デサ・ラウの島長が最初に感じたのはそんな直感だった。だが、死者の国にどうやってそんなものを持ち込もうというのだろうか。葬送の祈りが終わり、島長は妻が持ってきた清めの枝で全身を払いながら星空を眺めた。
岡本に依頼はしたものの、水城正太郎は戻ってこなかった。岡本が信用の置ける人物であることは分かっている。正太郎も彼を信頼していた。彼我の女王に関する一連の出来事でも、最終的には正太郎は岡本のすすめに従い、帰郷を選択したのだ。
その彼が書置きをして日本への船からいなくなった。岡本の手紙と入れ違いだったというから、おそらく何か重大な心境の変化があったのだろう。だが、現時点では正太郎がいなくなったのはカモオイ島付近であるということしか分かっていない。
島長はふと、星空が動いたように思った。そんなはずはない。流星が落ちたのをたまたま、目の端に捕らえたのだろう、そう思おうとした。
その時だった。
ジャングルの奥より、すさまじい轟音が聞こえてきた。続いて星辰を揺るがすような咆哮が響き渡り、それから島の空気が一変した。
「三叉の竜!」
間に合わなかった。島長は瞬時にそれを理解した。彼我の女王のくびきが外れたのだ。いにしえの神話を島長は思い返した。
「……星空より来る禍はかの島に降り立ち、島の女王と争いて敗れたり。その者、女王に三度逆らいしも、そのたびごとに戒められたり」
早すぎる。三つの戒めがなくなるまではまだ時間があったはずだった。最後の、意志を縛り付けているはずの楔はまだずっと後に外れるはずだったのだ。
「こんばんは」
結界を破って侵入した者があった。座敷から開けた庭にたたずむその人影は、真正面から島長の顔を見つめた。
「お前は……」
正太郎によく似た、細い顔立ちの若者だった。だがその目は野心に燃え、温和な正太郎とは似ても似つかなかった。
「僕は、あの二人の居場所を知っていますよ」
さらりと言う若者の周りを黒い蝶が何羽も何羽も飛び交った。大きな羽根は優美な曲線を描き、長い尾の先には白い斑点が目に付く。黒アゲハだ。
だが島長は今までこんな生き物を見たことはなかった。この島にはこんな蝶はいない。近隣の島々でも見たことはなかった。
「どこから来た」
島長の質問に彼は笑った。
「どこでもいいでしょう。それよりも僕はあなたに用事がある」
デサ・ラウよりももっと東、それこそ日本あたりに近い場所の魔術師だろうと島長は見当をつけた。
「水城正太郎殿の縁者か」
「そうとも、違うとも言えます」
若者は笑顔を崩さない。その笑顔のまま、彼は島長にこう迫ってきた。
「この島を僕にくれませんか。そうしたら、あの二人の居場所を教えてあげます」
「何……?」
「どうってことはありません。彼我の女王の代わりに、僕がこの島の常闇を支配したいと、そういうことです。現在彼我の女王はいない。あなたはずいぶんとお困りのはずだ。そうじゃないですか」
妖しげに黒い蝶が島長のまわりを舞い飛ぶ。
「お前は誰だ」
「答えるつもりはありません。けれども僕ならば、三叉の竜を押さえることができますよ。恋に狂ってしまった彼我の女王よりも上手にね」
星空を切り裂いて閃光が走る。島長はやっとの思いで若者が放つ雷光をかわした。
「常闇は渡さぬ」
島長の返事を若者は嘲笑する。
「あなたにできますか。現世と常闇、それに星辰。この三つを人の身で引き受けることなどできっこない」
「ならお前は人ではないのだろう」
「さあどうでしょうか」
若者は明らかに島長のことを狙っていた。黒地の羽についた白い点が明滅し、島長の目を惑わせる。同時に島長は目に見えない小さな空間に囲い込まれ、逃げ場を失った。
「さようなら」
時期はずれの稲妻がジャングルの上空に閃いた。