1 水城正太郎
岡本松籟はそのまま島にとどまっていた。後任の水城正太郎は結局、交易以外のほとんどの仕事に手を付けておらず、また引き継ぎをしなくてはならない中村友彦とは会わないで日本に戻ることになったからだった。
それは岡本がそう手配を取ったからでもある。だいぶよくなったとはいえ、ふらふらでどす黒い顔色の正太郎を見れば、ほとんどの人間は何があったのか聞きたがるだろう。面倒なことはなるべく少ないほうがよい。本人さえいなければ情報を遮断しておくことも可能だ。
(それにしても)
岡本は駐在官事務所の硬い椅子に座りながら思った。目の前の机には結構な量の書類が積み上げてある。全部正太郎の置き土産だ。
(俺には分からないことだらけだ。なぜあんなことになってしまったのだろう)
やる気なく片肘を突き、岡本はぼんやりと考えた。あまりの仕事量にくたびれてしまったのだ。
シラーという娘はおそらく、今まであんな風に扱われたことがなかったのだろう、そう岡本は結論づけた。この島の人間は畏怖を持って彼女を眺めるだけで、誰もただの娘として彼女を見なかった。そしてそれは彼女のこの島での役割を思うと至極当然のことでもあったのだ。
(まったく、馬鹿が)
知らなかったとはいえ、正太郎はタブーに触れてしまったのだった。だから島長は彼女を封じてしまった。目には見えないし自分には分からないが、おそらく今このデサ・ラウの島は混乱をきたしているのだろう。岡本はそう思う。
そこへ連絡官が書面を持って入ってきた。扉は開けっ放しだから、岡本には相手が難しい顔をして廊下を歩いている様子から見えていた。
「失礼します。島民の代表より、至急にお会いしたいと連絡が入っております。できれば岡本殿にお越しいただきたいとのことです」
「分かった。今行く」
何の話だろうと岡本は思いながら席を立った。あまり面倒な話はしたくない。できれば次駐在官の人となりぐらいの話にして欲しかった。もうわけの分からないことは願い下げだ。
そうは思っても、彼はこの島の怪異とすでに深く関わりあってしまったのだった。なんとなくため息をつきながら、岡本松籟は連絡官の後についていった。
島長の家は相変わらずで、ここで正太郎をめぐる憑き物落としの騒ぎがあったなどとは信じられない様子だった。島長も相変わらずの穏やかさであり、岡本はほんの少しだけ安堵を覚えた。
「今日はなんでしょうか」
板張りの座敷に上がりこみ、丁寧に岡本は尋ねた。島長の年老いた妻が彼らの前に何かの木の実と白っぽい粉末を差し出す。びんろうじゅの実と石灰だ。
「ああこれは」
これが客人の前に出てくるということは、なにか岡本に頼みごとがあるということを意味する。島長はひとつを自分の口に含み、もうひとつを岡本に手渡した。岡本はあまりこれが好きではないのだが、仕方なしに自分の口に放り込んだ。
「実は彼我の女王のことなのです」
岡本としては一番避けたい話題だった。もう勘弁してくれ、岡本がそう思ったのが顔に出たのだろう、島長は淡々と話を続けた。
「あれからこの島で死者が何人出たのかご存知ですか」
「いや、そこまでは」
事故死については岡本のところに連絡が来ることがある。交易上問題になることがあるからだ。しかし病死についてはその限りではない。
「五人です。老衰と病死で、病気の者も長患いの人間でした。いずれも準備が整っていた者達ばかりです」
「はい。それで」
びんろうじゅの実を噛んでいる島長の口が真っ赤になる。岡本も同じようなはずだ。
「しかし、この世を去っても常闇からの迎えはありませんでした。仕方なしに我々が送りました」
「は」
島長の話は、岡本には分かりづらい時がたまにあった。今回もそうだった。
「あの、それはどういうことでしょうか」
「彼我の女王はいなくなってしまったのです」
岡本は初めてこの時、島長の表情が翳ったのを見た。同時に岡本に説明することにかなりの苦心とためらいがあることも分かった。
「いなくなった?」
「ええ」
ここまで話しておきながら島長には逡巡が見て取れた。それでも島長は言いづらそうに口を開いた。
「あの時、我々は彼我の女王をここから追い返しました。しかし、この島から立ち去れとは言っていないのです」
岡本はあいづちを打ちながら、黙って話を聞いているほかはなかった。確かに島長とその妻はシラーに「二度とここには現れるな」と言った。だが、それなら彼女は常闇に戻るはずだと言う。
「この世は彼我の女王の管轄する場所ではない。それは我々もわかっているし、彼我の女王ももちろん分かっています。この世から追い返されれば常闇の、自らの棲む場所に戻る、それが決まりです。なのに現在、常闇には棲む者がいない。統治するものがいないのです。これがどういうことかお分かりですか」
島長は彼に頼みごとがある。それと考え合わせると出される結論は一つだった。
「つまりは、彼女は水城が連れていってしまったと、そういうことでしょうか」
「おそらくは」
一呼吸置いて島長は答えた。そして、と後に付け加える。
「現在、この島には彼我の女王はいません。彼我の女王は常闇とそれに属する者達すべて、そして天地の現身である三叉の竜を統治する強力な存在です。常闇の者どもは私が抑えてはいますが、三叉の竜までは手が及びません。早急にあの若者を呼び戻す必要があります」
岡本の脳裏にあの、正太郎がシラーに贈った銀細工の髪飾りのことが浮かんだ。
「分かりました。まだ船は日本に着いていないはずです。至急に水城の奴を呼び戻しましょう。本社への電文は私が書きます」
「よかった」
島長の顔に安堵の表情が浮かんだ。
「なるべく早くあのお若い方が戻るようにお願いします。私もいつまでも常闇の者どもを抑えてはいられないのです」
「ではさっそくにも。私は事務所に戻らせていただきます」
岡本はそう答え、その場から立ち上がった。しかし内心ではもうまっぴらだとも思っていた。島長の危機感は理解できても、何が起きているのか正直なところ岡本には分からない。
(これで終わりにしよう。もううんざりだ)
正太郎を島に呼び戻せばこのばかげた騒ぎも終わる。岡本は島長に丁寧に挨拶をし、密林の奥の民家から退出した。
船はもう南大東島のあたりまで来ていた。船長は先ほど送られてきた手紙を、中途からの乗客である水城正太郎の船室に持って行った。
「水城さん、入りますよ」
ノックをしたが返事がない。昼寝でもしているのだろう、船長はそう考え、軽い気持ちで船室のドアを開いた。
「あれ?」
正太郎はいなかった。デッキか食堂に出ているのだろうかと船長は一瞬思ったが、すぐに私物である大きな鞄がなくなっていることに気がついた。
「水城さん?」
室内は妙にきちんと片付けられている。よく書き物をしていた机の上には紙切れが一枚、インク壺を押さえにしておいてあった。船長はそれを手に取り、書いてある文章を読んだ。
「どうしても外せない所用のため、私はこの船を下ります。日本には戻りません。デサ・ラウ島にいる岡本松籟殿には御迷惑をお掛けします。日本にいる父母には申し訳なく思います。けれどもどうしても日本には戻れないのです。ご理解下さい。申し訳ありません。水城正太郎」
病気をして日本に戻るという話だったので、船長は一人用の一等船室を彼の為にあてがった。事実、乗船してしばらくの間、正太郎はどす黒い顔色をしてうつうつとベッドで眠っているばかりだった。最近は少し動けるようになったらしく、天気のいい日はデッキでぼんやりしていたり、日記や手紙をしたためたりしていたのだった。
「おいおい」
おそらく今朝、物資の補給に立ち寄ったカモオイ島で逃げたのだろう、船長はそう見当をつけた。舌打ちをしながら正太郎あての手紙をひっくり返す。そこにはこう書かれていた。
「水城正太郎殿へ。火急の用あり。至急デサ・ラウ島に戻られたし。件の髪飾りを忘れずに持参のこと。岡本松籟」
いずれにしても面倒なことだった。船長は正太郎の部屋を出て、各方面に打電をするべく船内の階段を上っていった。