五
正太郎はぼんやりと船を待っていた。後任には経験を積んだ、四十過ぎの中村という男が来ることに決まっている。あれから正太郎は二月ばかり生死の境をさまよい、つい一週間前にやっと病院のベッドから開放されたところだった。
医者の診立ては慣れない暑さによる神経衰弱だろうということだった。南方の景物と気候、それに風習が生来真面目な彼にかような幻覚を見せたのだろうという。
「適当を言うな」
正太郎は船着場にある、簡易なつくりのベンチに腰掛けたままつぶやいた。
岡本の声掛けもあり、正太郎は帰国後は内勤にまわされることになっていた。そのほうがよかろう、と岡本は言ったものである。
「お前は暑さにやられて体を壊して帰国したんだ、いいな」
そしてこう念押しした。
「絶対にシラーとかいう娘のことは話すな。忘れろ。なかったことにするんだ」
正太郎の手元にはあの銀の髪飾りがあった。彼は船を待ちながらそれをもてあそび、ためすがめつ眺めていた。
「忘れろ……か」
無理に決まっている、と正太郎は思った。あれでよかったと岡本は言うが、彼にはそうは思えなかった。もしかしたら違う方法があったかもしれなかったのだ。
(愛している)
最後の瞬間のその言葉が彼の胸に突き刺さった。だが彼女とともにゆく心構えも、彼にはできていなかった。
(救われない)
己の救われなさにこれからずっと付き合っていかねばならぬ。どんなに救われなくても冥府まで行けば、たいていの者は自分を赦す気持ちにもなれよう。しかし正太郎にはその赦しは存在しなかった。
黒煙が見え、前方の水平線上に船がやってきた。正太郎はさんざん迷って髪飾りを鞄にしまい、きつくその船を睨みつけた。
(なかったことにはしない)
けれども誰にも話さずにいよう、そう心を決めてベンチから立ち上がる。汽笛が鳴って船が近づいてくる。強風が舞い、正太郎の着ている上着をはためかせ、つば広の帽子をさらおうとした。
正太郎は帽子を押さえ、後ろに見えるこんもりとした密林と高い空を見上げた。そして日本行きの船が来るのを、その場に立ち尽くしてただじっと待っていた。