四
その晩、岡本は島長の家に泊まり込んでいた。島長は正太郎だけ預かると言ったのだが、無理を言って泊めてもらっていた。島長に何かあったら自分のせいだとも思ったし、あの状態の正太郎を置いてもいけなかった。
「では、何があっても絶対に手を出さぬことです。いいですね」
島長は彼にそう言い含め、妻と共に庭に面した座敷の奥に座っているようにと言った。岡本は条件を飲み、こうこうと月光が差し込む部屋にちんまりと座っていた。
部屋の前方、庭に面したあたりには、正太郎がむしろの上に寝かされ、そのすぐそばには島長が座っていた。あれから正太郎は前後不覚に眠り続け、一度も目を覚まさなかった。
「来た」
思わず岡本は声を上げた。暗い夜の中、月光に照らされて青い蝶が一羽、正太郎のそばを舞っていた。
「彼我の女王よ。いにしえより我らが終の安息を守る、古く若く美しい娘よ。デサ・ラウの島長より懇願する」
びん、と張った低く威厳のある声が聞こえる。蝶はふわりふわりと上下しながら島長の周囲を舞った。
「この若者はこの島の者ではない。この者の入る墓穴も、この者を迎える常闇もここにはない。手放すがいい。為にならぬ」
蝶は相変わらずふわりふわりと舞いながら島長と正太郎のまわりを飛んでいる。
「三叉の竜よ」
島長は今度は違う存在に向かって語りかけた。
「デサ・ラウの島長より懇願する。あるじを常闇に連れ戻せ。地上はあるじの為にならぬ。連れ戻せ」
蝶が島長の肩にとまる。次の瞬間、島長は凄まじい衝撃を受けて床に転がった。岡本ははっとして飛び出そうとしたが、島長の妻に止められた。
「生意気な」
若い娘の声がした。背筋が総毛立つような、恐ろしいものを秘めた声だった。
月を背に黒い髪と黒い瞳をした少女がたたずんでいた。年のころは十五、六だろうか。だがその瞳には油を流したような膜がかかり、ぎらぎらと青く光っていた。
「人の分際でわたしに命令するか、デサ・ラウの島長よ。わたしを止めようなどどは愚かなことよ」
緩慢な動作で島長が床から起き上がった。倒れた拍子にどこかを切ったらしく、顔から血が流れていた。
「命令なぞできませぬ。お願い申し上げているのです」
少女が月を見上げる。
「ではこの結界はなんだ。わたしを呼び出し、まんまとこの建物に閉じ込めたな。何をする気だ」
「あなた様と話をするにはこれくらいの準備が必要だと思いましてな」
民家から見える庭には数十羽の蝶が舞い飛んでいた。だがどれも中に入ってこようとはしない。正面が大きく開けているのに奇妙な眺めだった。
「正太郎」
床に横たわる姿を眺め、愛しげに娘が名前を呼んだ。島長が身構える。
「その者をお返し下さい」
娘の髪に光る銀の髪飾りに岡本は気づいた。どう見てもこんな南の島にあるようなものではない。
(あんなものをやったのか)
魔物であっても娘は娘だ。岡本はこの少女が正太郎に執心する理由が分かったように思った。と同時に、正太郎が取り返しのつかない失敗をしたことも理解した。
「なぜだ」
「この島の者ではありません。あなた様も分かっているはずです」
床の上からごつり、と物音がした。正太郎が気がつきかかっている。
「水城!」
思わず岡本は小声で彼のことを呼んだ。正太郎は薄目を開け、ぼんやりと座敷の奥にいる岡本を見た。
「動くな!」
島長が岡本と正太郎のことを叱りつける。だが遅かった。
「奥にも誰かいるな。何を企んでいる」
彼我の女王が言った。
「正太郎だけ連れて行くつもりだったが、止めだ。三人ともわたしのところに来るがいい」
青い炎が少女の目の中で揺らめいた。正太郎が寝返りを打ち、そちらを向く。
「何事だ……」
蝶の数はますます増え、見えない外壁に向かって体当たりを繰り返していた。さっきまで明るく輝いていた月も蝶の群れに遮られ、見る影もない。室内は暗く、狭くなり、温度すらも下がってきたようだった。
「ぐっ」
島長は敗れつつあった。まもなく結界は破られよう。今や数百もの蝶がこの小さな民家に集結し、中に飛び込む隙を窺っていた。
少女の目が床に臥している正太郎を見下ろす。優しくも残酷な目だ。まもなく正太郎は彼女のものとなる。
「正太郎」
その声は恋人を呼ぶ声だ。だが、島長のまじないと彼我の女王の術、両方にがんじがらめにされて正太郎はそこから動けないでいた。しかも身動きできないばかりか、だんだんと息苦しくなってくる。
「うっ……が……」
正太郎の息が詰まる。目は真っ赤に充血し、気づいたばかりの頭は朦朧としてきた。見えない手が彼の喉を締め上げつつある。どちらのわざも強力であり、正太郎は救いを求めて思わず彼女の名を呼んだ。
「シラー……」
優しく見下ろしていた少女の目が、とたんに恐ろしいものへと変化した。
「謀ったな!」
座敷の奥からカタクの枝でできた楔が飛び、少女の胸に鋭い音を立てて突き刺さった。しわがれた、老女の声が暗闇から響く。
「名が分かれば封じられる。それは神でも死霊でも同じこと。自分の住処におとなしく帰るがいい」
島長の妻だった。
「シラー!」
均衡が破れた。
正太郎が咳き込みながら起き上がり、胸から血を流している少女のほうへ手を伸ばす。しかし触れることはかなわず、もう一本、島長の妻が彼女を狙って正確に楔を投げつけた。
「行くな!」
正太郎の願いもむなしく、二本の尖った木の枝が魔を封じ、島長に勝利をもたらす。
「デサ・ラウの島長が命じる。シラーという名の娘よ。自らの棲む常闇の中に疾く去れ。二度とここには現れるな」
朗々とした、低い、威厳のある声が響く。あれほどいた青い蝶は四散し、密林の奥へ消えていった。魔が消え、彼女は常闇を統べる彼我の女王から、ただの恋する娘へと変わった。
「正太郎!」
月に照らされたシラーはなかば消えかけていた。その青く光る瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちる。
「愛している」
そしてついに消えてしまった。
「シラー!」
かたん、と音がして何かが床に落ちた。正太郎がやった銀の髪飾りだった。