三
正太郎が駐在官事務所に来た時には、今日の分の書類は全部処理済になっていた。岡本が済ませたのだ。そして彼が座るはずの椅子には岡本松籟が座っていた。
「遅いぞ」
叱責されて当然だった。時計はもう午後の二時をまわっていた。
「いつ来た」
正太郎はぐらぐらと上体を振りながら言った。岡本が顔をしかめる。
「ひどいと聞いていたがここまでとはな。なんのためにこの島に来たのか分かっているんだろうな」
「分かっているさ」
軽薄に正太郎が答える。顔色はどす黒く、ただでさえ細い体がいっそう痩せてしまっていた。足取りは若者とは思えないほど重く、おぼつかない。
「座れよ」
立っているのがやっとらしいと見て、岡本は彼に客用の椅子をすすめた。座る時のどさっという音と背を丸めた姿が異様に年寄りじみて見える。
「何があった」
「何もない」
背を丸め下を向いたまま、彼のほうを見ずに正太郎は答える。以前とはまったく様子が違っていた。
岡本は正太郎とは引き継ぎの時に会ったきりだ。それでもはきはきと受け答えをし、生真面目で熱意にあふれた態度に好感を持って彼を迎えた。島の住民達との関係も、交易もこの男ならまかせて大丈夫だと安心して島を出たのだ。
岡本はため息をつき、机の上に置いてあった書類を取り上げた。こんな風に陰気にぼそぼそ話す男ではなかった。
「そんな状態でよく仕事ができるな。交易額だけは上向いている。何があった」
「交易は問題ない」
相変わらず下を向き、正太郎は答えた。
「彼女が全部やっている。お、おれは……問題ない。だ、だいじょ……ぶだ」
言葉がもつれた。岡本がその言葉を聞きとがめる。
「彼女って誰だ?」
「なん……でもない。大丈夫だ」
岡本の頭に閃くものがあった。この変わりようはそれ以外考えられない。まさかとは思ってみたものの、正太郎の生真面目な面が南洋で裏目に出たのだ。
「お前、阿片をやっているな」
ついで大声で正太郎のことを怒鳴り飛ばした。
「女に迷ったな、水城! そいつはどこの女だ! 言ってみろ!」
正太郎はきょとんとした。びっくりしたように岡本のことを見て、やにわにケラケラと笑い出した。
「そうか、そうだったか……そうだとも、おれは女に迷ったんだよ、その通りだ」
「言え! そいつの名前を言うんだ!」
ケラケラと笑いつつ、正太郎は怒り狂う岡本の要求を拒否した。
「駄目だ」
「言えよ!」
狂ったような、乾いた正太郎の笑いは続く。
「言っちゃ駄目なんだよ……言ったらいけないんだ。彼女に会えなくなってしまう……」
青い蝶が、石造りの白い駐在官事務所のまわりをゆっくりと二周し、飛び去っていった。
正太郎を引きずり、岡本はあの密林の奥に埋もれる民家へと向かっていた。彼らが細いけもの道を抜けてくだんの家の前に着いたとき、そこには白髭の老人とその老妻、それにその足元を歩く数羽のにわとりがいた。
「お前はいったいどこに通っていたんだ」
岡本がかなりきつい口調で正太郎を問いただす。一方の正太郎は地面に座り込み、ただ呆然とあたりの様子を見回すだけだった。
「ここはどこだ」
「島長の家だ」
正太郎は初めて気がついたように岡本の顔を見た。それから彼らの近くまで来た白い髭の老人を見上げ、そんなはずは、とつぶやいた。
「この方は」
穏やかに島長が尋ねる。
「私の後任の者です。三月にもなるのにまだあなたに挨拶に伺っていなかったらしい。いったい何をやっていたのか」
老人はかがみこみ、正太郎の様子をじっと観察した。それから額に手をかざし、むう、とうなって何か払いのけるようなしぐさをした。
「どうかされましたか」
岡本の質問に島長はこう答えた。
「よくないものがおりましたので払いました。お若いが真面目な方のようだ。何か事情があったのでしょう」
島長の妻が切ったばかりの木の枝を持ってきて、ばさばさと正太郎の上で数回振った。何かの魔除けらしかった。
「なんですか」
不思議そうに聞く岡本に島長は説明した。
「カタクの枝です。憑き物落としに使うのです」
「お、おれは」
正太郎が叫ぶ。
「ちゃんと挨拶をした。ちゃんとこの島の長に会ったぞ。わ、若い……娘だった。彼我の女王とか言っていたんだ」
「何を言ってる」
岡本が渋い顔をした。島長の顔がこわばる。
「彼我の女王だと」
そしてこう正太郎に聞き返した。
「お若い方よ、本当に彼我の女王に会ったのか」
ああ、と正太郎は泥まみれで地面の上から叫ぶように答えた。
「本当だとも。青い……青く光る目をした娘だった。おれはその娘と会って……それで……」
「名前は!」
岡本が詰問した。
「な、なまえ……彼女の、なまえ……なまえは……」
「シイラという娘ではないかね」
島長の問いに正太郎はかぶりを振る。
「違う」
「ではサーラか」
「いいや」
「セルラでは」
「いや……違う。そうじゃない」
ここまで言ったかと思うと正太郎は急に気を失い、がくりと地面に崩れ落ちた。おい、と岡本が襟首をつかんで引き起こそうとするのを島長が止める。
「どれも違うのか。なんということだ」
「どういうことです。何かご存知なのですか」
せっつく岡本に島長は説明をした。
「彼我の女王というのは地位を示す言葉です。このお若い方の前に姿を現した者の本当の名ではない。さっき私が言ったものはいずれもこの島に伝わる、その者を示す名なのですが……やはり本当の名は違うようだ」
「違う?」
「ええ」
岡本は島長の言うことが微妙に飲み込めないでいた。島長が説明したことと、今の正太郎の状態とのつながりが分からなかったのだ。
「どういうことでしょうか」
「この方は魅入られてしまったようです」
島長の言葉に岡本はさらにけげんな顔になった。
「魅入られた?」
島長は岡本を自分のそばまで下がらせると、妻から木の枝を受け取りまた数回正太郎の上で振った。緑色だった木の葉が茶色くなり、はらはらと正太郎の上にかかった。
「なんて瘴気だ」
島長の妻が次から次へと木の枝を持ってくる。しかしどれも正太郎の上で枯れてしまうのだった。十数本も枯れ枝ができあがった頃、やっと島長は木の枝を振るのをやめた。
「いったい何があったのです」
さすがにここまで来ると、岡本も正太郎の身の上に何か怪異があったことを認めざるを得なかった。島長は岡本にも怪異の飛び火を防ぐために簡単なまじないの儀式をし、自分にも同じことをした。
「彼我の女王というのは」
気のせいか、正太郎の顔色はさっきよりもいくらかましになったようだった。表情も穏やかになり、ぐっすりと眠っているようにすら見えた。
「この島に古来より君臨する、死者達を統べる存在です。自分よりも力のある、天地の化身である三叉の竜を従え、青い蝶を化身とする。そして自分の気に入った者を見つけるとあの世に連れて行くのです」
「その話は聞いたことがありますが……ただの神話ではなかったのですか」
岡本は確かに、この島に来る時にそのような話を聞いたことを思い出した。しかしそれは単なるこの島の住人達に関する知識としてのもので、このような、現在も島民達に脅威を及ぼす存在としてではなかった。
「違います」
島長は言った。
「この島の者はすべて、彼我の女王の支配下におかれています。この私も例外ではない。彼我の女王は時期を見はからい、冷静に、冷酷に我々の命を奪ってゆきます。その姿を見た者も、その名を知る者もいるはずですが、いずれも正確には伝わっていない。なぜなら彼女に出会った者はみな、この世を去ってゆくからです」
「では、水城はどうなのです」
「この若者は何か、彼我の女王に気に入られる部分があったのでしょう。ときおり、そういう者が出ます。特に決まってはいませんが、数十年に一度、病気でもないのに痩せ細り、不審な死に方をする者が現れるのです。たいていは若者です」
昨日の岡本だったら一笑に付していた。今日はもう笑うことはできない。
「あなた方には単なる迷信に思えるかもしれないが、我々にとっては大変な出来事です。彼我の女王に魅入られた者は戻ってこない、それがきまりなのですから」
岡本の表情が硬くなる。
「では……」
島長は目を伏せ、痛ましそうに地面に横たわる正太郎を眺めやった。
「この若者はこの島の者ではない。ならば彼我の女王も手放すかもしれません。もし駄目ならば……」
岡本がごくり、とつばを飲んだ。夕暮れが近くなる。島長の妻は枯れ枝を片付け、夕餉の支度を始めていた。