2 南洋貿易公社
数日後、岡本は久しぶりに南洋貿易公社の事務所に顔を出した。もうとっくに引継ぎは終わっており、中村が忙しそうに事務所内を走り回っていた。
「おや、岡本さん」
昼に岡本は中村を食事に誘った。社員専用の食堂で明るい日差しの中、ガラス器に入った飲み物なぞすすっているとこれまでの出来事がまるきり嘘のように思えた。
「何ですか、頼みごとって」
岡本は小さな布袋を取り出した。中身は出ないように入口も縫いとめてある。ティアはこの小袋を作ると中にあの小石を入れ、入口も縫い潰した。袋の中には石だけでなく一緒に厄除けの小枝も入っており、若干かさばっている。
「これなんだが、ちょっと預かってもらえないか」
中村はその小袋を受け取り、しげしげと眺めた。
「なんですか、これ」
岡本はぶすくれた顔でこう言った。中村の性格からいっておそらくこれなら詮索されまい。そして開けられることもないだろう。
「ティアに寄越された。まじないの石だからずっと持ってろってな。うるさいんで取りに来るまでちょっと事務所の引き出しにでもしまっておいてくれ。なくしそうなんだ」
中村が大笑いした。いやあ、困りましたねえ、と笑いながら言う。
「いいじゃないですか、お似合いですよ。今回日本に帰らなかった理由はやっぱりそれなんですか」
「いや」
自分がそう仕向けたとはいえ面白くなくなってきたので、岡本は無愛想に答えると運ばれてきた皿盛りのひき肉炒めを口に運んだ。中村は上機嫌で給仕を呼んだ。
「ああ、ビール二つね」
「はい」
酒が運ばれてくる。いいのか、と岡本が言うと中村は言った。
「決まりが変わって三時まで昼休みなんです。することもないんですよ」
数日前からそうなったそうで、南方に出る駐在社員は暑さ負けを防ぐために三時まで休憩を取ることになったと中村は言った。
「そうそう、岡本さんの次に来た奴って」
「ああ、水城か」
ビールをあおりながら岡本は言った。
「阿片でやられたそうじゃないですか。しかも今、行方不明なんでしょう」
「ああ」
「聞いた話ですけど、なんでも女に入れ込んで潰れたとか。岡本さん、そいつってどんな奴だったんです」
まさか本当のことは言えない。岡本は言葉を選びながら中村に言った。
「優秀だったな。だが堅物だったんでそれだろうな。暑さに当たって南方でたがが外れちまったんだろうよ」
中村がにんまりした。
「いくら優秀でもそれじゃねえ。人事も青くなってあわてて就業規則を見直したらしいですよ」
そんなものだったらはるかにましだった、岡本はそう思いながらビールをぐいっとあけた。中村がもう一杯ですねと言い、追加を給仕に頼んだ。
星神の通貨は南洋貿易公社の事務所引き出しにある。規則でそこには日本人しか入れない。岡本が取りにいくまで預かってもらうことになったと聞いて、ティアはほっと胸をなでおろした。自分は特例でそこにいたが、後任の中村は来たばかりでまだ岡本のような無茶はできない。それに違反した場合は罰則で解雇される。岡本は解雇を覚悟でティアを事務所に入れたのであり、そのことを中村はよく分かっていて、この件について黙っていてくれていたのだった。
ティアは報告のために島長の家に赴いた。年のいった島長の妻はティアの話を聞き、奥からサジムを呼んだ。
「何ですか、ばば様」
サジムが出てくる。庭先で遊ぶにわとりを眺めながら、島長の妻は言った。
「お前はここにいるように。ティアが戻ってくるまでは勝手に出て行ってはいかんぞ」
「どうしてです」
サジムがこの家にいるわけを、ティアはさっき島長の妻から聞いた。サジムの父は漁師だが病気で腰をやられ、今年は出漁できないためにサジムをこの家の手伝いによこしたということであった。
「仕事のないときは自由にしてよいとおっしゃったじゃないですか」
現在男手のない島長の家では、労働力としてサジムに頼ることがけっこうあった。それなりに彼も忙しかったのだがこの家にいればティアに会えるし、時間があったら会いに行ってもいい。そんな気持ちで彼は島長の家に来たのである。岡本のことはまったくの予想外であった。
「それにばば様、ティア様はこの島の次の鎮座です。なのにあの……あんな日本人なんかにつけてしまっていいのですか。俺は納得できません」
知らず知らずのうちに不満が爆発した。島長の妻は落ち着いた様子でサジムのことを見た。
「どうなろうとも、それはティアの選んだことよ。今のところティアもあの日本人も間違ってはいないようだ。ならばお前の口出しすることではあるまい」
「しかし……」
島長の妻は、ティアにもういい、という合図をした。
「分かりました、ばば様」
ティアはそのまま退出したが、後ろからサジムの叫ぶ声が聞こえてきた。
「俺は認めません! ティア様をあんな日本人にやるなんて、俺は絶対に認めない! 駄目です!」
その声に驚き、台所にいた手伝いの女性が出てきた。かつていたティアの代わりに、島の人間が交代で高齢になる島長の妻の世話をしに来ているのだった。
「どうしましたか、おばば様」
小声でまじないを唱え、島長の妻はサジムを落ち着かせた。落ち着かせたというよりは強制的におとなしくさせたのだった。
「カタクの枝を持ってきておくれ」
「はい」
女性はいったん退出し、庭から切りたての小枝を持ってまたやってきた。島長の妻は、硬直した様子のサジムの頭上で葉のついたその枝を振り回した。緑色の幅広の葉が茶色くしなび、ばらばらとサジムの頭上に落ちる。
(おやおや)
思い込みは時に危険な落とし穴となる。かくん、と体が傾き、サジムは気を失ってその場に倒れた。島長の妻は念のためもう一回カタクの枝でまじないを行い、サジムのまわりにまとわりついていた星神の気を完全に追い払ったのを確認して、サジムを寝床に運ぶように手伝いの女性に頼んだ。
「人を呼んできます」
ああ、と島長の妻はうなずく。それから空を見上げ、上空を舞う大小二匹の青い蝶を見つけた。
「どうにかなるかね」
蝶は太陽光を反射してきらめき、二匹ともそのままどこかへ飛んでいってしまった。そこへ失礼しますと言って、手伝いの女性が頼んだ男性が部屋に入ってきた。
「疲れているようだ。ゴゴンの香を焚いて、よく寝かせてやっておくれ」
島長の妻はそう指示をしてまた外を眺めた。空にはもう何もいず、火傷しそうな太陽がぎらぎらと光っているばかりだった。




