4 埠頭
ティアが戻った時に、岡本は無愛想に「戻ったか」と言っただけだった。それでも夕飯は二人分が用意されていてティアはまた驚いた。
「食うんだろう」
戸惑いながらもティアはいつも自分がいた場所に座った。夕飯といってもたいしたものがあるわけではない。蒸かした芋と、ぶつ切りの魚と豆のごった煮という程度だ。それでも量は充分にある。
「お前がいないと聞いてバナカンバの奴が持ってきた。あいつもおせっかいだな」
昼に訪ねてきた知り合いが届けていったらしい。ティアは岡本と向かい合わせで座り、その話を聞いていた。食べながら岡本が言う。
「で、何か見つかったのか」
ティアは木の匙ですくった豆を見つめて、そのまま考え込んでしまった。やがて意を決してこう言った。
「岡本様は、どこまでご存知なのです?」
「何が」
芋をかじりながら岡本が言う。ティアはこう続けた。
「水城様の影を見ました」
「おまえもか」
熱のない様子で岡本は答えた。
「明日、岡本様は日本に帰るから一緒に船に乗っていけと。手配は取ってある、そう言われました」
「で、どうするんだ」
最後の汁をかっこみながら岡本は言った。ティアは室内を見回し、呪文で簡単に結界を張った。数時間で消えるまじないであるが、その間はどんなものも結界内には入れない。そして帰る道すがらに考えていたことを話した。
「岡本様についていくふりをします。岡本様は今までどおりにして下さい」
「今まで通り?」
「私をじゃけんに扱ってください。それで疑われません。そして船についたら……」
こんなことは今まで考えたこともなかったし、話したこともない。ティアとしては一世一代の大博打でもあった。
「……意外と根性あるな、おまえ。続きを話してみろ」
岡本はティアを見直したようだった。夕飯もそこそこに、ティアと岡本は狭い室内で明日の計画を練り上げることに没頭した。
翌日、ティアと岡本は連れ立って家を出発した。様子は今まで通りである。いらいらした感じの岡本の後をティアが少し下がって歩き、時折岡本が後ろを振り向いて確認するのだ。
「ついてくるな」
「いいえ」
絶対にどこかで正太郎の影が見ている。そう確信しての演技だった。岡本のティアへの感情はだいぶ和らいでいたが、いきなり雰囲気が変わるのもおかしい。そんなことも含めて、岡本はいらだった感情を隠さずに歩いていた。
まもなく港に着く。その時だった。
「ティア様!」
遠くから男が一人駆け寄ってきた。見た感じはまだ若い。十五歳くらいであろうと岡本は見当をつけた。岡本についていこうとするティアを必死になって引き止める。
「ばば様のお話をお忘れですか! ティア様がいなくなると困るのです!」
ティアは当日の朝、これから日本へ行くという電報を島長の家に送ったのだった。それを見てあわてて人を送ってきたのであろう。計算どおりだった。
「サジムか」
すましかえってティアは言った。彼はティアのいとこに当たる。幼少の頃から一緒に遊んだりして仲よくしていたが、ここしばらくは疎遠になっていた。ティアが島長の家に呼ばれていたからである。
息を切らし、サジムと呼ばれた若者は彼女を説得しようと並んでついてきた。先頭を行く岡本は聞き耳を立てて、それでも早足で船へ歩いていく。
「ばば様は放っておけと言ってましたが、そうはいきません。ティア様がいなくなったらこの島は誰が守護に当たるのですか。それにこんな……」
サジムはずかずかと歩いていく岡本をねめつけて言った。
「こんな男と一緒などとは。ご自分をどう思っているのです」
船着場に着いた。岡本はティアを振り返って言った。
「お前、偉かったんだな」
サジムの顔が真っ赤になる。
「この人を誰だと思ってる。次の……」
ふむ、と岡本はサジムの顔を見た。
「なんだ、惚れてるのか」
「岡本様!」
予想外の展開であった。ティアとの打ち合わせはこの後、強引に乗り込もうとするティアを岡本が海に突き落とすというものである。その時の証人として島長の家から人をよこさせようという手はずになったのだが、こうなるとは思ってもいなかったのだった。ティアとしてもサジムが来るのは少々予定外である。なぜなら彼はこの時期、父親とともに漁に出ているはずだからだ。
これからの進行をどう持っていくか、岡本は考えていた。そろそろ次の登場人物が現れるはずだからである。
「やあ、お二人さんこんにちは」
よく知った声がした。岡本とティアはその人間のほうへ向き直った。
「あんたか」
岡本はそちらを見て言った。正太郎の影である。様子をうかがっていたのが、話がごたついてきたので出てきたらしい。
「くにへ帰らないんですか、岡本さん」
ティアとサジムはにらみ合っていた。岡本はそれぞれのさまを見て、足早に船上へと駆け上がった。
「岡本様!」
ティアが追いすがる。続いてサジムも追いかけてきた。岡本は振り向くとティアにこう言った。
「邪魔だ。もうたくさんだ、ついてくるな」
目星をつけておいた安全そうな淵を選び、追いかけてくるティアを突き落とす。ティアの立ち位置は何もない船べりだ。その後ろにも危険そうなものはなかった。ティアはあっ、と言って船べりから落ちた。
「ティア……様?」
サジムは棒立ちになり、それから何かを喚きながらティアのほうへ向かった。船上からは何もできないと知り、あわててその場から海に飛び込むと、一直線にティアに向かって泳ぎだした。
「そんなに邪魔なんですか」
おかしそうに正太郎の影が言った。彼だけはまだ陸地に留まっていて、この騒ぎをながめていた。サジムは思ったよりも泳ぎがうまく、すぐにティアのもとにたどりつき彼女を救出にかかった。
「ああ、邪魔だ」
そろそろ出航の時間になる。正太郎の影にとっては岡本もティアもいなくなってほしいはずだった。しかし動きがない。面白そうににやにや笑いながら、ティアとサジムを見ているだけだ。
汽笛が鳴った。岡本は諦め、正太郎の影から視線を外して後ろを向いた。その時だった。
「岡本さん、帰られたら困ります」
同じ声だったが違うしゃべり方だった。岡本は思わず振り向き、そちらを見た。
「やっと動けました。ティアさんに感謝しなくては」
影ではなかった。水城正太郎本人がその場所に立っていた。
ぐらりと揺れて書割が変わる。岡本松籟が立っているのは日本へ向かう船の上ではない。紙でできた、ちっぽけな小船の上だ。波は消され代わりに青い布が一面に敷きつめられている。その布の上に気を失ったティアを抱えたサジムが突っ立っていた。正太郎の横にはだぶって彼の影が見える。そしてその周囲を真っ青な蝶が数匹、優雅に飛び交っていた。
「何が起きたんだ」
サジムがティアを抱えたまま、やっとのことでそれだけ言った。ティアを抱えているせいなのか、どうも一緒についてきたらしい。本人は気づいていないようだったが、ティアのいとこということでいくらかの力を持ってもいるようだった。今まで自覚して使うことは全くなかったのだろう。
「その男の子がティアさんの力を増幅してくれてますね。幸いでした」
正太郎は気を失ったティアを抱えておろおろしているサジムを見て言った。
「そうなのか」
なんとも言えず、岡本はそうとだけ言った。ええ、と正太郎が答える。
「ティアさんの力の焦点を絞って増幅しているようです。おかげで過去の実体まで呼び出せました」
岡本はこのちゃちい舞台装置が正太郎の影に由来するものに気づいた。以前見たものとよく雰囲気が似ていたからである。
「ここは常闇か」
正太郎が答える。
「違います」
火を灯すように幻が現れた。黒檀の玉座には一面に苔が生え、そこに座る苔むした正太郎は彫像のように見えた。緑に覆われた玉座のまわりには何本もの幼木が育ち、玉座には蔦がからまっていた。
「時見のちからを借りました。おれ自体はあの場所から動けません。けれども彼女のちからならば過去と未来を行き来できる。時見の能力者がいれば短時間だけ、おれはああなる前の自分を呼び戻せるんです」
正太郎がそのことを知ったのは、ティアの懐からカタクの楔を探し出した時だった。ティアに関しては、正太郎は島長の遠縁であることと、その縁につながる能力者であることぐらいしか気にしていなかったのである。カタクの楔とティアに触れ、正太郎は時見の能力者が大事にされてきた理由を知った。
「このおれは島に来たばかりの自分です。彼我の女王とも会う前で、荷物を持って船を下りたところでした。場所が一致したから呼び出せたんです」
正太郎の輪郭がぼやけた。二重写しになり、二人に分かれる。片方はそのままだがもう片方は下品な笑みを浮かべた。
「やっと出てきたか、いい子ちゃん。その体を僕によこしな。けっこうな手品だが僕には種が分かるんだよ」
抱きかかえられたままのティアが、ううん、とうなった。正太郎の影が圧力をかけ、彼女を起こそうとしているのだった。サジムがはっとする。
「ティアちゃんが起きたらお前は消える。現身本体はもう使えない。だから今使ってる、その過去の体をもらうよ。この体は本物じゃないから維持が大変なんだ」
そう言うとざざっという音がして、正太郎の影から大量の黒い蝶が湧き上がった。対する正太郎の周りには数匹の青い蝶が舞っているだけだ。サジムは状況がよく分からなかったが、とっさにティアをかばうように両腕で抱え込んだ。岡本松籟は紙の船を下り、ゆっくりとサジムの前まで移動した。
「その蝶は飾りだろう?」
正太郎の影があざけるように言う。煽っているのだ。用心深く、正太郎は彼と対峙した。黒い蝶の大群は上空を舞ってはいるが襲ってこない。様子見しているのだった。
「戻ってこい」
命令口調で正太郎が言った。へえ、と影が答える。
「誰がお前なんかに従うか。僕はずっと影だったんだ。いまさらまた影に戻るなんてできないね」
影が操る蝶の大群が両名の間に割って入った。正太郎の影が言う。
「どれだけ僕がしんどかったか分かるかい? そのいい子ちゃんの仮面の下で、僕はずっと我慢してきた。嫌なことを全部押し付けられてね。少し教えてあげるよ」
嵐のような感情が一同を襲った。幼少時、正太郎は長男として弟妹達の面倒を見てきた。遊びまわる兄弟達を叱りつけ、自分は親の期待に応えるために勉強し続ける。当然いつでも首席だった。学資を得るために働く親の手伝いをし、遊びに加わらないため級友達には真面目で愛想のない奴と思われていた。
その頑張りが実を結び、正太郎は南洋貿易公社に入社する。その入社時の成績とずば抜けた勤勉さから、同期からは畏怖の目で見られていた。と同時に、やたらと堅物で融通の利かない奴とも思われていた。
「やっと息抜きができる。南方行きを命じられた時に思っただろう? 僕だって思った。もうやらなくていい。あんな、地獄のような日々は終わるんだ。人目を気にしてやりたいこともできず、怒りを爆発させることも、思いきり泣くこともできない。どんなにおかしくたって馬鹿笑いすることもできないんだ」
道化がかったしぐさと語りが話の内容をぼかしてはいる。しかしどれだけの重圧がかかっていたのか、と岡本は思った。そう、岡本が日本から受け取った正太郎の評価は「特」だったのである。人事がめったに付けないそれを入社二年目の若者に付けてきたというのが、水城正太郎という人間を語っていた。
「ところが変な女に引っかかってこの有様だ。そりゃ僕だってちょっとぐらいなら構わないと思ったよ。だけどまさか取り込まれちまうなんてね。油断したよ。あの時は大丈夫だったのに」
正太郎は語り続ける自分の影をじっと見た。
「思い出したかい? 物の怪と通じていると言われたことがあっただろう? そら、三つの時だ」
「……思い出したよ」
正太郎の返事に勢いづき、影は話を続けた。
「きれいな、大きな水鳥だった。池に落ちたお前を助けてくれた。お前はその水鳥に気に入られて池に通うようになった。今と同じだ」
正太郎の顔はさえない。影はそんな様子をちらちらと見ながら言った。
「ある日、その水鳥は殺されてしまった。わなにかかってね」
風景が変わる。影絵のように大きな鳥が現れ、暗い大気の中に横たわっていた。
「村の猟師が仕掛けたんだ。けど、お前はその池に通った。お前の目には水鳥が視えていたからね」
我知らず、正太郎は自分でその話をしていた。
「まだ生きていた。体はなくてもその場所にいて、おれのことを待っていてくれた。だからおれは……」
「美談はここまでだ」
正太郎の影がさえぎった。
「その後のことはどうなったと思う? お前は忘れてしまっているけど、僕は覚えているよ。その水鳥はお前を連れて行こうとしたんだ。だから僕が追い払った。僕、すなわちお前がね」
横たわっている鳥の影は起き上がり、いつの間にかそばに立っている小さな男の子に話しかけていた。
(いこう。いっしょにいこう)
(いやだよ)
男の子は拒否する。鳥の目が大きくなり、赤くあやしく光る。
(だめだね。おまえもいっしょだ。だっていっしょにいたいんだろう)
(いやだよ)
泣き叫ぶ男の子を、大きな鳥の影は抱え込もうとした。
(いやだ、お前なんかきらいだ)
男の子は鳥の影を突き放した。どん、と音がして水鳥の姿が崩れる。そこに残ったのは赤く光る、丸い鳥の両目だけだった。
(どうして)
その目だけの水鳥に、男の子はこう言った。
(一人でどこへでも行っちまえ。おまえは違う。あの優しかったレーキじゃない)
正太郎はこの鳥のことをレーキと呼んでいた。鳴き声がそう聞こえたからである。
両目だけの水鳥はその両目をぱちぱちさせ、砕けるように消えた。幼い正太郎はその場に突っ伏し、わんわん泣きじゃくっていた。
「どうしてそう言えなかった」
破滅が待っていたことを知っていたくせに、と正太郎の影は言った。
「分かっていて惑わされたな。彼我の女王に」
幕が上がるようにすうっとまた風景が変わり、男の子の姿も暗い大気も消えた。黒と青の蝶が舞う、それ以外は何もない中で、岡本とサジムは息を詰めて二人の正太郎を見守っていた。
「あのあと、後悔した」
正太郎が口を開いた。
「連れて行ってもらえばよかった。地獄のような日々が続くなら、あの時連れて行ってもらえばよかった」
ゆらりと正太郎の影が揺らめいた。
「だから忘れたのか。僕にも分からないくらい奥深くにしまいこんで」
正太郎自身も薄く、はかなく見えてきつつあった。
「その後のことすべてを忘れた。レーキのことも、自分にそんな力があったことも、お前のことも、全部しまいこんだ。おれがおれであるために」
でないとやっていけなかった。黒と青の蝶を残して正太郎と正太郎の影はゆらゆらと消え、やがてその蝶も消えた。そしてゆっくりと、南の島の埠頭と過ぎ去る汽船が戻ってきた。
「今の……何だ」
サジムがつぶやく。さっきまでいた波止場には残された岡本、それにずぶぬれのサジムと彼に抱えられたティアがその隣に立っていた。
「行けなかったか」
岡本は過ぎ去っていく汽船を眺めながらぼそっと言った。そのつもりではいたのだが、実際そうなってみると痛いような焦燥感にもとらわれた。
「岡本様……うまくいったのですか」
気づいたティアをサジムが抱え降ろす。
「まあまあだ」
ふう、と岡本はため息をついた。
「関係者が増えちまったな。とりあえず、昼飯でも食いながら話そうや」
岡本はサジムを振り返り、ティアを伴って歩き出した。




