二
蝶の大群が舞っていた。
翌日のことである。正太郎があの民家を訪ねていくと、昨日帰りがけに見た青く光る蝶が、建物を隠すかのように周囲を飛びかっていた。
「すごいですね」
民家にはあの少女がいて彼のことを待っていた。彼女は正太郎にそこに座るように促し、自分もその正面に座った。
「気にするな」
少女の目にはっきりと青い光が映った。髪には昨日、正太郎が渡した髪飾りを挿している。すらりとした長い足は無造作に投げ出され、彼はなんとなく目のやり場に困った。
「贈り物のことだが」
なんでもないかのように彼女は切り出した。意味もなく救われたような気分で、正太郎はその言葉に耳を傾けた。
「わたしではどうだろうか」
「はっ?」
正太郎はまじまじと相手の顔を見た。
確かに相手は十六、七の少女だ。顔立ちも悪くない、というよりかなり整っている部類に入る。そして南洋をまわっていると意外とこういうこともあるという話も聞いていた。しかしそれが自分の身に起こった場合は別問題である。
「い、いや、しかし私は……」
蒸し暑さではなく別の理由で、汗だくになりながら必死になって辞退した。いや、辞退したつもりだった。
「嫌か。じゃあ他の娘を呼ぼう」
少女は立ち上がり、すたすたと木製の階段を降りていった。ジャングルにつけられた細い小道から、四、五人の娘が現れる。いずれも彼女と同じくらいの年恰好だった。
「日本人は人気があるからな。希望者が多くて大変だった」
「あの、私はそういったことではなくて、その……」
しどろもどろで正太郎は説明をした。少女が意外そうな顔をする。
「しかし他のものはないぞ、水城殿。そなたはとてもよいものを持ってきたから、こちらもそれに見合うだけのものを返さねばならぬ。受け取れ」
もはや命令である。とりあえず正太郎は他の娘達を下がらせてもらった。再び民家の中に正太郎は彼女と2人きりになり、彼は気まずいながらもじっとこらえて向かい合って座っていた。
「あの青い蝶はなんというのですか」
黙っているとさらに気まずいので、正太郎はそう話しかけてみた。
「知らぬ」
少女はそれで終わりにしてしまった。おろおろしている彼に比べ、相手は別段困ったこともないように悠然と座っている。正太郎がどうにもならず、追い詰められた気分になった時だった。
「気になるのか」
蝶が一羽、ふわりと迷い込んできた。二人の上空を軽やかに舞い、それから差し出した少女の指にとまる。蝶の羽と同じ、青い金属光が彼女の瞳に瞬く。
「……光った」
釣り込まれるように正太郎はその瞳を覗き込んだ。はっきりと青い油膜のような光が黒い瞳の表面にかかる。瞳に映る彼の姿をはね返し、今度はぎらりと強く光った。
「あなたは……」
少女の細い指が正太郎の腕を掴む。蝶が彼の上を舞う。青い瞳に捕らえられ、正太郎は動けないでいた。
「見抜いたか」
ふと、その顔に笑みがこぼれた。ぐらりと正太郎の視界が回る。
「我が名は彼我の女王。贈り物を与えてやろう」
正太郎は少女の姿をした魔物を抱きしめた。どこかで彼に警告をする声が聞こえていた。
特に問題はなかった。正太郎が指揮するこの島での交易はうまくいっていたし、島民との関係にも揉め事や不安材料はなかった。だから前駐在官の岡本は、下働きの人夫達から正太郎の話を聞いた時はあぜんとしたのだ。彼はたまたま、ミクロネシア方面からの船が補給のためにこの島に立ち寄った時に乗り合わせていたのだった。
「まったくもってひどいもんでさあ」
海は荒れ加減であり、船長は用心のためにこの島に最低でも二泊することを皆に告げていた。だから岡本松籟は港の酒場で正太郎の近況を聞くことができたのだ。
「ふらふら歩いているかと思うとどこかへ消えちまう。探そうにもあたりはジャングルだ。かと思うとまたふらりと現れる。まるで何かに取り憑かれているみたいでさあ」
この男はコプラを大きな樽に詰め、貨物船に積み込む作業をしている。その折に見たのだと言う。
また他の人夫が言った。
「駐在様のまわりに大きな青い蝶が飛んでいるんさ。地元の人間はあの虫は魂をさらうと言って嫌うんです。それが何匹も何匹も顔色の悪い駐在様の後をついていくんだ。ぞっとしましたよ」
岡本は蝶が云々と言った人夫の事はたしなめ、集まっている男達に、正太郎がいつもふらふらしているあたりの場所を確認した。それから他にこうした話を知っている者はいないか聞いた。
「島中の噂ですよ」
彼らは口を揃えてこう言った。
「あの様子だとそのうち廃人になりますよ。いやもうなっているかもしれませんけどね」