1 三叉の竜
岡本松籟とティア・タムートは一つ屋根の下、一台の卓をはさんで向かい合って座っていた。とうとう岡本がしびれを切らし、こう言い出した。
「頼むから自分の家に帰ってくれ。後生だ。あんたを連れて会社に行くのももう勘弁だし、日本にもついてこないでくれ。悪いが頼む。あんたのことを嫌いとか、そういうことじゃないんだ。分かってくれ」
ティアは黙ったまま、じっと岡本の顔を見た。それからこうはっきりと答えた。
「できません」
「どうしてだ」
おとなしそうに見えるが芯は強情だ。岡本は今まで周囲から各種様々な誤解を受けつつ、彼女のことをかばいながら行動を共にしてきた。それももう限界だった。
「俺は一週間後、日本に帰る。あんたを連れてはいけないんだ。それにもうこれ以上おかしな誤解を受けたくない。頼むから分かってくれ」
岡本は駐在官事務所に、現地の人間であるティアを連れて行っている。普通なら本社に通報され、解雇されてもおかしくない行動なのだが、彼の敏腕ぶりとその性格のおかげで大目に見てもらっていた。正太郎が置いていった仕事が片付く前にいなくなられては困るというのもある。後任の中村には引き継げない、岡本が片付けなくてはならない仕事もあるのだ。
「あなた一人では危険です。それにあなたは日本に帰ることはできません」
なぜ、と岡本は声を荒げようとした。もうたくさんだった。いくら島長の妻の頼みとはいえ、こう四六時中付きまとわれていては神経がおかしくなってしまう。実際、最近の岡本は彼女の顔を見ているだけでいらつくのだ。
「ふざけるな」
抑えたつもりだったが、かなりきつい口調になった。だんだんと岡本は、自分の頭に血が上ってきたことを自覚した。
「自分の家に帰れ。命令だ。もし帰らなかったら……」
ぶっとばす、そう言おうとして岡本は口をつぐんだ。ティアの後ろを青い蝶が横切ったからだった。蝶はふわふわと舞い、開け放した窓から外へ出て行った。
「あれは?」
岡本の視線の先をティアが追う。そして青い蝶を見つけ、顔色を変えた。
「いけません」
蝶はふわりふわりと、そのまま窓から出て行った。岡本はそれを追いかけ、思わず窓から身を乗り出した。
「駄目です!」
ぐらりと重心が揺れ、岡本は窓から落ちそうになった。ティアが慌てて岡本の腕を引っ張る。
しかし遅かった。岡本はティアもろとも窓の外に転がり落ち、そこにあるはずのない真っ暗なトンネルを落ちていった。
あれは日本行きの船だ。早く行かないと港を出てしまう。そうしたらまた三ヶ月間、この島に置いてきぼりだ。もう日本に戻りたかった。やっかいごとはもういい。もう沢山だ。
走っていこうとした自分の腕を誰かが掴まえていた。振りほどこうとしたが離れない。早くしないと船が出てしまう。彼は相手に向かって怒鳴った。離せ。もう自分は国に帰るんだ。だが相手は頑として離れなかった。
焦った彼は相手を引きずったまま、船に向かって駆け出そうとした。重たい。まるで根が生えているようだ。大木にくくりつけられているような、そんな感触だった。
汽笛が鳴る。だがその音はおかしい。聞きなれた、低い、蒸気の噴き出す音ではなく、ジャングルに鳴り渡る悲鳴のような音だった。そして彼はその音を以前、聞いたことがあることを思い出した。
そうだ、島長の家に行った帰りだった。その時に一緒について来た娘がこの音を聞いて、血相を変えて逃げ出したのだ。あれはなんだったのだろう。
また悲鳴のような汽笛が鳴る。さっきよりはいくぶん近づいてきているようだ。蒸気と熱を感じる。だがずいぶんと熱い。まるで顔の近くに煙突があるかのようだ。そう、ものすごく近くに……。
熱さで彼は目を覚ました。真っ暗だったが目が慣れてくると周囲が見渡せるようになった。隣にはティアが彼の腕をしっかりと掴んだまま伸びている。どうやら一緒に暗闇の中を落ちてきたらしい。
「ここはどこだ」
岡本はきょろきょろと周囲を見回し、正面を見てぎょっとした。真っ暗い中に何か巨大な、小山のようなものがぼうっと光っていた。小山のてっぺんには一対の尖ったものが突き出しているのが見える。岡本が目をこらすとそれは、薄い膜に太い骨格がある、コウモリのような大きな翼だった。
岡本はその翼を持つ小山に、それぞれ三つの長い頭と尾がついているのを確認した。頭には二本の角が生えている。三つの頭と尾は勝手に動き、そのうちの一つの頭が岡本のほうを向いた。
「なんだありゃ……」
視線が合う。そしてその頭は、ぬうっと岡本のほうに近づいてきた。同時に熱気も近づいてくる。熱さの原因はこの怪物だった。
う、うん、という声とがさごそという物音が暗い中から聞こえてくる。ティアが起きたらしい。岡本の目は角の生えた大きな頭に釘付けになっていた。と言うより目を離せないのだ。
「岡本……さん!」
ティアのびっくりしたような声が聞こえてきた。かなりの巨体のはずなのに、おそろしく軽快な動きで怪物が岡本に寄ってくる。地響きも轟音も聞こえなかった。悪夢のようにすうっと三つ頭の怪物は岡本の近くに来て、彼にこう質問を投げかけた。
(お前は誰だ)
(なぜここにいる)
(王の許可を得たのか)
それぞれの頭がそれぞれに質問する。岡本は歯の根が震えるのを必死で食いしばり、音を立てないように努めた。ティアは身じろぎもしない。その場から動けなくなっているのだった。
(答えがないなら勝手に調べる)
(それでよいか)
(よいならそうする)
突然、頭の中に他者が入ってきた。岡本の記憶、意志、感情それらすべてをぐちゃぐちゃと掻き回し、洗いざらい持っていこうとする。岡本は夢中で拒否した。
「やめろ! 俺は日本から来た岡本松籟だ! 水城正太郎を探している!」
叫ぶと同時に、始まった時と同じように突然に擾乱が終わった。三つ頭の怪物は近寄ってきた頭をすべて岡本から離し、少し高い位置で彼を見下ろした。
(これは驚いた)
(王はお会いになる)
(常闇はおまえに味方をしよう)
「なんの……話だ……」
岡本は肩で息をしながらそう言った。さっきの衝撃からまだ立ち直っていなかった。
「いけません!」
隣でティアが叫んだ。怪物はティアには質問をしなかったのだった。と言うより、いないも同然の扱いだった。
「なぜだ」
岡本は小声で言った。怪物はくるりと後ろを向き、岡本について来いと促していた。
「あれは彼我の女王の従者である三叉の竜です。行けばあなたはこの世には戻ってこられません」
彼我の女王という言葉が、岡本にある人物を思い出させた。
「なら行かなくては」
「駄目です!」
今度こそ岡本はティアを振り切り、三叉の竜めがけて走っていった。三つの頭が振り向く。
(乗れ)
(王に会うがよい)
(常闇はおまえを歓迎する)
「いけません!」
ティアははじかれた。彼女の前にはいつの間にか見えない仕切りができ、岡本とティアを隔てていた。呪力による結界だ。ティアはその壁の境目、破れ目を探ったが無駄だった。
「くっ……」
三叉の竜の現在の主である常闇の王の力は、ティアが予想したよりもはるかに大きなものだった。戻って島長の妻に報告しなくてはならない。ティアは鍵となる人物をみすみす常闇に渡してしまったのだ。
三叉の竜は岡本をあの大きな頭で拾い上げ、自分の背に乗せた。そして巨大な翼を広げ、何もない暗闇に向かって飛び去っていった。




