1 常闇の王
目覚めると真っ暗だった。正太郎はあわてて起き上がってつまずき、それが自分の鞄であることに気がついた。暗い中で鞄の横についているポケットをまさぐり、中に入っている銀製の髪飾りを探す。それは彼にとって何よりも大事なものだった。
(あった)
鞄から取り出してみる。すると暗闇はかすかに明るくなった。目が慣れたのかもしれない。正太郎は髪飾りを握り締め、もう片方の手に鞄を持ってそこから立ち上がった。
(どこだここは)
もう一段、闇が明るくなった。夜明けなのだろう。正太郎はそう考え、朝日の差してくる方向を確かめようとした。ほんのりと桜色の曙光が差し込めば、ここがどこにせよ何がしかの行動は取れるはずだからだ。
しかしどうもおかしかった。夜明けというのは東が明るくて西側はまだ真っ暗なはずだ。なのにこの夜明けはぐるりと見える地平線から空全体にかけて明るくなっていくようだった。
(地平線?)
正太郎は自分の頭に浮かんだその言葉にぎょっとした。おかしい。おかしすぎる。自分がいるのはカモオイ島のはずだ。カモオイは大きくはあるものの基本的には太平洋に浮かぶ小島で、島の中央部を密林が覆い隠している。見晴らしはいいかもしれないが、水平線はあっても地平線など望むべくもない。
空が白み、薄暗くではあるが風景が見えるようになってきた。正太郎は息を呑み、それから自分の目を疑った。
(なんだここは)
ただひたすらなにもない空間が広がっていた。この場所に存在するのは正太郎とその持ち物である鞄、それに手のひらに握っている銀製の髪飾りのみのようだった。正太郎は空を見上げ、何か見慣れたものが存在するのを確認しようとした。
(何もない)
空には月も星もなかった。雲が遮っているのかとも思ったが、突き抜けたように何もなかった。彼は明るくなってきた地上に目をやり、昇ってくる太陽を探した。それもなかった。
「どこなんだここは」
銀の髪飾りを握り締め、混乱した気分をそのまま口に出して言ってみる。すると風景に変化が起きた。するすると前方の地平線が巻き上がり、なだらかな丘が出現したのだ。
「そんなばかな」
変化はそれだけではなかった。丘の中央から反物を転がすようにして、一本の道が彼に向かって伸びてきた。道はどんどんと伸びて、彼の足のすぐ近くまでやってきた。
鞄を持ち、髪飾りを握り締めながら意を決して一歩を踏み出す。そうするしか今の彼には方法がなかったからだった。躊躇しながらも彼は数歩ほど歩き、今度はゆっくりと決意を固めて目の前に作られた道を歩き出した。
しかしそこに見える丘は案外と遠く、いくら歩いても近づいてこないかに思える。
「遠いな」
なんとなく彼はつぶやいた。とたんに風景が変わり、彼は目的地であった小高い丘の上にたどり着いていた。何が起きたのかはわからない。
丘の上、作られた道が切れる部分にはいつの間にか巨大な椅子が一つ置かれていた。玉座、というものだ。今まで見たことがないデザインだったが、彼は直感的にそれが玉座だということを理解した。
疲労を感じ、彼はそこに座ろうとした。その時だ。
(座るな)
聞き覚えのある声だった。若い女性の声だ。なぜ、と彼はその声にたずねた。
(そこに座っては駄目だ。座ったら戻れなくなる。わたしはここにお前を縛り付けたくはない)
だがこの玉座はからっぽだ。なら自分が座ってもいいのではないか。本来ここに座るべき者はもう長い間留守にしているのだろう。その証拠に椅子にはほこりがかかっている。ここにはもはや誰もいないのだ。
彼はその椅子に座ろうとした。足も重いし全身もだるい。ちょっと借りるだけだ。彼はそう自分に言い聞かせた。この椅子の持ち主が戻ってきたら、詫びて場所を空ければいい。それまでの間、少し借りるだけだ。
(座らないで!)
再び、若い女性の声が制止する。切羽詰った感じだった。彼は一瞬動作を止め、再び緩慢に動き出した。
(いけない!)
(なぜ)
とうとう彼はその大きな玉座に腰を下ろした。やっと休める、そうほっとするのもつかの間、今度はすさまじいめまいと幻覚が彼を襲ってきた。
(だから駄目だと……お前は……なんてこと……)
耳元で聞こえていた声に絶望が混じる。そして彼は自分のことと、この声の主が何者であるかを思い出した。
(シラー……シラー……)
(正太郎!)
めまいのあまり吐き気がする。これは彼我の女王の椅子だ。誰もいない、このどこまでも続く薄明を統治するための王の椅子だ。もうここからは出ていけない。おそらく永遠にだ。
ぐるぐると混乱する感覚の中で、水城正太郎はシラーの代わりとして、自分がこの常闇に縛り付けられてしまったことを知った。
気分が悪い。最初に感じたのはそれだった。誰かがひっきりなしに頭の中にラジオを流し込んでいる。それも混信していてまともに聞き取れなかった。そのくせ情報量だけは異様に多い。世界中から発信されている電波を受信してしまっているようだった。
音だけではない。切れ切れに映像も入ってきていた。あの人物は知っている、だが彼の取っている行動はおかしかった。彼が知っているこの人物は少々強引なところはあっても、常識人で理性的な判断を下す人間のはずだった。
(岡本松籟)
彼は社則をまげての自分勝手な行動を取るような人物ではない。だが、隣にいる現地女性は誰だろう。なぜ現地の人間が駐在官事務所にいるのだろうか。
焦点を岡本松籟の隣にいる、小柄な現地女性に移す。とたんに様々な情報が入ってきた。彼女の名前はティア・タムート、島長の遠縁に当たる女性だ。
しだいにいろんなことがはっきりしてくる。同時に自分についても情報が入ってきた。名前は水城正太郎、日本から来た、南洋貿易公社の社員だ。この島では三年ほどの間、駐在官としての任期を命じられたはずだった。
(シラー)
青い蝶を化身とする美しい少女だった。正太郎は彼女と恋に落ち、そしてその正体を知った。
「……思い出した」
渦巻く情報が彼の中で統合される。玉座に縛り付けられ、どこまでも続く薄明の中、正太郎は目の前に置かれた鞄と右手に握り締めている髪飾りを交互に見やった。
「おれは……永遠にここにいなくてはならない。そうだな、シラー?」
銀の華奢な細工を施された髪飾りがきらりと光る。シラーはこの髪飾りに封じ込まれていた。彼女を呼び戻せば正太郎は解放されるだろう。しかしそれはシラーが再びこの玉座に縛りつけられることを意味する。
「どうすればいいんだ」
髪飾りからふわりと一羽の蝶が出現した。今、彼女が操れるのはこの蝶だけだった。蝶はふわりふわりと彼の周囲を舞い飛び、ふっと消えた。
「考えろ、考えるんだ」
何か、すべてが丸くおさまるような方法を考えなくてはならない。彼女を救い出し、彼自身もこの常闇から脱出できるような方法だ。
「どうしたらいい」
不意に明晰な感覚が訪れる。島長だ。シラーを封じたのは島長だった。ならあの人物がシラーと正太郎の行く末を指し示してくれるだろう。
「どこにいる」
正太郎は自分の感覚をデサ・ラウの島長を探すことに振り向けた。玉座からは一歩も動けなかったが、感覚を延長し、探索を行うことはできた。おそらくこの椅子に座る者の特権なのだろう。初めての感覚だったが、彼は間違うことなく島長の居場所を探し当てた。
「いた」
しかし、島長は何者かに襲われ、自宅で息を引き取った後だった。正太郎はぎくりと体をこわばらせ、思わずため息をついた。
「くそ。どうしたらいいんだ」
(島長が来る)
青く光る蝶が現れ、正太郎の肩にとまった。そうだ、ここは常闇だった。正太郎はそのことに改めて気がついた。ならば待ちさえすれば島長と話をすることもできよう。そして島長は彼がこの玉座に座ってから初めての死者だった。
「早く来い」
じりじりと焦燥が背中を焼く。誰もいない、薄明を統べる王。正太郎はその孤独さをまざまざと感じ取っていた。




