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 水城正太郎は覚悟を決めてジャングルにつけられた、細い、土のままの道に分け入った。周囲には自分の背丈よりも高い樹木が密集し、敵意に満ちて彼のことを監視している。そんなことがあるはずはなかったが、彼にはそう感じられた。

 上からいつ太った蛭が降ってきても不思議はない。いくら乾季に入ったとはいえ、温度も湿度も彼がなじんでいた日本の気候とはまるで違う。蒸し暑さで頭がおかしくなりそうでも、ぴっちりと着込んだ長袖のシャツを脱ぐことは許されなかった。そんなことをしたらあっという間に肉食の虫どもの餌食になるだろう。

 前任者から虫除けの薬とアドバイスをもらってはいたが、それでもこの南洋に浮かぶ小さな島は彼にとって異世界そのものだった。この細いけもの道を抜けなければ島民の長に会うことはできない。よしんば会えたとしても彼らは誇り高く、少しでも機嫌を損ねようものなら追い返されてしまう。

 ただ追い返されるならまだいい。中にはそれっきり行方不明の者も存在する。おそらく密林の獣たちに食われてしまったのだろう。そして訪問者を来た道の方角に追い返すか、ジャングルの只中に放り込むかは島民の長が決めることなのである。

 前方の藪がひらけ、ヤシの葉で葺かれた民家の屋根が見えてきた。木を組んだだけの床は高く、壁はすだれ様に編んだ植物のつるを吊り下げただけのものだ。正面には簡単なつくりの階段があり、室内には丸く編まれたむしろのような敷物が置いてあった。

「長はいらっしゃるか」

 誰もいない民家の前で正太郎は大声を張り上げた。ここからが正念場であった。

「南洋貿易公社所属の水城正太郎と申し上げる。岡本松籟の後任としてこの地に参り申した。ここの長どのにお目通り願いたい。お取次ぎをお頼み申し上げる」

 そして低く頭を垂れた。どのくらいそうしていたのか、彼はやがて若い女性の声を聞いた。

「わたしだ。水城殿、頭を上げていただきたい」

 無人だった民家に黒い髪と褐色の肌をした少女が立っていた。年は十五、六であろうか、顔を上げた正太郎はその容貌とそれに似合わぬ物腰に度肝を抜かれ、しばらくその場に突っ立っていた。

「岡本殿からの話ではコプラ五十とのことであったな。だがそちらの品物をわたしは聞いておらぬ。何を持ってこられた、水城殿?」

「は……」

 やっと彼は本来の目的を思い出した。ぎこちなくズボンのポケットから品物を取り出し、目の前に掲げる。

「これを二十。いかがでしょう」

 彼が持ってきたのは色とりどりの大粒のガラス玉だった。初めて南洋で交易に臨む彼はこんなものでいいのかと不安に思っていたのだが、相手を惹きつけるには充分のようだった。

「そばで見せてもらえぬか」

 敷物の上に座り込み、鷹揚に少女が言った。正太郎は階段を上がり、彼女の正面にまでやってきた。

「それから、こちらは私からの贈り物でございます」

 そしてまた別の品物を取り出した。長の少女はそれを手にし、じっと眺めた。

 これは南洋の島々をまわる時の約束事である。相手がこの贈り物を気に入り、受け取ったなら晴れて交易に入れる。返されたなら不成立だ。相手が気に入るようなものを用意してまた来なくてはならない。

「見事なものだな」

 少女の黒い瞳にちらっと青い光が踊ったように正太郎には思えた。はかなくも身震いするような青だったが、瞳が動くとすぐに消えてしまった。見間違いだ、そう彼は結論付けた。空の色でも映ったのだろう。

 正太郎が差し出したのは銀細工の髪飾りだった。実はこの品物は贈答品として用意したものではなく、彼が気に入って出港の時に長崎で買い求めたものだ。誰か恋人に贈るなどと特に用途があったわけではない。ただその造形の見事さにひかれて買ってしまったものだ。本当はちゃんと前任者に言われた通りのものを用意してあったのだが、正太郎はこの少女を見てなぜか、私物として持っていたこちらの髪飾りを差し出してしまったのである。

「こんな細工はこの辺では見たことがない。日本のものか」

「そうです」

 討ち入りに来たかのように意気込んでいたのが、自然に貴人に対する口調になっていた。

「気に入った。これほどのものを持ってきたのは水城殿が初めてだ。礼を言う」

 意外なほど素朴な笑みがこぼれた。正太郎はその笑顔に惹きつけられ、目が離せなくなった。

「贈り物を貰ったら返さねばならぬ」

 長の少女が言った。何か考えているようだった。

 これもルールだ。よいものを貰ったらもっとよいものを返さねばならない。南洋の交易に慣れた者はそれを見込んでほどほどの品物を持っていくのだが、交易そのものが初めての正太郎には少し難しいやり方でもあった。事実、彼は目の前の少女にのぼせ上がって高価な銀細工を差し出してしまったくらいである。

「ひとつお聞きしてよろしいでしょうか」

 少女が黙り込んだので、正太郎は丁寧に尋ねた。

「私は長どのは白髭の老人だと聞いてきました。いつから代替わりされたのでしょうか」

 前任者がこの島を出たのはほんの十日ほど前のことだった。首長の代替わりは島民にとって重大なニュースのはずである。狭い島の中でそんな出来事が自分達に伝わってこないことは考えられなかった。

「長はずっとわたしだ」

 あっさりと少女は言った。混乱したのは正太郎である。そこにいたのは年若い娘であり、どう見ても髭をたくわえた老人ではなかった。

「では、前任の岡本が会った老人は何者なのでしょうか。代理の方ですか」

 暑さと疑問でまわらない頭を使い、一生懸命に正太郎はそう考えたが、返ってきた答えは違っていた。

「いいや。この島の長はずっと私だ。岡本殿には大変よくしていただいた。感謝している」

 前任者にかつがれたのかもしれなかった。彼はそう考え、自分を納得させることにした。長が少女であること以外は引き継ぎされた情報はどこも違っていなかったからである。

「明日、またこの場所に来られよ、水城殿」

 長の少女が言った。

「こちらからの贈り物を用意しておく。受け取られるがよい」

 正太郎は一礼をして民家から退出した。澄んだ青い空に、その色を凝縮したような青い蝶が舞っている。少女の瞳に映った青にも似ていた。

(なんというのだろう、あの色は)

 瑠璃でもなく藍でもない。金属のような光沢を放ち、自在に空を飛び回っている。

(おれには見当もつかぬ)

 そうして彼は元来た道を戻った。長と会ったという安心感からなのか、帰りはさほど木々に敵意を感じず戻ることができた。

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