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カゴノトリ  作者: 灯夜 雪


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第21話 丘に住む魔女(前編)

聖明とリリーの出会いの物語。

挿絵(By みてみん)

今日は主は休日のようで、一人リビングのソファで本を読み耽っている。

私はソファから身を乗り出し、窓の外を眺める。外はしとしとと雨が降り、雨音が心地よい。


普段であれば風真様が騒がしく主に声をかけているところだと思うのですが、今日は「ご友人と勉強してくる」と図書館へお出かけになった様子。

お父様も仕事が忙しいようで、たまに帰ってくるぐらいなので今日も不在です。

よって珍しく暇を持て余した主は、こうしてのんびりと過ごしているわけだ。


私は主の膝の上に移動し、身体を丸める。

すると、それに気づいた主は、私の身体を優しく撫でてくれる。ああ、彼の手が大好きだ。


「リリー、いつもそばにいてくれてありがとうね」


主が、愛しそうな視線を私に向けてくれる。私は、この目が大好きだ。


私は彼に擦り寄るように頭を動かす。

優しく緩んだ目元、クスッとこぼれる笑顔──


何より、私の名を呼んでくれる。

私は、あの時のことを、つい先日のように感じて思い出す。


──あれは、主と出会った時の話。私が"人間"だった頃の話。



ーーー



何百年も昔から、一人の魔女が丘に住んでおりました。

穏やかな森、穏やかな海、穏やかな風。

そう……穏やかすぎる夢うつつのような世界。


ここは、きっと私の揺り籠。

静かなる棺桶なのだろう。


目の前には、さまざまな形の墓が並んでいる。

歴史を感じさせる岩の墓には苔が生え、なかにはひび割れているものもある。


時が止まったようなこの場所に、一人の男性が現れた。

ふらふらと、今にも倒れそうな足取り。

その男は、酷く虚ろな目をしており……生きているのに、死んでいるようだった。


『ああ、この人は自分だ』


そう思った。

静かに見守っていた私に気づいた彼と、目が合う。

とても綺麗な、深紅の瞳。


次の瞬間、彼はその場で倒れかけた。

気づけば、私は駆け寄り、手を伸ばしていた。

私の胸に倒れ込んできたその男性は、死にそうな顔とは裏腹に温かくて……ああ、生きているのだな、と感じた。


「人に触れるのは、何百年ぶりだろう……」



◇◇◇



コトコトと鍋が沸騰する音。

さまざまな薬草や花の香り。

そこにある、誰かの気配。


とても懐かしく、そして愛おしい気がした。

思わず、私は記憶の中の彼女の名を呼んだ。


「瑠璃……?」

「目が覚めた?」


そこには、夕日の色を瞳に宿した女性が立っていた。


「君は……」


彼女を中心に家の中を見渡す。

木と土で作られた壁。

天井から吊るされた数多の花や薬草。

そして、微かに感じる潮の香り。

──海が近いのだろうか?


困惑しながらも、五感に流れ込む情報を処理していたその時――

顔面に何かが飛んできた。


「なっ……!?」

「いいから、これ着て! あなたの服、汚れてたから洗濯してるところよ」


そう言われ、私は恐る恐る自分の体を見る。

裸だ。唯一、身体を覆っていたのは一枚の布だけだった。


「きゃあああああっ!!」

「男なら騒がないの! こっちだって恥ずかしいんだから、さっさと着替えて!……あ、眼鏡は枕の横ね!!」


彼女にいそいそと指示されるまま、衣類を着て身を整える。

その間、彼女はテーブルに食事を並べていた。


「父の服を残しておいて良かったわ。

残してなかったら、布団でぐるぐる巻きにするところだったわよ?」


そんな声に耳を傾けながら、私はおずおずと声をかける。


「あの……君は……」

「話は後! ここに座って。ごはん食べよ。

半日も寝てたのよ? 起きないかと思って心配したんだから。

とりあえず、お腹空いたでしょ?」


にっこりと笑う彼女に抗うこともできず、言われた通りに丸太の椅子へ腰を下ろす。

テーブルも同じく丸太で作られており、その上には花瓶が置かれ、パン、スープ、サラダが彩るように並んでいた。

彼女は木のスプーンを放るように私に渡してくる。慌ててそれを受け取る。


「寝起きでも食べられるように、ちゃんと考えて作ったんだから。しっかり食べてね」


にっこりと笑う彼女に、私は諦めたように笑みを返した。


「……いただきます」

「いただきます!」


困ったような笑顔を浮かべながら、スープを一口。

──その瞬間、理由もわからず涙がポロリとこぼれ落ちた。


「えっ!? えええ!? そんなに不味かったの!?」


あまりに唐突な反応に、彼女は慌てる。

私は顔を隠すようにして涙を拭いながら、ゆっくりと口を開いた。


「違うんです……こんなに温かいのは、久しぶりで……」


──あぁ、この人はやっぱり、私と同じだ。

何か、訳ありなのね。


ゆっくりと彼のそばに近づき、

まるで子どもをあやすように、そっと抱きしめる。


「きっと辛いことがあったのね。大丈夫よ。

ここには、あなたを傷つける人なんていないわ」


「私は……っ」


 声を潰すように泣く彼。

──涙が出るなら、きっと大丈夫。

彼はまだ、生きられる。


私は、もう涙さえ枯れてしまった。

だから彼のようには、生きられないの。


「す、すみません、急に……」

「いいのよ、気にしないで。それより、あなたの名前は?

私はリリー。リリー・アピア。この丘で長年暮らしてる薬師の魔女よ。あなたは?」


「あ、私は……聖明(せいめい)。紅(こう) 聖明(せいめい)です」

「珍しい名前ね。東洋人なのかな?その漆黒の髪、初めて見たわ」


「母が東洋人で……母から名をいただきました」

「ふふ、その言い方だと父親は西洋人かしら?今どきは珍しくもないかもね。

その様子だと、行く場所がないんでしょ?どうせ私も暇してるし、好きなだけここにいてもいいわよ」


にっこりと笑う彼女は、事情を聞くでもなく、ただ当然のように来訪者を受け入れていた。

そんな彼女に対し、あまりに危機感のない言葉に、逆にこちらが慌てる。


「え、いや……そんな……。こんな、見ず知らずの男を置くなんて……」

「黙って。家主がいいって言ってるんだから、いいのよ。

そんな死にそうな顔でまた出歩かれて、本当に死なれたら後味悪いじゃない」


腕を組みながら、少し怒ったような表情を見せるリリーに、余計に動揺してしまう。


「でも……っ」

「あなたの事情がどうであれ、ここなら大丈夫よ」


あまりに冷静な声。

彼女の瞳はとても真っ直ぐで、まるで心を見透かされているようだった。

恐らく、どんなことを言っても意見を曲げることはないだろう……そんな気がした。


「あの、急にすみません。お世話になってしまって……」

「家のそばで倒れてたなんて、ほんとびっくりしたんだから。

それにしても、旅してる割には軽装すぎない?

というか……持ち物がテディベア一つってどういうことよ……」


彼は、私の目の前に座っている。

その姿は、驚くほど軽装だった。

深い森を越え、こんな誰も近づかない丘まで辿り着いたというのに──持ち物は、たった一つ。テディベアだけ。


(どういうことなの……?)


ベッドに置かれたそのテディベアに、つい視線が逸れる。


「あ……テディベアは……大切なもの、で……」


彼がそう言った、その瞬間──


テディベアが、むくっと動いた。

まるで当然のように、すっくと立ち上がる。


「ええええ!?動いた!?あの姿で魔獣!?

使い魔にしては……可愛すぎない!?」


この世界では、魔法や魔獣の存在は珍しくない。

魔法使いたちは魔獣や精霊を使い魔として使役することもあるし、

魔力だけで一から造る術もある。


でも──このぬいぐるみが……?


「あ、えっと……使い魔とはちょっと違うけど……まぁ、近いかな?

名前は、パニョくんって言うんだ。妹と一緒に作ったんだ……」


どこか照れたように、誤魔化すように笑う彼。

その間に、パニョくんと呼ばれたテディベアは、よじよじと彼の膝の上まで登り、ちょこんと座る。


その姿を、愛しそうに撫でる彼の目は──どこか、寂しげだった。

何か、重たいものを抱えている目。


きっと、「妹」に何かあったんだろう。

それがどういうものなのかは分からないけれど、

その顔を見て、放っておける人なんていないと思う。


「……色々考えるのは後にしましょ? まずは、熱を下げなきゃ」


そう、彼の身体はとても熱を帯びていた。

でも、これは風邪なんかじゃない──


彼の腕に浮かぶ、黒い茨のような模様。

身体から滲み出る、深い闇の気配。


私は長く生きてきたけれど、こんな症状は初めてだった。

彼はふと気づいたように、模様の浮かぶ自分の手を見つめた。


「すみません……自分では、抑えきれなくて……」


抑えきれない?

やはり、これは呪い……?


「……私には、それが何なのかは分からない。

でも、聖明──あなたは、すごく辛そうよ」

「これは、私自身への……罰なんです」

「変なこと言ってないで。せめて落ち着くまで、ゆっくり過ごして」


彼は何かを伝えようと、口を開いた。

けれど私は、そっと彼の唇に指を当てて制した。


「……だって、この丘は“揺り篭”だから」



そう、ここはとても穏やかな“揺り篭”。

誰にでも、優しく包み込んでくれる──そんな場所だから。



◇◇◇



朝、キッチンから物音がした。

一人暮らしの私には聞き慣れない音。


「……朝から何してるの?」


半分寝ぼけながらベッドを出ると、そこには昨晩死にそうな顔をしていた彼が、せっせと料理をしていた。


「あ、おはようございます。勝手にキッチン、お借りしてます。お世話になってばかりだと申し訳ないですからね」


苦笑しつつも、手を止めることなく調理を続ける彼。


「いやいやいや!聖明!

あなた、高熱だったでしょ!?何してるのよ!」


思わず、以前模様が浮かんでいたはずの手を取る。


「……あれ? 模様が……ない?」

「治っちゃったみたいです☆」


「え!?嘘でしょ!?三日間も熱出てたのよ!?

意識不明レベルだったのよ!?急に治るってどういうこと!?」


思わず大声を上げてしまう。

けれど、ふと目に留まったのは見慣れない薬瓶。


それは私が作ったものではなかった。


「……あなた、もしかして医者か薬師? まさかの同業者?」


身体を一瞬びくっとさせ、苦笑い。


「あ、えっと……一応、医者かな……」

「すごい! こんなに若そうなのにお医者さんなんだね!!」


「あ、あははは……えっと、包丁持ってる手なので……その、放してもらえると嬉しいです。危ないので……」

「……あ」


興奮して、右手をぎゅっと握っていたことに気づいて、私はそっと手を放した。


「……わかったわよ。じゃあ私は水、汲んでくるから。朝ごはんは任せたわよ!」



◇



森の奥、川辺へ水を汲みに行く。

穏やかな風。静かなせせらぎ。

いつものはずの光景に、私はふと足を止めて苦笑した。


「まったく……何やってるのよ、私」


川の前でバケツに魔法で水を注ぎながら、昨晩の彼の姿を思い出す。

不思議な模様。異常な回復力。呪い。薬。


──助けた彼は、一体何者なんだろう?


もしかして、何かの事件に関わっていたとか? 危険な研究でもしていた?


そんな妄想をしているうちに、彼の困ったような笑顔が頭をよぎる。


「……悪い人には思えないのよね。それが余計にややこしいのだけれど」


帰り道、ふと気配が変わった。


「……ん?」


振り返ると、そこには見慣れない異形の存在が立っていた。


「嘘……何百年もこんな魔物、見たことなかったのに……」


魔物──

それは生物に闇が憑いたか、あるいは人が闇に呑まれ転生した姿。

闇で構成されたそれは、光に弱い。


私は咄嗟に光属性の魔法を詠唱しようとした……けれど、声が出ない。

その隙を狙ったように、魔物が襲いかかってくる。


──終わった。


そう思ったその瞬間──


「っ!!」

「リリー!!」


気づけば、私は彼の腕の中にいた。

私を庇い、腕を噛まれた彼。

血がボタボタとこぼれ落ちる。


「い、いやっ!」

「これくらい……平気ですよ」


冷や汗をかきながら、彼は優しく笑う。


次の瞬間、彼は詠唱もなく魔法を放った。

魔物は一瞬で吹き飛び、黒い何かに呑まれるように消えた。


……無詠唱。

高度な魔法ほど詠唱は必須なのに、彼のそれはまるで別物だった。


「今のは一体……って、それより腕は!?」


慌てて確認すると、噛まれた痕跡は跡形もなく消えていた。

あるのは、血の跡と、あの黒い茨模様だけ。


「……何、これ」

「気持ち悪いものを見せて、すみません」


息を乱しながらも、彼は申し訳なさそうに言う。

怪我こそないが、明らかに具合が悪そうだ。

そっと手を伸ばすと、熱が──やはりある。


「聖明、あなた……一体、何の呪いを宿してるの?」


彼は、苦しげに、それでも微笑みながら答えた。


「──不老不死の呪いですよ」



◇◇◇



高熱でふらつく彼を支えながら、どうにか家に戻った。

けれど、安心したのも束の間。

部屋の中には、なんとも言えない沈黙が流れていた。


外から聞こえるのは、小鳥のさえずりだけ。

朝の穏やかな陽射しが、まるで何もなかったかのようにカーテン越しに揺れている。


沈黙を破ったのは、彼の声だった。


「……ごめんなさい。さっきの魔物、あれは私のせいなんです」

「え……?」


あまりに突拍子もない言葉に、私は思わず声を上げてしまった。


「何言ってるの?あれは事故よ。あなたが謝る必要なんて──」

「違うんです!」


私の言葉を遮るように、彼は間髪入れず否定した。


「リリーも、感じてるでしょ?私の中にある……“闇”を」


確かに、彼から漂ってくる魔力は異様だった。

穏やかなのに、底知れないほど深く、重く、黒い。

普通の人間ではない──魔力を持つ者なら誰もがそう感じるはずだ。


彼は、ゆっくりと目を伏せたまま言葉を紡いだ。


「私は……“堕天使”と呼ばれる存在なんです。

天使でありながら、闇を司る禁忌の存在。

そして、不老不死の化け物……」


その言葉に、私は脳裏をよぎる記憶を辿った。


遥か昔──

約2000年前、天使と悪魔が地上で争ったという《天地戦争》と呼ばれる戦いがあった。

その戦争は、数え切れないほどの人間を巻き込んだ未曾有の惨劇だった。


魔力を持たない人間たちは生き残るために、

天使と悪魔の力を基に兵器を作り出した。

そう──その中に、「天使にして闇を司る存在」がいたという。

不老不死。どれだけ傷つこうと、破壊されようと、再生する肉体。


それが最初の“堕天使”だった。


本来、天使も悪魔も肉体は持たない霊的存在。

戦争のために地に降り、受肉した彼らにとって“不老不死”は神にも等しい力。

その存在に、すべての陣営が魅了された。


人間は兵器としてその身を縛り、

悪魔は闇の強さに憧れ、

天使はその力を武器にしようとした──


だが、堕天使は己の力が利用されることを拒み、魂を割き、世界へと散った。


その後、分かたれた魂が各地で影響を与え、

力だけを引き継いだ“堕天使の系譜”が生まれていった。

しかし、不完全なその存在には必ず「呪い」が刻まれていたという。


私は、息をのむ。


「……君は、あの──お伽噺に出てくる“堕天使”だと言うの?」


その問いに、彼は驚いたように目を見開いた。


「そんな古いお伽話を知っているなんて、今どき珍しいですね」


彼はわずかに微笑んだ。

けれど、その笑みはどこか痛ましくもあった。


「……そうです。私は、その“堕天使”です。

闇の力を強く宿し、不老不死の存在。ですが、体は普通の天使のまま。闇を受け止めるには、あまりにも脆い構造なんです。力を使えば、体が悲鳴を上げる。暴走すれば、もう……自分でも抑えきれない」


彼の声は静かだったが、確かに“怖れ”が滲んでいた。


「我々堕天使は、闇の気配すら隠しきれない、中途半端な存在です。

漏れ出る闇は魅了効果を放っている。

だから、魔物が寄ってくる。闇を好むあいつらは、特に敏感だから」


「……魔物だけならまだ良いのよね。本当に怖いのは、“悪魔”でしょ?」


私の言葉に、彼は小さく頷いた。


「……そうです。だから私は、一人でいるべきなんです。

誰かと関われば、いずれ傷つけてしまう。私は存在するだけで……周囲を不幸にする。妹さえも……っ」


『瑠璃』


最初に彼が目覚めた時、かすかに呼んだ名前。

それが、きっと──彼の妹の名なのだろう。


震える声。

今にも泣き出しそうな表情。

でも彼は、必死にそれを堪えていた。


涙は流れていないのに、

目元に浮かんだ黒い茨模様がまるで“泣いている”かのように見えた。


「……聖明は、泣き虫な子どもね」


私は、そっと微笑んだ。


「……本当に泣いてるのは──あなたの“心”ね。

とても傷付いてるのね。あなたのせいじゃないわ」


彼は、かすかに震えた。


その姿は、あまりにも脆く、今にも崩れてしまいそうだった。


どれだけ強大な力を持っていても──不老不死でも、心が無敵なわけじゃない。


「私は……死のうと思ってたんです。

死ぬ方法を探して、あちこちを彷徨って……」

「うん……」


「妹の魂は、悪魔に奪われてしまった。

もう、生きる意味がわからなくなったんです」

「うん」


「人間も、天使も怖かった。

不老不死を手に入れるために、私の体は何度も実験に使われて……」

「うん」


「それでも、私は人が好きで……」

「うん」


「なのに、私は……闇を抑えられずに、妹だけじゃなく、友人までも傷つけて苦しめてしまって……」

「うん」


「私は……

私をモルモットにした人たちを……殺してしまった。

私は、罪深い化け物なんです……」

「……うん」


それは、懺悔だった。


誰かに赦しを乞うでもなく、

ただ、自らの罪を噛みしめるように──彼は、意識を手放した。


私は、そっと彼の頬に触れた。


「……辛かったね。悲しかったね。

あなたは、とても優しい人だよ。

その優しさで、全部背負ってしまったのね」


眠る彼に、そっと語りかける。


「私の涙はもう枯れてしまったけど、

あなたの痛み、苦しみ、罪――

全部、どこかで覚えがある感情よ」


「今は、眠って。

罪も、傷も、すぐには癒えないけれど──

どうか、今だけは、あなたの心が穏やかでありますように」



◇◇◇



私は、墓場にいた。


名も刻まれていない墓標。

年月を感じさせるように、苔や蔦に覆われている。


「……私は、丘に住む魔女。あなたたちの想いを受け継ぎし者。

ここは、あなたたちの夢を守る揺り籠よ。……でも、その夢も終わろうとしているのね」


静かに語りかけていたその時、背後から聞き慣れた声が響いた。


「リリー、ごはんできたよ~」


振り返れば、聖明が笑顔で立っていた。

彼の穏やかな顔を見て、私は安心する。

──もうすぐ、彼と暮らし始めて一ヶ月になろうとしていた。


彼が倒れ、再び目を覚ましたあの日は本当に大変だった。

目を開けるなり何度も謝って、「やっぱり、ここにいるべきじゃない」と家を出ようとする。

そのたびに私は引き留めた。


腕を掴んでしまえば、彼は力なく立ち止まる。

人を殺めたとは思えないほど優しくて──女相手だからか、拒む力さえ弱い人だった。

繰り返すうちに諦めたのか、気づけば自然に、私の家で暮らすようになっていた。


元々面倒見がいいのか、家事全般がこなせて、積極的に手伝ってくれる。

元医者だけあって知識も豊富で、私の知らないこともたくさん教えてくれた。


彼と過ごした日々を思い返しながら、私はふと笑みを浮かべる。


「聖明、こっちに来て」


「よくここにいるけど……ここって墓地だよね?」


「うん。太古の昔、活躍していた私のご先祖さまたちのね。

……ちょっと昔話、してもいい?」

「リリーの話なら、どんなのでも」


彼が笑ってくれるから、私も笑って返す。


「天地戦争のあと、受肉した天使は地に残り、人間と共に暮らしたの。天使と人間のあいだに生まれた子どもは、天使と同じく光の魔力を強く持ち、人より長命だった。


やがて受肉した天使たちがいなくなった頃──

魔力を持つ子どもたちのことを、人々は“天使”と呼ぶようになったの。

でもね、時の流れが違う人間たちは、次第に“天使”を疎み、恐れるようになった」


「……そうだね。人は、異物を怖がるものだから」


彼の表情が曇ったのを見て、私はそっと寄り添いながら話を続ける。


「私の先祖たちは、それでも人々の役に立ちたくて、薬師を生業にしてたのよ」

「だから、あんなに薬草が揃ってたんだね」


「そうそう。まぁ、今それを使ってあげられるのは、あなたくらいだけどね」

「……あはは」


「共存できていた時期もあったけど、やがて“魔女”と呼ばれ、疎まれ、追われるようになっていったの。

最後に逃げ込んだのが、ここ。“揺り籠の丘”。

これは、旅の終わりであり、最後の安息の地。


──私は、その最後の子孫。

この丘を守る、最後の魔女よ」


風に揺れる草花、鳥の声、遠くで流れる小川の音。

自然に包まれたこの場所は、静かで、穏やかで──


「……私は、この場所が好き。

優しくて、健やかで……ただ、ひとりはちょっと寂しいけれど」

「リリー……」


彼は心配そうな声で私の名を呼んだ。

私は、そんな彼ににっこりと笑顔を返す。


「今はそうでもないのよ? でも油断すると、聖明が馬鹿なことしそうだからね!」


「馬鹿って……これでも一応、医者なんだけどなぁ……」


困ったように笑う彼は、見ていて飽きない存在だった。


「そういえば、聖明ってお医者様よね? 何のお医者様だったの?」


「あ……あぁ……えっと……“闇魔法医療医師”とか呼ばれてたかな」


「そんな役職があるのねぇ。私、ここから出たことがないから知らなかったわ。最近の世界のことって、全然わからないの。どうせなら、それも教えてほしいな!」


彼は一瞬だけ考える素振りを見せたけれど、次の瞬間には優しく微笑んで「わかった」と頷いた。


それから私たちは、毎日のように丘の周辺を探索し、薬を作り、魔法を教え合って──楽しい日々を過ごした。


もしかしたら、寂しい者同士で傷を舐め合っていただけだったのかもしれない。

それでも、その時間はとても満ち足りていて……

気づけば、私たちはお互いにとって、掛け替えのない存在になりつつあった。



◇◇◇



あれから、二か月の月日が流れた。

窓から外を眺めると、月明かりに照らされた海が静かに光っている。


「ねぇ、聖明」

「ん、何?」


話しかけた相手は、膝にテディベアを乗せて丸太の椅子に座り、本を読み耽っていた。

目線は本から離れず、返事も上の空。

彼はいつも、何かに集中するとこうなる。

ぺらりとページをめくりながら、適当な返事を返す。


私は彼の前にそっとハーブティーの入ったカップを置くと、そのままベッドに移動して、ふわりとダイブした。

小さな家だ。ベッドとキッチンはカーテンで仕切られているだけ。

ベッドにいても、彼の姿がよく見える。


彼を見つめていた視線をそらし、転がりながら右手を宙に差し出す。


「私ね、ずっと一人だったの」

「うん」


「この穏やかな場所で、ずっと一人で生きて、死んでいくんだと思ってた。でも……あなたが来てから、毎日が幸せなの。好きよ、聖明」


バサッと本が落ちる音がした。

視線を向けると、彼は顔を赤らめていた。


そんな彼が、愛しくて仕方ない。

私は意地悪そうな笑顔を浮かべて、話を続ける。


「私ね、いつかあなたと一緒に旅がしたいの」

「旅……に?」


「聖明は、外の世界が怖いかもしれない。いっぱい傷ついたものね。

でもね、あなたが話してくれた世界は、私にはとても輝いて見えたの。それは……どうしてだと思う?」


「えっと……」


彼は戸惑い、目線を泳がせながら口元を手で隠した。

そんな彼を見て、私はくすくすと笑った。


「あなたが、その世界を愛してるからよ」


彼は驚いたように目を見開き、固まった。


──世界に絶望していたのに?

妹も守れず、友人を傷つけ、私を実験台にした憎い人間を殺したのに?


きっと、彼はそんなことを考えていた。

自虐的な一面を持つ彼のことは、もう手に取るようにわかる。


「そんな顔しないで。

聖明は、自分を否定するかもしれないけど……私は、そんなあなたが好き。大好きよ」


「リリーは……私を甘やかしすぎだ」


彼は苦笑して言った。

私は手招きし、彼は戸惑いながらも私の横に座る。


私はそっと肩に頭を預け、目を閉じた。


「リリー?」

「そんなことないわ。

それに……たぶん、あなたより私の方がずっと罪深いのよ」


私は、誰にも聞こえないほど小さな声で呟いた。


「リリー? 最後、何て……?」


「『愛してる』って言ったの!」


私は彼を押し倒した。

ちょうど、彼の顔の上に胸がくるような体勢だった。


「ちょっ、リリーっ!?

私も一応、男なんですけど……!

そんな、誘うようなことされると……!」


「誘ってるのよ?」


彼は一瞬固まり、それから火がついたように真っ赤になった。

私はそんな彼に、そっとキスを落とす。


「眼鏡、邪魔ね」


そう言って、彼の眼鏡を勝手に取り上げる。

けれど彼は止めもせず、困ったように笑っていた。


──あぁ、この穏やかな時間が、永遠に続けばいいのに。


……でもね、ここは揺り篭。夢現の場所なのよ。



◇◇◇


昔にpixivで更新していた物語です。

どの過去編より一番最初に書いた小説でもあります(ꈍᴗꈍ)

メインストーリーに合わせて最初と最後のみ書き足しがあります。

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