第13話 ワンダーランド(後編)
大きな扉がゆっくりと開くと、賑やかな音と眩い街並みが一気に押し寄せた。
色とりどりの紙吹雪が天から舞い降り、玩具やぬいぐるみのような姿の人々が軽やかに行き交っている。
それは現実感を削ぎ落とした、絵本の中に足を踏み入れたような光景だった。
私の目の前には、白髪の男が立っていた。
左目には白い薔薇の刺繍が施された眼帯。
優雅な仕草で一礼すると、唇に笑みを浮かべる。
「ようこそ、ワンダーランドへ」
懐かしい顔に、私は自然と声をかけていた。
「やぁ、ホワイトラビット。久しぶりだね」
「やあ、闇の住人。久しぶりとは、妙な言葉を使うじゃないか。
さて──お茶会の時間だ。アリスが君を招待している」
ニヤリと笑うその表情。
ここは名前など意味を持たない世界。
だから私も、つられるようにクスッと笑った。
「ああ、行こう」
──その瞬間、ガラスが割れる音が響き、世界が裂けた。
足元が崩れ、暗闇へと落ちていく。
舞い散るガラス片の中から、紫のシマシマ模様のチェシャ猫が現れる。
尻尾の先に自分の頭を乗せ、くるりと回って私の前に浮かび上がった。
「おやおや、迷子のアリスじゃないか!」
この世界の言葉は、時に人の正気を溶かす。
一歩間違えば、心の奥に入り込み、出られなくなる。
「はは……客人すべてにアリスって呼ぶのは、さすがに紛らわしいと思うけどな」
落下の中で会話を続ける私に、チェシャ猫は牙を見せて笑う。
「アリスはアリスさ。ワンダーランドに迷い込む者は皆アリス。
闇の住人も随分迷った──暗く、深い闇の中でぐるぐる回って、ゴールを見つけられない。
きっと、これからも迷うだろうよ」
全てを知っているような口ぶり。
半分は正解、半分は不正解──それが彼だ。
だから私は、ほんの少しだけ眉をひそめて返す。
「嫌なことを言う」
瞬き一つの間に、気付けば私は席に座っていた。
ケーキや紅茶が溢れるように並び、テーブルを囲う面々。
中央には、水色と白のスカートを纏った金髪の少女が、優雅に濃い茶を嗜んでいる。
壊れたレコードのような音が、微かに空気を震わせていた。
「いやはや、君は時間通りに来るね、闇の住人」
緑色の大きな帽子を被った少年が、懐中時計をパチリと閉じる。
ホワイトラビットは少女に深く一礼すると、白いうさぎのぬいぐるみに姿を変え、テーブルの上に跳ね上がった。
「今日は何のお茶会?」
チェシャ猫は首を元の位置に戻し、宙にふわふわと浮きながら場を見回している。
紅茶ポットの中では、小さなネズミが鼻提灯を揺らしながら眠っていた。
相変わらずの奇妙で愛おしい光景に、私は笑みをこぼす。
「やあ、アリス。こんにちは」
「こんばんは、闇の住人さん」
彼女はカップを置き、静かに返す。
「今日は、君に聞きたいことがあって来たんだ」
この世界は常に変動し、形を変える。
長居すれば、本当に迷子になってしまう。
「いいわよ。今日の紅茶は──きっと美味しくなるわ」
アリスは端的に答え、ホワイトラビットは薔薇模様の皿にケーキを乗せて彼女に差し出す。
「それは本当かな? アリスは知ってる。アリスは知らない」
相変わらず要領を得ないことを言うチェシャ猫。
私はため息をひとつこぼし、口を開く。
「──アリスハートシリーズのことね」
アリスはフォークでケーキを一口サイズに切りながらも、ためらいなく核心を突いた。
その横で帽子屋が懐中時計のチェーンをくるくると指で弄び、興味深そうに笑う。
「おやおや、これはまた美味しい話題だ」
「いいのですか、その話をしても?」
ホワイトラビットがポットを傾け、紅茶を注ぎながらアリスを見やる。
「私は──遠い昔と、今と、未来で彼に助けられたことがある。恩は返す主義なの」
きっと彼女が言う“彼”とはクロスのことだろう。
けれど、ここでは前世も現世も区別がない。すべては繋がった世界だ。
「ありがとう。私は──ドールに定着する魂のあり方について知りたい」
アリスはケーキを口に運び、甘みを嚙みしめるようにゆっくりと紅茶を啜った。
カップの縁を指でなぞりながら、瞳を細める。
「あなたが連れてきた、新しい人形のことね。
作られた器、半分だけの魂。……操っているのは、だぁれ?」
「私の妹だ」
アリスの唇がわずかに吊り上がる。
「闇の住人の妹ね。残念だけど、人形は主にしか操れない。
自我を持とうと、自由に動こうと、主が全て。
私のホワイトラビットもそう。他者が操ろうとしたら──首を撥ねられて終わりよ。
あなたは、その人形が止まらないように力を分け与えているのね。でも、それは一時凌ぎ。
噛み合わなくなった歯車は、いずれ止まるわ」
……やはり、瑠璃が風真の命を握っている。
このままでは、止まるのは時間の問題だ。
「所有権を奪うことはできないのか?」
一縷の望みにすがるように尋ねる。
「あなたの人形は禁断の人形と同じ原理よ。
魂が基である限り、所有権は移せない。
ただ──器は入れ物に過ぎない。完全な魂を入れれば、再び動き出す。
紛い物の器でも構わない。魂さえあれば、人形遣いとして操れるわ。
そうすれば、その人形は完全に独立した存在になる」
もし人格だけを肉体に残し、完全な無垢の魂を入れたら……?
「魂は、何でも良いのか?」
「駄目。魂の色が変われば、人形は別物になる。
今ある魂の片割れを、完全にするのよ」
やはり──風真を“風真のまま”にするには、瑠璃の完全な魂が必要だ。
だが、もし二人の魂が合わさり、風真の体に宿ったら……?
「……その場合、人格は?」
「それは私にも分からない。混ざるのか、どちらかが消えるのか……人形自身の問題よ。
闇の住人さんがどうにかできる領域じゃない」
「……そうか」
絶望が胸を締め付ける。
必要なのは瑠璃の完全な魂。しかし、それが叶っても、人格はどうなるか分からない。
最悪──二人とも消える。
思わず頭を抱えた。
そんな私に、アリスが穏やかな声で告げる。
「迷える闇の住人さん。でも、これは朗報よ。
人工天使とは魂の馴染みがいい。魂が完全になれば、人形としてではなく──人間として成立する」
「……!?」
立ち上がった瞬間、椅子が小さく軋んだ。
それは魂を内蔵した悪魔や私の人形ではない、“完全な一人の人”の誕生を意味していた。
もし人格の問題さえ解決できれば──
「それは、私でも成し得なかった完全な生命の再誕。
迷って、選んで、進んで。あなたが選んだ先で、私は待っているわ。
またお茶会をしましょう……次は、お友達を連れてね」
──パリン、と世界にヒビが入る。
色彩が溶け、足元から現実の感覚が押し寄せる。
瞼を開くと、私はベッドの上で跳ね起きていた。
朗報──本当にそうだろうか?
もし人格を選べるのなら……私は瑠璃か、風真か、どちらかを選ばなくてはいけない。
息を整えようと深呼吸しかけたとき、気配を感じた。
視線を巡らせると、風真と龍がこちらを見たまま固まっている。
龍は散らかった書類と機械を前に、手を止めていた。
風真はベッドに腰掛け、積み上げた本の山に手を置いている。
窓の外は寝る前より暗く、時計の針は深夜三時を回っていた。
思わず、口から言葉が漏れる。
「君たち……夜更かししすぎじゃないか?」
二人は顔を見合わせ、同時に返した。
「普段のお前よりマシだろ」
「え……私のイメージ、酷くない?」
心当たりがありすぎて、反論できない。
少し肩を落とし、私は再びベッドにもぐり込む。
……細かいことは考えるのをやめよう。
一つ知識が増えた。それだけでいい。
今は──情報が増えたことに感謝しよう。
それが、きっと今の私にできる最善だ。
おやすみ……瑠璃。
どうか、この声が届いていますように。
ーーー
エクソシスト本部、転移ゲート前。
鉄と魔術が複雑に組み合わさった巨大な輪が、低く唸りながら光を帯びていく。
歯車の噛み合う音と、結界を編み込む魔力の唸りが交互に響き、空気は少し焦げた匂いを孕んでいた。
「……眠い」
風真が半分閉じた目で欠伸を噛み殺しながら呟く。
「夜更かししてるからでしょ」
私は呆れ混じりに返す。昨夜のあの本の山を思い出せば、説得力は十分だ。
龍が腕を組み、私に視線を向けた。
「で、どうだったんだ?」
少し息を整えて答える。
「……可能性は見えた。けど、全部が解決できるわけじゃない」
「そっか」
龍はほんの一瞬だけ真剣な顔をし、それから軽く笑う。
「まぁ、可能性があるだけマシだな。今度は一緒に悩ませろよ」
「……そうだね」
短く頷く私に、龍は軽く肩を叩いた。
やがて、転移ゲートの光が臨界点を迎え、輪の中心に揺らめく魔法の水面が現れる。
「では──いよいよ魔法都市へ!」
龍の声に合わせ、私たちは眩い光の中へと踏み込んだ。
ーーー
暗い部屋の奥で、黒い鏡のような魔導器がぼんやりと光を放っていた。
その光を覗き込みながら、瑠璃は忌々しげに唇を噛む。
「……兄さんが、よりにもよって魔法都市に帰った」
吐き捨てるような声に、隣で紅の瞳を細めた麗が問いかける。
「人形から見えたの?」
「そうよ、あの憎たらしい人形め……どうして私の思い通りに動かないの!? よりによって、あんな場所に連れて行くなんて!」
机に置かれたグラスが、瑠璃の拳で震えた。
「落ち着きなさい、瑠璃」
麗の声音は静かで、それがかえって底冷えするような威圧感を孕んでいる。
「大丈夫よ。もうすぐ、あなた専用の人工天使ができあがる。完成したら……あなたの大好きな聖明に会いに行けばいい」
その言葉に、瑠璃の表情が一変し、頬を赤らめて恍惚とした笑みを浮かべる。
「……そうね。それで、あの人形を目の前で壊してやるの。そうすれば兄さんは私のもの。ずっと……ずっと二人で生きていくの!」
「ふふ……楽しみね」
麗は瑠璃の頬を指先で撫で、その耳元で囁く。
「私たちも協力するわ。──末子の悪魔、ルリレージュ」
冷たい笑い声が、静まり返った部屋に長く響いた。
瑠璃が狂気を孕んだ笑みを浮かべたまま、麗は指先で空間を裂く。
そこから溢れ出すのは、白い霧と低く響く心音のような鼓動。
「……見せてあげるわ。あなたのための器を」
霧の奥、円形の祭壇には無数の魔法陣が重なり、淡く青白い光を脈打たせていた。
中心には、まるで胎児のように丸まった“何か”が、透明な結晶の中で微かに動く。
皮膚はまだ薄く、血管が透け、瞼は固く閉ざされたまま。
しかし、その胸は確かに上下し、静かに呼吸している。
「……綺麗」瑠璃の瞳が爛々と輝く。
「あと少しで、これがあなたの肉体になる。人工天使の器……この世でただ一つ、あなたのためだけに造られた存在」
麗の声が甘く響く。
祭壇の周囲では、黒い法衣を纏った悪魔たちが低く呟きながら、魔力を注ぎ続けていた。
空気は生ぬるく重く、鼓動と魔法陣の唸りが混ざり合い、異様な胎内のような雰囲気を作り出している。
瑠璃は結晶にそっと手を触れた。
冷たくも温かいその感触に、頬を染める。
「早く……兄さんに会いたい」
その囁きは、結晶の中の未完成な器に染み込み、微かにその唇を震わせた──。




