チャッピーの交差
この物語は、誰かの「はじまり」と「おわり」が、
誰かの「つづき」へとそっと受け渡されていく、静かな交差点です。
触れられなかった手と、ずっと隣にあった手。
壊さなかった約束と、壊さずにいられた日常。
どちらも嘘ではなく、どちらも、愛だったのだと。
初夏の芝生の山に吹く風と、きりたんぽ鍋の湯気の向こうに、
かつて誰かが、大切な誰かと見つけた、ささやかな真実を。
【S①】
秋田駅に降り立った最初の日を、私はまだ覚えている。
新しくて、静かで、でも何もない駅だった。
お土産屋とコンビニが一つずつ。
あとは乾いた足音だけが床を打ち、天井からぽつぽつと反響していた。
誰かが笑うわけでもなく、急ぐ気配もないその空気に、私は少し戸惑っていた。
それでも、彼はちゃんと駅前のロータリーに車を停めて、待っていてくれた。
私を見つけると、満面の笑みで、それでも何も言わずに助手席のドアを開けてくれた。
それだけで、胸がいっぱいになった。
空はどこまでも低くて、まだ眠っている田んぼが雪の下でじっとしていた。
左手には海。風車がずらりと並び、巨人みたいにくるくると回っていた。
潮の香りに混ざって、どこか港のような匂いがしてきたから、私はそっと窓を閉めた。
会話はぎこちなかった。
でも、心ではずっと話していた。
何も話せないその時間こそが、私たちの会話だった。
⸻
【M①】
「今日はどうだったの?」
夕食を並べる私に、夫はいつものように明るく尋ねてきた。
この人は、本当に空気のようにあたたかい人だと思う。
いつも笑っていて、なんでも笑い話に変えてしまう。
「うん、まあまあ。お客さんとのやりとりが多くて疲れたけど」
最近、近所の診療所でパートを始めた。
受付業務だけれど、患者さんとも接するし、院長先生とも少し話す。
「今日さ、若い先生がね、わたしに『いつもお花みたいな笑顔ですね』って言ったの」
「お、いいですね〜。気に入ってくれたのか?」
夫はそう言って満面の笑みだ。
私は箸を止めて、なんとなく言葉に詰まった。
好意とか、そういうことじゃない。
あの若い医師――20歳は年下だろう――は、ただ、素朴な笑顔で、そう言っただけだった。
そして私は、その言葉に、少しだけ救われてしまったのだ。
それを、正直に話すことができなかった。
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【S②】
彼とは何度も会った。
温泉のあるホテルにも泊まったし、彼の家にも何度か泊まった。
一緒にお風呂に入り、髪を乾かし合い、夜はベッドに並んで、同じ布団で眠った。
でも私は、一線を越えなかった。
彼が求めなかったわけじゃない。私も、気づかなかったわけではない。
でも私は、決めていた。「越えない」ことを。
一線を越えたら、きっと私は、自分を壊してしまう。
今の生活も、母としての私も、妻としての私も、そしてこの関係までも。
彼は最初、戸惑っていた。けれど何も言わず、ただ黙って受け入れてくれた。
それが苦しかった。
優しさのようでいて、私のわがままをそっと許すその態度が、胸を締めつけた。
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【M②】
「最近、ちょっとだけ自分のこと、好きになれた気がする」
夕食後の片づけを終えて、私は夫にそう言った。
彼は、テレビの音量を少し下げて、こっちを見た。
「それって、仕事が楽しいってこと?」
「うん、そういうのもあるけど……。なんかね、誰かの目に、ちゃんと“私”として映ってる感じがして」
夫はうなずいた。
それだけだったけれど、たぶん全部わかっていた。
昔から、そういう人だった。
「ちゃんと見てるよ、俺も」と冗談のように言ったあと、
「きみは、ずっときれいだったよ」と付け加えた。
その声が、笑ってないのを私は知っていた。
私は黙ってうなずいたけど、心の奥で何かがふるえた。
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【S③】
初めて彼のベッドで朝を迎えた夜、私は眠れなかった。
彼の背中がすぐそこにあって、ぬくもりもあるのに、指を伸ばすことはなかった。
眠っている彼の肩が、ほんの少しだけ揺れていたように思う。
たぶん、息を止めていたのは私だけじゃなかった。
彼の町に、少しずつ変化が訪れていった。
風が畑を抜け、夜の音が虫からカエルに変わっていく。
日本海は青さを増し、波のないその低い海面は、まるでずっと上の高く澄んだ海を真似ているようだった。
「これが秋田の海だよ」
彼が笑ってそう言ったとき、私は言葉にできない安堵を覚えた。
彼の家では夜になると、窓を開けたまま眠った。
扇風機の音、潮の匂い、遠くを走る汽車の音、そして彼の寝息。
私はなかなか眠れなかったけれど、そのすべてが心を少しずつほどいてくれた。
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【M③】
職場にいる若い医師——たぶん二十歳は年下の、背の高い素朴な青年がいた。
ある日、コピー用紙を取りに行った私の後ろ姿に「今日の髪型、素敵です」と言ってきた。
それは誰にでも言っているのかもしれないし、悪意のない軽口なのかもしれなかった。
でも私の胸の奥に、小さな波紋が広がったのも事実だった。
家に帰って、なんとなくその話を夫にした。
彼は箸を止めず、味噌汁をすすりながら、「ふーん、それはイイ奴だ」と笑った。
その反応が、私にはいちばんうれしかった。
嫉妬ではなく、拒絶でもなく。
ただ、私の話をまるごと受け取ってくれる感じ。
「あなたって、ほんとに変わらないね」と言ったら、
「俺も若い男に褒められたいなあ」と返された。
私は噴き出して笑った。
あの夜、久しぶりに夫の手を自然に握れた気がした。
【S④】
ある夜、彼がふいに言った。
「チャッピー、って呼んでいい?」
私は笑ってうなずいた。意味なんてなかった。
でも、それが彼だけに許された名前だったから、嬉しかった。
そのうち、“チャッピー”という言葉は、彼そのものになった。
心の中で彼を呼ぶとき、私はいつも“チャッピー”と呼んでいた。
その呼び方が、まるでお守りのようで、どこか祈りのようでもあった。
ある日、連絡が途絶えた。
彼からの「おはよう」も「おやすみ」も来ない日が続いて、私は勝手に思った。
——ああ、潮が引いたんだ、と。
けれどその夜、ふいに彼から写真が届いた。
「今日の空がすごかった。一緒に見たかったな」
たったそれだけで、私は泣いてしまった。
潮は引いていなかった。
ただ、お互いが波打ち際で、立ちすくんでいただけだった。
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【M④】
息子は春から独り暮らしを始め、娘も海外へ出ていった。
家の中は、静かというより、無音だった。
夫は明るく、いつも通り「寂しくなるなあ」と笑っていたけれど、
私は自分の足元にぽっかりと穴があいている気がした。
日曜の朝、夫が洗濯物を干している私の背中に言った。
「次は自分のために生きなよ。今まで、家族のために生きてきたんだから」
その言葉が、胸に刺さって抜けなかった。
家族のために生きてきた。
それが、私にとって誇りであり、時に逃げ道でもあったのだと思う。
でも、これからは?
「自分のために生きる」って、どうやって?
その問いが、私をまだ掴んだままだった。
【M⑤】
紫陽花が、庭の奥で色を変えはじめていた。
その淡い青をぼんやりと見つめながら、私はお湯を沸かしていた。
キッチンの椅子の上には、うちの猫が丸くなって眠っている。
白に近い毛並み。ふわふわとした長毛。
サイベリアン。アレルギーフリーと聞いて迎えた子。
娘が巣立ったころ、ふたりの生活がぽっかりと空いた。
その頃、夫が連れてきてくれた。
「この子なら、美和にも合うと思ってさ」
そう言って、笑いながらキャリーケースを開けたときの顔を、私は今も覚えている。
この人は、私の沈黙の理由に、いつも自然に寄り添ってくれる。
言葉ではなく、タイミングで。
ちょっとだけお茶を濃くしてくれるとか、目を合わせすぎないとか。
そういうことで、私に話す余白をくれる。
──
最近、近くのクリニックで短時間だけ働いている。
そこに、ちょっとさえないけれど、まっすぐな目をした若い医師がいる。
悪意のない好意を向けられて、私はなんだか、くすぐったかった。
帰宅して、夫にそれを笑いながら話すと、彼は少し驚いて、
そして、いつもの調子で笑った。
「そりゃ、うちの奥ちゃまだもん。モテるに決まってる」
「何その言い方、軽い」
「でも本当でしょ?」
軽いようでいて、なんだか泣きたくなるくらい、やさしい言葉だった。
──
私は今、ようやく、誰かの妻ではなく「私」として生きてみたいと思えている。
そう思えるのは、そばにいてくれる人が、変わらず笑っていてくれるからだ。
猫がふと目を覚まして、こちらを見た。
金色の瞳。とても静かで、どこか人の目に似ていた。
私はそっと声をかけた。
「チャッピー、おやすみ」
その名前を口にするたび、胸の奥が、少しだけ揺れて、そして、静まっていく。
夜の風がカーテンを揺らし、紫陽花の匂いが、やさしく流れ込んできた。
──
【S⑤】
小さな台所に、あたたかな匂いが立ちのぼっていた。
初めてふたりで作った、きりたんぽ鍋。
私はセリの根っこを切りすぎてしまって、彼に笑われた。
「そこが一番うまいんだよ。もったいない」
「えっ、そうなの?」
「根っこが主役なの。ぼくんとこでは、ずっとそうだった」
彼は、土の香りがわずかに残るセリの根を、箸でそっと沈めた。
比内地鶏より、だしの味より、根の部分にこそ滋味があると言う。
私は思わず笑ってしまった。
こんなふうに、鍋の作り方で心がほどけるなんて思わなかった。
湯気の向こうで、彼が微笑んでいた。
それは、この冬のなかでいちばんやさしい光景だった。
──
そして季節は、知らぬ間に緩みはじめていた。
潮の香りの向こう、緑のどこかからふと漂ってきた苦い匂い。
ああ、春がそっと近づいているんだ、と、体のほうが先に気づいていた。
ある日、彼が言った。
「ねえ、寒風山に行ってみようか」
車を走らせると、左はずっと海。
波のない低い海面、空が沈んだような静けさ。
風車が並ぶ姿は、まるでドンキホーテの風景のようだった。
芝生の山へ向かうなだらかな道を登った。
寒風山。秋田の人なら、名前を言わなくても通じる場所。
雲の影が斜面をすべり、風が草を揺らしていた。
私は頂に立ち、彼の隣で、深く息を吸った。
「ここに来ると、心がほどける。でも、それだけじゃいけないの」
彼は黙って、空を見上げた。
その沈黙が、風に溶けていった。
──
私は彼の手を取った。そっと。
彼も、やわらかく握り返してくれた。
でも、その強さは、どこか祈るようなかたちだった。
私は思った。
この人のなかに生まれてしまった「かたち」がある。
それは、『触れずに愛する』こと。失わないように、踏み込まないこと。
彼は、もっとも深い愛のかたちに気づいてしまった。
私は、彼の目の奥にあるその静けさが、苦しくなるほど美しいと思った。
だからこそ、終わらせなければならないとも、思った。
このまま続ければ、いつかかたちは崩れてしまう。
だったら、残すしかない。
心だけを、そこに置いて。
私たちは、もう、十分に愛した。
──
今、私は彼の名前を、心のなかで呼んでいる。
チャッピー。
そう呼ぶたび、きりたんぽの湯気と、芝生の山の風を思い出す。
土の香りと、潮風のまざる空気。
そして、彼の手の温度。
——尚子より。
「チャッピー」とは、彼女だけの呼び方であり、彼だけの存在であり、
そして、誰かがかつて感じた“触れないままの温もり”の名前です。
この物語に登場する人たちは、皆、何かを守りながら、何かに別れを告げています。
たとえ触れなくても、愛することができる。
たとえ別々の道でも、残された記憶が優しく光る。
そんな風に、誰かの“今”が、誰かの“やさしい記憶”に包まれていることを、
この物語がそっと伝えられたなら、幸いです。
ご覧くださり、ありがとうございました。