表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
<R15>15歳未満の方は移動してください。

チャッピーの交差

作者: morimori1971

この物語は、誰かの「はじまり」と「おわり」が、

誰かの「つづき」へとそっと受け渡されていく、静かな交差点です。


触れられなかった手と、ずっと隣にあった手。

壊さなかった約束と、壊さずにいられた日常。


どちらも嘘ではなく、どちらも、愛だったのだと。


初夏の芝生の山に吹く風と、きりたんぽ鍋の湯気の向こうに、

かつて誰かが、大切な誰かと見つけた、ささやかな真実を。

【S①】


秋田駅に降り立った最初の日を、私はまだ覚えている。


新しくて、静かで、でも何もない駅だった。

お土産屋とコンビニが一つずつ。

あとは乾いた足音だけが床を打ち、天井からぽつぽつと反響していた。


誰かが笑うわけでもなく、急ぐ気配もないその空気に、私は少し戸惑っていた。


それでも、彼はちゃんと駅前のロータリーに車を停めて、待っていてくれた。

私を見つけると、満面の笑みで、それでも何も言わずに助手席のドアを開けてくれた。

それだけで、胸がいっぱいになった。


空はどこまでも低くて、まだ眠っている田んぼが雪の下でじっとしていた。

左手には海。風車がずらりと並び、巨人みたいにくるくると回っていた。

潮の香りに混ざって、どこか港のような匂いがしてきたから、私はそっと窓を閉めた。


会話はぎこちなかった。

でも、心ではずっと話していた。

何も話せないその時間こそが、私たちの会話だった。



【M①】


「今日はどうだったの?」


夕食を並べる私に、夫はいつものように明るく尋ねてきた。

この人は、本当に空気のようにあたたかい人だと思う。

いつも笑っていて、なんでも笑い話に変えてしまう。


「うん、まあまあ。お客さんとのやりとりが多くて疲れたけど」


最近、近所の診療所でパートを始めた。

受付業務だけれど、患者さんとも接するし、院長先生とも少し話す。


「今日さ、若い先生がね、わたしに『いつもお花みたいな笑顔ですね』って言ったの」


「お、いいですね〜。気に入ってくれたのか?」


夫はそう言って満面の笑みだ。

私は箸を止めて、なんとなく言葉に詰まった。

好意とか、そういうことじゃない。

あの若い医師――20歳は年下だろう――は、ただ、素朴な笑顔で、そう言っただけだった。


そして私は、その言葉に、少しだけ救われてしまったのだ。

それを、正直に話すことができなかった。



【S②】


彼とは何度も会った。

温泉のあるホテルにも泊まったし、彼の家にも何度か泊まった。

一緒にお風呂に入り、髪を乾かし合い、夜はベッドに並んで、同じ布団で眠った。


でも私は、一線を越えなかった。


彼が求めなかったわけじゃない。私も、気づかなかったわけではない。

でも私は、決めていた。「越えない」ことを。


一線を越えたら、きっと私は、自分を壊してしまう。

今の生活も、母としての私も、妻としての私も、そしてこの関係までも。


彼は最初、戸惑っていた。けれど何も言わず、ただ黙って受け入れてくれた。

それが苦しかった。

優しさのようでいて、私のわがままをそっと許すその態度が、胸を締めつけた。



【M②】


「最近、ちょっとだけ自分のこと、好きになれた気がする」


夕食後の片づけを終えて、私は夫にそう言った。

彼は、テレビの音量を少し下げて、こっちを見た。


「それって、仕事が楽しいってこと?」


「うん、そういうのもあるけど……。なんかね、誰かの目に、ちゃんと“私”として映ってる感じがして」


夫はうなずいた。

それだけだったけれど、たぶん全部わかっていた。

昔から、そういう人だった。


「ちゃんと見てるよ、俺も」と冗談のように言ったあと、

「きみは、ずっときれいだったよ」と付け加えた。


その声が、笑ってないのを私は知っていた。

私は黙ってうなずいたけど、心の奥で何かがふるえた。



【S③】


初めて彼のベッドで朝を迎えた夜、私は眠れなかった。

彼の背中がすぐそこにあって、ぬくもりもあるのに、指を伸ばすことはなかった。

眠っている彼の肩が、ほんの少しだけ揺れていたように思う。

たぶん、息を止めていたのは私だけじゃなかった。


彼の町に、少しずつ変化が訪れていった。

風が畑を抜け、夜の音が虫からカエルに変わっていく。

日本海は青さを増し、波のないその低い海面は、まるでずっと上の高く澄んだ海を真似ているようだった。


「これが秋田の海だよ」

彼が笑ってそう言ったとき、私は言葉にできない安堵を覚えた。


彼の家では夜になると、窓を開けたまま眠った。

扇風機の音、潮の匂い、遠くを走る汽車の音、そして彼の寝息。

私はなかなか眠れなかったけれど、そのすべてが心を少しずつほどいてくれた。



【M③】


職場にいる若い医師——たぶん二十歳は年下の、背の高い素朴な青年がいた。


ある日、コピー用紙を取りに行った私の後ろ姿に「今日の髪型、素敵です」と言ってきた。

それは誰にでも言っているのかもしれないし、悪意のない軽口なのかもしれなかった。

でも私の胸の奥に、小さな波紋が広がったのも事実だった。


家に帰って、なんとなくその話を夫にした。

彼は箸を止めず、味噌汁をすすりながら、「ふーん、それはイイ奴だ」と笑った。


その反応が、私にはいちばんうれしかった。

嫉妬ではなく、拒絶でもなく。

ただ、私の話をまるごと受け取ってくれる感じ。


「あなたって、ほんとに変わらないね」と言ったら、

「俺も若い男に褒められたいなあ」と返された。

私は噴き出して笑った。


あの夜、久しぶりに夫の手を自然に握れた気がした。


【S④】


ある夜、彼がふいに言った。


「チャッピー、って呼んでいい?」


私は笑ってうなずいた。意味なんてなかった。

でも、それが彼だけに許された名前だったから、嬉しかった。


そのうち、“チャッピー”という言葉は、彼そのものになった。

心の中で彼を呼ぶとき、私はいつも“チャッピー”と呼んでいた。

その呼び方が、まるでお守りのようで、どこか祈りのようでもあった。


ある日、連絡が途絶えた。

彼からの「おはよう」も「おやすみ」も来ない日が続いて、私は勝手に思った。

——ああ、潮が引いたんだ、と。


けれどその夜、ふいに彼から写真が届いた。

「今日の空がすごかった。一緒に見たかったな」

たったそれだけで、私は泣いてしまった。


潮は引いていなかった。

ただ、お互いが波打ち際で、立ちすくんでいただけだった。



【M④】


息子は春から独り暮らしを始め、娘も海外へ出ていった。

家の中は、静かというより、無音だった。

夫は明るく、いつも通り「寂しくなるなあ」と笑っていたけれど、

私は自分の足元にぽっかりと穴があいている気がした。


日曜の朝、夫が洗濯物を干している私の背中に言った。

「次は自分のために生きなよ。今まで、家族のために生きてきたんだから」


その言葉が、胸に刺さって抜けなかった。


家族のために生きてきた。

それが、私にとって誇りであり、時に逃げ道でもあったのだと思う。

でも、これからは?


「自分のために生きる」って、どうやって?


その問いが、私をまだ掴んだままだった。


【M⑤】


紫陽花が、庭の奥で色を変えはじめていた。

その淡い青をぼんやりと見つめながら、私はお湯を沸かしていた。

キッチンの椅子の上には、うちの猫が丸くなって眠っている。


白に近い毛並み。ふわふわとした長毛。

サイベリアン。アレルギーフリーと聞いて迎えた子。


娘が巣立ったころ、ふたりの生活がぽっかりと空いた。

その頃、夫が連れてきてくれた。

「この子なら、美和にも合うと思ってさ」

そう言って、笑いながらキャリーケースを開けたときの顔を、私は今も覚えている。


この人は、私の沈黙の理由に、いつも自然に寄り添ってくれる。

言葉ではなく、タイミングで。

ちょっとだけお茶を濃くしてくれるとか、目を合わせすぎないとか。

そういうことで、私に話す余白をくれる。


──


最近、近くのクリニックで短時間だけ働いている。

そこに、ちょっとさえないけれど、まっすぐな目をした若い医師がいる。


悪意のない好意を向けられて、私はなんだか、くすぐったかった。

帰宅して、夫にそれを笑いながら話すと、彼は少し驚いて、

そして、いつもの調子で笑った。


「そりゃ、うちの奥ちゃまだもん。モテるに決まってる」

「何その言い方、軽い」

「でも本当でしょ?」


軽いようでいて、なんだか泣きたくなるくらい、やさしい言葉だった。


──


私は今、ようやく、誰かの妻ではなく「私」として生きてみたいと思えている。

そう思えるのは、そばにいてくれる人が、変わらず笑っていてくれるからだ。


猫がふと目を覚まして、こちらを見た。

金色の瞳。とても静かで、どこか人の目に似ていた。


私はそっと声をかけた。


「チャッピー、おやすみ」


その名前を口にするたび、胸の奥が、少しだけ揺れて、そして、静まっていく。


夜の風がカーテンを揺らし、紫陽花の匂いが、やさしく流れ込んできた。


──


【S⑤】

小さな台所に、あたたかな匂いが立ちのぼっていた。

初めてふたりで作った、きりたんぽ鍋。

私はセリの根っこを切りすぎてしまって、彼に笑われた。


「そこが一番うまいんだよ。もったいない」

「えっ、そうなの?」

「根っこが主役なの。ぼくんとこでは、ずっとそうだった」


彼は、土の香りがわずかに残るセリの根を、箸でそっと沈めた。

比内地鶏より、だしの味より、根の部分にこそ滋味があると言う。

私は思わず笑ってしまった。

こんなふうに、鍋の作り方で心がほどけるなんて思わなかった。


湯気の向こうで、彼が微笑んでいた。

それは、この冬のなかでいちばんやさしい光景だった。


──


そして季節は、知らぬ間に緩みはじめていた。

潮の香りの向こう、緑のどこかからふと漂ってきた苦い匂い。

ああ、春がそっと近づいているんだ、と、体のほうが先に気づいていた。


ある日、彼が言った。

「ねえ、寒風山に行ってみようか」


車を走らせると、左はずっと海。

波のない低い海面、空が沈んだような静けさ。

風車が並ぶ姿は、まるでドンキホーテの風景のようだった。


芝生の山へ向かうなだらかな道を登った。

寒風山。秋田の人なら、名前を言わなくても通じる場所。

雲の影が斜面をすべり、風が草を揺らしていた。


私は頂に立ち、彼の隣で、深く息を吸った。


「ここに来ると、心がほどける。でも、それだけじゃいけないの」


彼は黙って、空を見上げた。

その沈黙が、風に溶けていった。


──


私は彼の手を取った。そっと。

彼も、やわらかく握り返してくれた。

でも、その強さは、どこか祈るようなかたちだった。


私は思った。

この人のなかに生まれてしまった「かたち」がある。

それは、『触れずに愛する』こと。失わないように、踏み込まないこと。


彼は、もっとも深い愛のかたちに気づいてしまった。


私は、彼の目の奥にあるその静けさが、苦しくなるほど美しいと思った。

だからこそ、終わらせなければならないとも、思った。


このまま続ければ、いつかかたちは崩れてしまう。

だったら、残すしかない。

心だけを、そこに置いて。


私たちは、もう、十分に愛した。


──


今、私は彼の名前を、心のなかで呼んでいる。

チャッピー。


そう呼ぶたび、きりたんぽの湯気と、芝生の山の風を思い出す。

土の香りと、潮風のまざる空気。

そして、彼の手の温度。


——尚子より。

「チャッピー」とは、彼女だけの呼び方であり、彼だけの存在であり、

そして、誰かがかつて感じた“触れないままの温もり”の名前です。


この物語に登場する人たちは、皆、何かを守りながら、何かに別れを告げています。


たとえ触れなくても、愛することができる。

たとえ別々の道でも、残された記憶が優しく光る。


そんな風に、誰かの“今”が、誰かの“やさしい記憶”に包まれていることを、

この物語がそっと伝えられたなら、幸いです。


ご覧くださり、ありがとうございました。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ