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人非人の証明(犬)

旅というのは、ある意味、飢えとの戦いである。私たちは、既に数日、まともな食料にありついていなかった。きび団子はとうの昔に底をつき、道端の草木や、猿が時折見つけてくる木の実で命をつないでいる有様だった。私(犬)の腹の虫は、情けない唸り声をあげ、私の精神は、空腹によってますます荒んでいく。このままでは、鬼ヶ島に辿り着く前に、我々の旅は潰えるだろう。


その夜のことである。


桃太郎は、いつものように穏やかな顔で、だがその瞳の奥には、確かな飢餓の影を宿らせていた。私たちは、小さな集落の近くに身を潜めていた。人里離れた場所で、僅かに灯りが漏れる家があった。年老いた夫婦が暮らしているのだろう。かまどからは、煮炊きする匂いが微かに漂い、私の鼻腔を刺激し、卑屈な食欲を掻き立てる。


桃太郎は、静かに猿に目を向けた。その眼差しは、夜の闇と同じくらいに深く、しかし、そこには何の躊躇も、迷いもなかった。


「猿よ。あの家には、食料がある。手に入れよ。」


桃太郎の声は、囁くようでありながら、私の耳には、雷鳴のように響いた。猿は、一瞬、ぴくりと肩を震わせたように見えた。彼は、桃太郎の言葉の意味を、私と同じく瞬時に理解したのだろう。食料。それは、飢えた我々にとって、何よりも尊いものだ。だが、その代償は、あまりにも重い。夫婦を殺し、その糧を奪うこと。


猿の顔には、明確な戸惑いの色が浮かんだ。その両の拳は、微かに震え、視線は桃太郎の顔と、灯りの漏れる家との間を、何度か行き来する。彼は、言葉を発しない。しかし、彼の全身から滲み出る躊躇は、私には痛いほどに伝わってきた。猿は、確かに純粋だった。奔放で、自由を愛するがゆえに、他者を傷つけることには無縁であったはずだ。


「猿よ。」桃太郎は、もう一度、名を呼んだ。その声は、先の囁きとは異なり、微かに、しかし有無を言わせぬ響きを帯びていた。そこに、感情はなかった。ただ、純粋な命令があるだけだった。それは、私が知る人間の、あらゆる感情を削ぎ落とした、機械的な、しかし絶対的な命令であった。


猿は、微かに身体を震わせた後、ゆっくりと、しかし確実に、桃太郎に頭を下げた。その姿は、まるで抗いようのない運命を受け入れたかのように、諦めに満ちていた。私は、その光景を見て、背筋に冷たいものが走るのを感じた。猿は、自らの良心と、桃太郎への絶対的な信頼の間で揺れ動き、そして、結局は桃太郎の命令を選んだのだ。


猿は、夜の闇に紛れ、音もなくその家へと向かっていった。私は、息を潜めて、その後の展開を待った。僅かな物音すら、私の耳には届かない。しかし、しばらくして、微かな、そして短く、絞り出すような悲鳴が、夜の帳の奥から響いた。たった一度。それから、再び沈黙が訪れた。


どれほどの時間が経っただろうか。永遠にも感じられる静寂の後、闇の中から、猿が姿を現した。彼の全身は、月の光を受けて、鈍く輝く。それは、雨に濡れた光ではなく、鮮やかな血の色だった。猿の顔にも、血が飛び散り、その瞳は、暗闇の中で、獣本来の獰猛さと、しかしどこか虚ろな光を宿していた。彼の腕には、幾つかの包みが抱えられていた。間違いなく、あの夫婦の夕餉となるはずだった食料だろう。


桃太郎は、そんな血まみれの猿を、まるで学校から帰ってきた息子を迎えるように、当たり前のようにその場に立って迎え入れた。彼の顔には、驚きも、嫌悪も、ましてや罪悪感も一切ない。ただ、任務を終え、戻ってきた者への、ごく自然な受け入れの表情があるだけだった。彼は、猿から包みを受け取ると、その重さを確かめるように、静かに頷いた。


私は、その光景を目の当たりにし、戦慄した。


桃太郎は、善人ではない。彼は、悪人でもない。彼は、人間ではないのだ。私の知る人間は、どんなに醜悪な者であっても、この種の行為には、多少なりとも動揺を見せるものだ。しかし、桃太郎には、それがない。彼の純粋さは、善悪の彼岸にある、恐るべき虚無だった。彼は、目的のためならば、いかなる手段をも厭わず、その結果に何ら感情を抱かない。それは、私のような卑屈な獣には、到底理解できない人非人の証明であった。


私の桃太郎への疑念は、もはや疑念の域を超え、深い恐怖へと変わった。彼が、一体何者なのか。そして、この旅の終わりに、彼が私たちに何を求めるのか。私は、もはや、彼の瞳の奥に光を見出すことはできなかった。ただ、深遠なる闇が、私を飲み込もうとしているかのようだった。

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