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逃亡、彼方の声(女雉)

犬の瞳に宿った、あの小さな、しかし確かな希望の光。それが、私の背中を押した。このまま桃太郎に付き従えば、私たちは、いつか、あの猿のように魂を使い潰されるだけだ。あの夜見た、新たな猿の無垢な顔が、私の決意を固くした。この獣は、まだ何も知らぬ。あの日の私のように、桃太郎の甘い言葉に酔いしれているだけだ。彼を、この地獄から救い出さなければならない。

私は、犬と目配せし、桃太郎が遠くの水平線を虚ろに見つめているその隙に、音もなく動き出した。新しい猿は、まだ桃太郎の傍らで、きび団子を貪っている。その姿は、あまりにも無邪気で、私の胸は再び締め付けられた。

「…猿よ。」

私の声は、ひどく掠れていたが、それでも絞り出した。猿は、きょとんとした顔で私を見上げた。

「私たちと一緒に、ここから逃げよう。」犬が、私に続いて、懇願するように言った。その声には、深い疲労と、しかし確かな決意が滲んでいた。

猿は、きび団子を口にしたまま、首を傾げた。彼の瞳は、純粋な疑問に満ちていた。

「逃げる?なぜ?」

彼の言葉は、あまりにも無垢で、私の心を深く抉った。彼は、何一つ、この状況の恐ろしさを理解していない。彼の口には、桃太郎から与えられたきび団子の甘みが残っているのだろう。

「この旅は…このままでは、貴様も…」犬が、言葉を詰まらせた。かつての猿の末路を、この無垢な魂に、どう伝えれば良いというのだ。

「鬼を退治するのでしょう?桃太郎様は、そうおっしゃった。私は、桃太郎様を信じます。」

猿の言葉は、確信に満ちていた。あの日の私と同じ、揺るぎない信仰だ。私の心は、凍りついた。どれだけ言葉を尽くしても、彼は、私たちと同じ地獄を経験しなければ、桃太郎の真の姿を理解することはないのだろう。そして、それは、あまりにも残酷な真実だ。

私たちは、顔を見合わせた。もう、時間がない。桃太郎が、いつ私たちに意識を向けるか分からない。この猿を連れて行くことは、もはや不可能だった。彼の無垢な信仰は、私たちには、深淵の底のように理解できない壁となって立ちはだかった。

「…行くぞ、犬。」

私は、諦めを胸に、静かに呟いた。犬もまた、深くうなだれた。私たちは、新たな猿に背を向け、音もなく、森の奥へと走り出した。風を切る音が、耳元を通り過ぎる。一歩、また一歩と、桃太郎から離れていく。私たちの足は、自由への渇望に突き動かされている。

どれほど走っただろうか。息が切れ、全身が鉛のように重くなる。しかし、止まるわけにはいかない。あの男から、そして彼の狂気から、遠くへ、もっと遠くへ。

その時だった。

背後から、静かに、しかし、絶対的な力を持つ声が、私たちの耳に届いた。

「犬。雉。」

私の全身は、凍りついた。その声は、森の静寂を切り裂き、私たちの魂の奥底まで響き渡った。桃太郎だ。振り返ることはできなかった。彼の瞳の奥に宿る、底知れぬ深淵が、今、私たちの背後にある。

「逃げる必要はない。」彼の声は、変わらず穏やかで、しかし、微かな命令を帯びていた。「鬼を倒すために、お前たちは必要なのだ。この旅は、続けなければならない。」

その言葉は、私たちを繋ぎ止める、見えない鎖のように響いた。彼の「必要」という言葉が、私たちの存在を、ただの道具としか見ていないことを、改めて突きつける。しかし、私は、振り返らなかった。振り返れば、再び彼の瞳に囚われ、彼の意志に縛られるだろう。

私の足は、止まらなかった。息が切れ、肺が焼け付くように痛む。それでも、私は走り続けた。犬もまた、私の隣で、必死に足を動かしている。彼の瞳に宿った、あの小さな希望の光を信じて。

この旅は、続けなければならない。彼の言葉が、森の中に、静かに響き渡る。だが、私たちは、もう、その言葉に、魂を縛られることはしない。たとえ、この逃亡が、私たちにとっての新たな地獄だとしても。

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