迷える魂(女雉)
犬が、血を纏って戻ってきてから、数日が過ぎた。新しい猿は、何事もなかったかのように、桃太郎の隣にいる。まるで、入れ替えられたことに誰も気づかないとでも言うように。桃太郎の冷徹な采配は、私の魂を深く冷やした。彼は、何一つ変わらない。あの日の朝、初めて出会った時と同じ、無垢な輝きと、底知れぬ深淵をその瞳に宿している。変わったのは、私達だけだ。
私が桃太郎に誘われたあの時。清廉な光を纏い、まるで世界の理そのものであるかのように、彼は私に語りかけた。「正義」という名の甘美な蜜を差し出し、私は迷わずそれに酔いしれた。鬼という「悪」を討ち、世界を救う。そんな大義に身を捧げることが、私にとっての救済だった。その日、私は確かに、魂を生まれ変わらせたような、純粋な歓喜に打ち震えたのだ。
しかし、この数日の間、私は桃太郎の隣で、あの日の幻想と、血に塗れた現実との、途方もない乖離に苛まれ続けた。あの時、桃太郎の言葉が私を魅了した。だが、今、新たな猿が、同じ顔、同じ瞳、同じ空気に誘われ、無邪気にきび団子を握っているのを見て、私の心は、まさに粉々に砕け散る思いだった。
私は、これまで、世間から鬼に苦しめられている者がいるという話を、漠然と耳にしてきた。彼らは、人間を食らい、悪行を重ねる存在だと。だが、この旅で桃太郎が私たちに命じてきたこと。人里を襲い、食料を奪い、時に命を奪う。その行為は、果たして「鬼」と何が違うというのだろう?むしろ、桃太郎の命令によって、何の疑いもなく罪を犯した猿の末路を思えば、彼らの残虐性の方が、はるかに恐ろしいではないか。
私の脳裏に、夜の森で見た、遠くの鬼の里の光が浮かんだ。彼らは、ただ、自分たちの秩序の中で生きているだけではないのか? 桃太郎が言う「悪」とは、彼の目的の邪魔になる、ただそれだけの存在なのではないか? もしかしたら、鬼の存在は、人間の世界とは別の、夜の秩序を保つための必要悪なのではないか? その考えが、私の心を支配し始めた。桃太郎の「正義」は、あまりにも血塗られ、あまりにも虚ろだ。
犬は、猿を殺めて戻ってきてから、完全に打ちひしがれていた。その瞳には、もはや光は宿らず、虚ろな絶望だけが満ちている。桃太郎に問い詰める彼の声は、怒りというよりも、最後の理性で放たれた悲痛な叫びだった。
「これ以上の地獄が…!これ以上の業が…!あの島に存在するのか!?」
桃太郎は、静かに、そして冷徹に答えた。
「…私にも、分からない。」
その言葉は、私にとって、最大の絶望だった。彼は、私たちを、何の確証もないまま、この狂気の旅路に引きずり込んでいるのだ。
そして、その傍らで、新しい猿は、何も知らずに、ただ無邪気にきび団子を齧っていた。彼は、まだ戻らない、かつての猿を、新しい仲間として迎え入れる準備をしているかのように、桃太郎の穏やかな横顔を見上げていた。その無垢な姿が、私の魂の奥底で、鈍い痛みを呼び起こした。この猿も、いずれ、犬と同じ道を辿る。桃太郎の鎖に繋がれ、魂を蝕まれ、道具として使い潰される。その未来が、私には、ありありと見えた。
私の心臓は、重く、しかし、微かに、新しい鼓動を打った。それは、諦念の中に見出した、かすかな、しかし確かな、生存への欲求だった。私は、このまま、桃太郎の狂気に付き従うことなど、もうできない。私達は、この地獄から、逃げなければならない。
私は、ゆっくりと、しかし確実に、犬の横に歩み寄った。桃太郎は、その姿に、何の関心も示さない。彼は、ただ、水平線の彼方を、虚ろな瞳で見つめていた。その隙に、私は、誰にも聞こえない、微かな、しかし決意を秘めた声で、犬に囁いた。
「…犬よ。」
犬の虚ろな瞳が、かすかに私を捉えた。
「私たちは…」
私の声は、震えていた。しかし、この言葉は、もう、私自身のものだ。
「…ここから、逃げよう。」
私の言葉が、朝の薄闇に、か細い線を描いた。犬の瞳に、ほんの一瞬、驚愕の光が宿った。




