虚ろな篝火、新たなる獣(女雉)
犬が、闇の中へと消えていった。猿の呻き声が聞こえる方角へ。私(雉)には、何が起きているのか、全てが分かっていた。分かっていたのに、私の身体は、桃太郎の隣で、ただ震えていることしかできなかった。あの男の腕に抱かれていた夜以来、私の魂は、もはや私だけのものではない。彼の存在が、私の全てを侵食し、私は、彼に逆らうことなど、微塵も考えられない。
犬が姿を消してから、しばらくの時が流れた。猿の悲鳴は、途絶えた。その代わりに、静寂が、私たちの周囲を深く包み込んだ。その静寂は、死の匂いを纏い、私の胸を圧迫した。犬は、友を殺めた。その事実が、私の心臓を鈍く締め付けた。
その静寂を破るように、桃太郎が、静かに立ち上がった。私は、彼の顔を見上げた。彼の瞳は、夜の闇に吸い込まれるかのように深く、その表情には、何の感情も読み取れない。彼は、犬が猿を殺しに行っている間、ただ待っているだけではない。そう、私には分かっていた。彼が、これから何をしようとしているのかも。
桃太郎は、私に一瞥もくれず、そのまま闇の中へと歩み去った。彼の足音は、静かで、まるで存在しないかのように自然だった。私は、ただ、彼が消えていった闇の奥を、虚ろに見つめていた。私の身体は、その場に留まるよう、見えない鎖で縛られているかのようだった。
どれほどの時間が経っただろうか。長い、長い沈黙の後に、微かな足音が、闇の中から近づいてくるのが聞こえた。桃太郎だ。そして、彼の傍らには、新たな影が寄り添っていた。
月光の下、その影の輪郭がはっきりと見えた時、私の胸は、凍りついた。
そこにいたのは、紛れもなく、一匹の猿だった。
まだ若く、警戒心を帯びた、しかし同時に、何かに魅入られたような、どこか無垢な瞳をした猿だ。彼は、桃太郎のすぐ隣を、まるで彼に縋りつくかのように歩いていた。桃太郎の顔は、私たちを仲間にしたあの時のまま、同じ顔、同じ雰囲気をまとわせていた。穏やかで、優しく、そして、その底に深淵を隠した、あの完璧な表情だ。その顔が、彼の持つ言葉にならない魅力を最大限に引き出し、新たな獣の魂を、静かに、しかし確実に捕らえていた。
あの時の私と同じだ。私は、瞬時に悟った。桃太郎が、私たちを仲間へと誘った時、彼が纏っていたのは、まさしく、この「顔」だった。清廉で、慈悲深く、未来を照らす光。その瞳の奥に広がる、夢のような理想の世界。あの時、私は、まるで生まれ変わったかのように、彼に全てを捧げた。世俗の汚れを洗い流し、ただ彼の「正義」のために生きる、そんな甘美な幻想に酔いしれたのだ。しかし、今、この新しい猿の無垢な瞳を見るにつけ、私の心は、途方もない乖離と絶望に苛まれた。あの時の桃太郎と、今目の前にいるこの新しい猿と、そしてこの血塗られた現状。その隔たりは、埋めようのない深い溝となって、私の魂を分断した。彼は、決して変わらない。変わったのは、私たち従者なのだ。彼によって、その魂を歪められ、汚されていく、私たちだけが。
何も知らないこの新しい猿は、あの時の私同様、桃太郎の持つ不可解な、しかし絶対的な魅力に惹かれ、迷いなく彼についてきたのだ。彼は、きび団子を差し出され、それを何の疑いもなく受け取ったのだろう。彼は、まだ、この世界の、そして桃太郎という男の、真実を知らない。この闇の奥で、彼の仲間の猿がどれほど残酷な死を遂げたのか、知る由もない。彼に、桃太郎の言葉に潜む「狂気」を理解できるはずもなかった。彼は、やがて戻ってくるであろう、かつての猿を、新しい仲間として迎え入れる準備をしているかのように、ただ、無邪気に桃太郎の隣に立っていた。彼の無垢な姿が、私の魂の奥底で、鈍い痛みを呼び起こした。
私は、息を殺し、ただ彼らを見つめた。私の瞳は、何もかもを諦めたかのように虚ろだ。しかし、私の心には、冷たい予感だけが、静かに、しかし確実に広がっていた。この新しい猿もまた、いずれ、かつての猿と同じ道を辿るのだろう。桃太郎の鎖に繋がれ、彼の目的のために、その身を捧げるのだ。そして、私は、その全てを、この虚ろな瞳で、見続けるしかないのだ。




