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王道(?)ハピエン

王城の廊下で浮気を発見した結果、侍女の私に溺愛が待ってました

作者: 喜楽直人



「さぁ、シンシア。シンディ?」


 色付き眼鏡の向こう側からでもわかる。冷徹とすら言われている銀色の瞳から注がれる、期待を込めた熱い視線に身を焼かれるようだった。

 それが分かっても、シンシアはどうしてもそれをすぐには受け入れられなかった。


 目の前に差し出されたそれから視線を動かさずに、じっと黙り込む。


「もちろんいきなり全部は食べきらなくてもいい。まずはちょっとだけ。ほんの少し先だけ舐めてみないか」


 そんな事を言われても、無理な物は無理だと頭では思うのに。

 シンシアを見つめる視線があまりにも熱く期待を伝えてくるから、熱に浮かされたように、シンシアはそれを迎え入れるべく、そっと唇を開いてしまった。

 けれど、自分からそれを口に含むことはできない。


「あぁ、シンディ」

 けれど、シンシアが受け入れる様子を見せただけでも感動だったのか、唇の目の前まで差し出されていたそれが、揺れた。

 その先から、ひとしずくのシロップが、零れ落ちそうになるのが目に入った瞬間、シンシアは舌を伸ばしてそれを自分から迎え入れていた。


「おいしい! 甘ったるくないわ」


 いいや、ちょこっとだけスプーンに乗ってるクリームとそこに掛かっているメイプルシロップは甘かった。けれどその下にある焦げ茶色したジェラートは珈琲のほろ苦さと香りがあって、ちょっと大きめの氷の粒が舌を冷やしていく感覚も悪くなかった。

 つまり、甘いものが苦手なシンシアにもとても美味しかった。

 多分クリームとメイプルシロップにしか甘さはほぼ無い。


 その笑顔に満足げに頷いたグレゴリー・ピアーズ騎士団長が、大きな手でシンシアの前にアイスクリームの器を差し出すのを受け取る。

 自身の前にはもうひと皿のアイスクリームがあった。

 そちらはクリーム盛り盛りで苺とチョコレートソースがたっぷりと掛けられている三色のアイスクリームの盛り合わせだった。


 シンシアの知っているグレゴリー・ピアーズ騎士団長の姿は、いつもシミひとつない騎士服をきっちりと着て、ぴっしりと撫でつけた髪と厳めしい顔つきで王城内を歩いている姿だった。

 王弟でもある尊き御身は、夜会や公式の場でも胸元に付ける勲章が増えたり、いつものカマーバンドが華やかなサッシュに替わる程度で、騎士服以外着ている姿を見たことはなかった。

 つまり、シンシアが今着せられている柔らかな生成り色のシャツワンピースと揃いとなる生成りのシャツを着ただけの姿は見るのは初めてだ。

 シャツの首元から続く肩の筋肉の盛り上がり方も、身体の厚みさえ分かるような軽装も、柔らかそうな前髪を下ろした姿も。全部初めて見るものばかりで、正直目のやり場に困る。


「食わず嫌いは世界を狭めるよ」


 目を細めて笑ったその顔に、シンシアの胸がとくんと跳ねた。




 シンシアは、何故自分のような女が、大して親しくもないシンシアとこの国で最も結婚したい男性連続一位を更新中のグレゴリー・ピアーズ騎士団長と、こんなに親密な時間を過ごすことになったのか、頭を悩ませていた。

 なにしろ、ふたりはきちんと口を利いたことすら今日が初めてだ。

 それまでは多分仕事上の会話ならした事がある。すれ違えば会釈を交わす。王弟でもあるグレゴリーに対しては本来なら廊下の端に避けて頭を下げて当然だが、本人が「騎士服を着ている限り、私は自分を単なる騎士団の一員だと思っている。だから皆もそう思って接して欲しい」というので、会釈以上の挨拶をしないことになっていた。

 つまりは単に広い王城という職場を同じにする者同士。それだけの関係だった、筈だった。


 昼休みに、シンシアが婚約者を見かけて声を掛けてしまったことですべてが変わったのだ。


 王宮で上級侍女として働いて二年。見習いだった一年目も入れると三年になる。

 この春、ずっと仕事も決めずにいた婿入り予定の婚約者であるイナス・エイト伯爵令息が、伯爵家の伝手もコネも大いに使ってようやく王宮事務次官補という職を得ることが叶った。

 そこで延期になっていた婚姻に向けて本格的に動こうという話になったところだった。

 しかし、あまりにも話し合いの席に婿に入る予定の本人が出席しようとしない。

 ハート家側としては勤め始めたばかりで身体が持たないのだろうと好意的に受け止めたようだったが、シンシアは心に思うところがあり、本人に直接確かめようと思い立ったのだった。 


 果たして。同じ王城勤めの利を活かして、婚約者のいる職場へと押し掛けようとしたその途中で、その男が他の女性と廊下の隅でキスを交わしているところに遭遇してしまったのだ。


「俺はずっと、お前みたいな可愛げのない偉そうな女が嫌いだったんだ」


 名前を呼びかけてみれば、振り返ってシンシアの顔を見つけた婚約者から開口一番、口汚く罵られた。

 それに黙って涙するなど、シンシアの中ではありえない。


「そう、よかったわ。私もあなたみたいな婿を迎える自分の未来が憂鬱だったの」

「そういうところだ、シンシア・ハート伯爵令嬢」

「えぇ、そうね。婿入り予定の婚約者と同じ職場内で、堂々と浮気ができる不貞者イナス・エイト伯爵令息」


 バチバチと睨み合う。

 そうして、ついに耐えきれないとばかりに、イナスが叫んだ。


「やっぱりお前を嫁にすることなどできっこない。子作りだって無理だ。勃つモノも立たない。抱ける訳がない」

「そう。私と貴方の婚約は、貴方側の問題発生により破談ということね。貴方から自分の欠点を申し出たことは評価して差し上げるわ。貴方に起因する婚約破棄の慰謝料は格安にしておいてあげる」

「な、なんだと」

 イナスは、そこまでシンシアに言われてようやく気が付いたようだった。

 この会話の先にあるものは、自身が貴族位であることのセーフティネットを自ら外す事であると。


 次男でしかなく騎士でもないイナスが貴族籍を保つ為には、兄が爵位を継承する前に、どこか貴族家の跡取り娘と婚姻を結ぶことしかない。何か仕事で功績を上げる事が出来れば叙爵もあることはあるが、王宮内に職を得たばかりでしかも木っ端職員でしかないイナスには、それを成すことは難しい。


 貴族籍を持たなくなっても、王城勤めの勤務態度が認められればそのまま勤め続けることは許されるが、それだけだ。

 平民となってはそれ以上昇進することはないし、給与もほとんど上がることもなくなる。すでに平民としては破格の待遇だからだ。


 自ら、自身の未来への橋を叩き割ってしまった事に気が付いて震えるイナスを、後ろからそっとその肘を掴んだ者がいた。


 不安に震える瞳が、イナスを見上げている。


 イナスはその可憐な姿を目に入れると、ほっとしたように破顔した。


「あぁ、そうだ。ごめんよ、可哀想なメレディ。怖かっただろう。でももう心配はいらない。これで何の憂いもなく、君にプロポーズができる。結婚してくれるね?」

「まぁ! 嬉しいです、イナス様。ステア男爵家一女メレディア、よろこんでお受けいたします」


 シンシアが初めてみるその令嬢は、つい先ほどシンシアの婚約者(すでに元が付いているがその時はまだ婚約者であった!)とくちづけを交わしていた相手である。


 ──なるほど。どうやらシンシアが慰謝料を請求する相手は、イナスだけではなかったようだ。


 シンシアの知る限り彼女は王城内で職を持っていることはない。

 ただ、今は来期の採用試験の受付が始まったところだ。将来の箔付の為にも王城内での職を求める貴族の子女は多い。数年で辞めていく者も多いが。

 たぶんそんな求職者のひとりなのだろうとシンシアは当たりを付けていた。

 となれば、上級侍女たるシンシア・ハートは、婚約者のいる男性と職場で逢引きしているような不逞の輩であるメレディア・ステアなる者を、栄えある王宮職員になどさせる訳にはいかない。

 思わず昏い笑みを浮かべてしまう。それを誤魔化すように拍手で讃えた。


「おめでとう、イナス・エイト伯爵令息、そして、……メレディア・ステア男爵令嬢でしたか。ご婚約の成立おめでとうございます」


「ありがとうございます! えーっと、シンシア様ですよね、シンシア・ハート様。上級侍女で、イナス様のこん、あっ、……えーっと元婚約者様ですね。あはっ」


 シンシアはまったくメレディアなる令嬢を知らなかったが、どうやら敵はシンシアのことを正確に把握しているようだった。この状態で笑顔で挨拶を受けるとは剛の者だとシンシアは感心した。


「えぇ。たった今、元が付いたばかりですけれどね」

「そうですね、もう元ですよねー」


 柔らかそうな胸をイナスの肘に押し付けるようにしがみついて笑う顔に、シンシアのこめかみへ青筋が浮かぶ。

 だが、ここで怒鳴り散らしてはシンシアの負けだ。

 ちいさく細く息を吐いて怒りをやり過ごすと、シンシアは落ち着いてイナスへと向き直した。


「どうやらお二人の仲はかなり前からのモノのようですね。よく分かりました。ではハート家には私から報告を上げておきます。以降の手続きなどは、両親から弁護士を通して行う事になると思いますわ。もう二度とお目にかかることもないでしょう。ではどうぞお幸せに」


 心の中でだけ、弁護士からの慰謝料請求を待ってろクソ浮気野郎共めと罵って、よく訓練された笑顔で別れを告げたシンシアは、けれどもその場から素直に解放して貰えなかった。


「あぁ、ありがとう。俺たちふたりで幸せになるよ。お前は次の婚約者探しに苦労すればいい。いや、苦労しても無理か。無理だよな、もう20歳を過ぎた行き遅れだ。はっはっは」

「やあだ。止めて差し上げなさいよ、失礼よ。シンシア・ハート上級侍女は仕事に生きられるのよ。王宮でも仕事熱心で有名だというもの。誰よりも、()()()()()って」


 くすくすと笑うふたりに、苛立ちが募る。

 婚期が遅れたのは、学園を卒業してすぐに結婚する約束であったのに、卒業しても職を得ることができなかったイナスが、『そのまま婿入りしてはあまりにも立つ瀬がない』と愚痴ることへ譲歩した結果だ。

 いますぐにでも自分の立場を分からせてやりたい気持ちが抑えられずに、ここが職場であることすらシンシアの頭から消え去っていた。

 震える手に力を籠め、声を張り上げようとした時だった。


「シンシア・ハート上級侍女の婚約が無くなったことを喜ぶ男は、この王城内だけでも沢山いるさ。そうしてこの私も、そのひとりだ」


 シンシア自身初耳でしかない戯言に、声がした方を振り返った。


 そこに立ち、笑っているのに怖い顔をした人は白銀の騎士服を着ていた。

 しなやかな筋肉を纏った引き締まった身体だった。仕事用のヒールのある靴を履いたシンシアより、頭ふたつは背が高い。

 その堂々たる体躯に、凛々しい眉と通った鼻筋、そして少し薄めの形のいい唇。

 なによりもその人を表す王族特有の銀髪銀眼を持つ、完璧なご尊顔が乗っている。


 首元を飾る豪華な徽章を確認するまでもない。

 この国で、白銀の騎士服を身に着けられる者は唯ひとり。王国に4つある騎士団の中で最強と呼び名が高い白竜騎士団(ホワイトドラゴン)その騎士団長のみである。


「ピアーズ、騎士団長」


「うそだろ、王弟じゃないか。うわっこんな間近で、はじめて見た……」

「うそ、本当に? やだやだ恰好いいぃ!!」


 呆けたように見上げるイナスの肩を、横にいるメレディア嬢が興奮してバンバンと叩いた。

 白銀のマントが翻る颯爽としたその姿に、今のこの場に似合わぬ感嘆の声が上がるのも仕方がない。ただ、自分以外のふたりのリアクションがあまりにも頭が悪すぎて、シンシアは頭が痛くなった。


 そんな外野ふたりをまるっと無視して、大股で近づいてきたその人は、見惚れるほど美しい所作でシンシアの前へと跪いた。


「私が知るだけでも片手では足りない男共が喜ぶことは間違いない。だが、その中で誰より先に名乗りを上げることができる幸運を神に感謝することにしよう。シンシア・ハート伯爵令嬢。どうかグレゴリー・ピアーズの名を、美しく聡明な貴女への求婚者名簿の一番上へ記す栄誉を与えて欲しい 」


 シンシアの、怒りで爪が食い込むほど握りしめていた手を大きな手がそっと掬い取ると、そこへ軽く唇を寄せた。


「っ!?」

「え、なんで、そんな女にっ」


 普段のシンシアならば、男爵令嬢ごときにそんな女呼ばわりされて黙っている事などない。


 しかし今だけは、無理だった。


「え、その。……え。えーーー!!?」


 まるきりその男爵令嬢と同じレベルの言葉しか、シンシアも言えなくなっていたからだ。


 そうしてそのまま、シンシアは流れるような仕草で逞しい腕に腰を取られて、喚くふたりやいつの間にか集まっていた衆目の中から連れ出されたのだった。



 しかもピアーズ騎士団長はそのまま速やかに自分とシンシアの午後休をもぎ取り、そのままシンシアを騒めく王城から攫うように連れ出してくれた。


 



「なに? もしかして私の顔を気に入ってくれたのかな。なら嬉しい」


 じっと見つめ過ぎた。

 シンシアは慌てて俯いて視線を逸らしたついでに、紅くなった頬をグレゴリー・ピアーズから隠した。まぁバレバレだろうけれども。


「あ、あの。ピアーズ騎士団長は、こういうお店には、よくいらっしゃるんですか。おひとりで?」


 王都で流行りのカフェは女性客で満席だった。

 そこかしこで華やかな笑い声があがる洗練された可愛らしい店内。メニューもフルーツを使ったスイーツがメインである。

 ここの焼き菓子は王城内でも人気の差し入れで、たまにシンシアの部署にも届けられるが、軽やかな歯ざわりのマカロンやフルーツキャンディなど目にも鮮やかでなによりどれを食べても美味しかった。


 ──そんなお店に、騎士団長であり王弟でもある方が、ひとりで甘い物を食べにくる? そんなのあり得る訳がない。


 今も、ちらほらと女性客の熱い視線を感じる。

 客層としてこの時間帯は貴族かもしくはある程度教養のある平民がメインらしい。不作法にこちらに話し掛けに来ることはなかったが、なぜお前如きがといった恨みの籠った視線や千載一遇のチャンスを一瞬たりとも逃すまいという熱意を背中に感じる。


 本当は、「いつもはどなたか女性とご一緒なんじゃないですか」と続けようとしてあまりにも踏み込んだ話題すぎると思い直して、質問を変えた。


 この店に入る時に「こう見えて、甘い物に目がないんだ」と言っていたが、それでもこんなに可愛らしいカフェに騎士団長がひとりでよく来たりするものだろうか。


「いいや」


 あっさりと否定されて、口にしなかった質問の答えを突きつけられた気がして言葉に詰まる。

 そうして、やっぱりな、というどこか諦めにも似た思いが浮かんだ。


 ここまでシンシアをエスコートしてくれたそのすべてに慣れたものを感じていた。女性の扱いも含めて。


 きっと、あんな風に職場の廊下で、長年の婚約を破棄されてしまったシンシアを慮ってくれたのだろう。地に落ちたシンシアの名誉を守るべく動いてくれた。それだけなのだ。


「いつもは、部下や家の使用人が買ってきてくれるのを家や執務室で食べていたんだ。だから一度来てみたかった。君と初めて店にこられて良かった。君を連れていきたい場所を考えたら、ここしか思いつかなかったんだ。それと、先ほども言ったように私の事はグレゴリーと呼ぶように。こんなところで王弟殿下とか頭を下げられたらたまらないからね」


 ついでのように、「グレッグでもいいよ」と笑って。そういって、器に残っていた最後のひと匙を綺麗に掬い取り、満面の笑顔でぱくりと頬張った。


 その瞳が、きらきらしている。


(うわー、うわー。なにそれ何この生き物、可愛すぎない!?)


 シンシアは、脳内の言葉を声に出さないようにするのに必死だった。


 掌に浮かんだ汗をついスカートで拭きとりそうになって、普段着とするには柔らかすぎるドレスのようなその上質な手触りに、慌ててナフキンを使った。



 王城から抜け出す馬車の中で、「侍女服のまま出てきてしまいました」と呆然とするシンシアに、グレゴリーは笑って「私も制服のままだった」とお道化て、まずは着替えに行こうと軽く言われた。

 王城内に与えられたシンシアの部屋に戻っては、噂話に飢えている同僚たちの餌食になるのは分かっていたので、実家であるハート伯爵家へと送って貰おうと思ったのだ。

 ついでに両親へ先ほどイナスから言われた婚約破棄についての報告もできる。

 まだ心は落ち着いていないけれど、だからこそ勢いのある今の内に先に済ませた方がいいとも思えた。

 なのに。

「大丈夫。私に任せて。そろそろ着くから」




「着いたようだ。さぁ愛しい人、お手をどうぞ」

 甘く見つめられてエスコートの手を差し出された。

 手袋越しでも分かる、しっかりとした厚みのある手だ。

 長らく婚約者がいた身ではあるが、その婚約者からこうして馬車から降りるときに手を差し出して貰った記憶がシンシアには無い。そもそもふたりで一緒の馬車に乗った記憶自体がここ数年無かったな、と遠い目になった。


「ありがとうございます」

 シンシアは、恐れ多いと怯む気持ちをなんとか表情に出さないようにして、ありがたくその手を受けることにした。 

 とはいえ、侍女姿のシンシアが白銀の騎士服を着た王弟にエスコートを受けて馬車から降りる様子は、誰から見てもかなり滑稽だろうと思うと胸が痛い。

 けれど差し出された手を無視して高い馬車からひとりで降りるのは失礼だし、はしたなさ過ぎる。

 シンシアはそう自分を宥めて、大人しく馬車を降りた。


「ここは?」

 降ろして貰ったのはいいが、そこは表通りではなく一本裏手にある細い道であった。高級住宅街なのだろう。瀟洒な造りのアパートメントが建ち並ぶ。

 馬車が停められていたのは、その中でも特に重厚な扉の前であった。

 錬鉄製の小鬼が付いたドアノッカーが愛らしい。

「さぁ、この道はあまり広くない。いつまでも馬車を停めておけないからね。早く入ろう」


 中へ入ると目の前には大きな階段があった。そこを、またしても腰を取られてエスコートされて昇る。

 服を着替える場所に向かうのではなかったのかという疑念は、すぐに晴れた。


「いらっしゃいませ」


 看板も表札もなにもない迎え入れられた一室の中は、ハンガーラックに掛けられた沢山の服だらけだったからだ。


 部屋は広いというほどはなかったが、ここまで昇って来た途中で目に入った瀟洒な手摺や階段まで絨毯が敷かれている造りに、伯爵令嬢でしかないシンシア・ハートの預かり知らぬ隠れた高級店なのだと推測できた。


「やぁ。突然来て申し訳なかった。急で悪いが着替えたいんだ」

「畏まりました。本店よりマダムをお呼びいたします間、ご自由に店内をご覧になってお待ちくださいませ」


 そう告げて、紅茶を置いて出ていく。

 どうやら普段ここには店番のみをおいているようだった。


「ここは、すこし特殊な店でね。普段は予約をしてから来るべきところなんだ。段取りが悪くてすまない」

「いいえ、そもそもこの外出がイレギュラーなのですから」


 ドレス工房は王都中に沢山ある。オートクチュール専門の工房は今でも多いが、最近はプレタポルテを扱っている工房も増えた。ここは、オートクチュール専門として知られるある工房が、極秘に開いているお店なのだという。

 特別なお客様と認められた人しか入れない。

 そう、例えば王族がお忍びに使う為の、平民に見えるような服を作っているという。


 たしかに、ずらりと並べられている服達は、デザインだけ見れば平民がよく着ていそうなものばかりだった。

 色も、生成りや黒や茶色といった地味なものばかりだ。


「でも、あの。私には普通の平民が着ている服には思えないのですが」


 色や形はたしかにそれっぽい服が並べられている。

 しかし手に取ればすぐにわかる。見る人が見れば触らなくとも分かるだろう。

 使っている生地が違い過ぎるのだ。滑らかな手触りで肌にとろりと蕩けるようなものばかり。

 縫製もしっかりしていて、目立たぬように共布を使ってはいるようだが端の処理にパイピングを施してあることなどあり得ない。縫いっぱなしか、よくて折り返して処理がされていれば上等だろう。


 裕福な平民は着ているかもしれない。だが裕福ならばもう少し華やかなデザインを好むだろう。

 つまり、シンシアの知っている庶民たちが手に取るような服とはまったく別の物だった。


「ちょっと裕福な商家の子女辺りに見えるだけで充分なんだ。実際に庶民が着ている服では、あまりに着心地が違って動けなくなる王族もいたのでね。内緒だけれど、私がそうだった」


 少し声を低めて囁かれた内緒話に、目を瞬く。


 時には、式典や国を挙げての祭りの際には武技の奉納を執り行う勇猛な騎士団長が、まさかと思いつつその姿を想像して、シンシアはつい噴き出してしまった。


「もう。御冗談ばかり」


 くすくすと笑うシンシアの顔を、グレゴリーが覗き込む。


「やっと笑った」


 するりと顔を親指でなぞられて、初めてシンシアは、自分の目尻が涙でうっすらと汚れていた事に気が付いた。


「やだ。なんで」


 顔を背けようとしたところで、目隠しをされた。


「……笑うとさ、涙が出る時って、あるよね」


 うんうん、と頷きながら流れ出した涙を隠すように、そっと太い腕がシンシアの頭を囲い込む。


 その優しさに、シンシアは涙が溢れてくるのを止められなくなってしまった。


 別に、イナスに振られて悲しい訳では無い。


 今更だ。浮気性なのは知っていた。学園にいる時なんて、そりゃもう何人も、イナスの恋人は沢山いたのだから。


 シンシアのことは追い払う癖に。


 それでも。結婚は、シンシアとするものだとばかり思っていたのもまた事実だった。

 その未来が消えてしまった不安もある。でも、それだけだ。


 ──好きだった訳じゃ、ないもの。


「大丈夫。君は美しくて賢い。素晴らしい女性だ。王城内で君に憧れている独身男性は山ほどいる。本当は紹介などしたくはないが、もし君が信じられないというならば幾らでも紹介しよう。だから、大丈夫、だいじょうぶだ」


 平凡というより地味なブルネットの髪と若草色の瞳の組み合わせをシンシア自身は気に入っていたが、イナスからは何度もなじられた。

 とても美人とはほど遠いシンシアに、綺麗もなにもないだろうと思うけれど。

 けれど、今だけは、グレゴリーの優しい嘘が嬉しかった。


 ひとしきり泣いて落ち着いた頃、丁度お店の人がやってきて、いろいろとお勧めを受けて選んだのが、今ふたりで着ているペアといえるような生成りのシャツとシャツワンピースだった。


 というか、シンシアは自身が男性の腕の中で涙を流してしまったことに動揺して、どうやってそれに着替えたのかもよく覚えていない。


 崩れてしまっていた化粧も、その時に直して貰ったようだった。


 シンシアが着替えている間に、グレゴリーの目立つ銀色の髪は染められ、美しい銀色の瞳を隠す色付きの眼鏡を掛けて隠してしまっていた。

 それだけ隠してしまっていても、目の前に座る男性は夢のように美しいままだ。


 そんな方に抱き締められて、泣いてしまった。


 温かな腕の中で、安心しきってしまった。


 なんという失態だろうか。死にたくなる。いっそ殺して欲しいと思うほどだ。


 けれど、あの太い腕にゆるやかに抱き締められ頭を撫でられながら泣くことが、これほど心を癒すなんて。シンシアはそれまで想像したことも無かった。


 本当にまったく、知らなかった。




 その安心を生む特別な腕の持ち主は今、本当に甘い物が好きなのだと分かる顔をしていた。


 そもそも、思い返してみればグレゴリーのメニューを見つめる瞳は真剣だった。

 甘い物は得意ではないと伝えたシンシアに、「昼食を食べ損ねたのではないか」と軽食もあると勧めてくれたので、一番食べ甲斐のありそうなサンドイッチとキッシュタルトの盛り合わせを頼むことにしたのだが、グレゴリー自身がメニューを考える時間はかなり長かった。

 決めたのかと思うと、でもなーと悩んでいるのがひと目で分かる。その身体の動きと表情に気が付いてない振りして表情を取り繕うのも大変だったのだ。


 ちなみに。出されたサンドイッチは花形にくり抜かれているハムときゅうりのサンドイッチが三切れと、星型に作られたキッシュが愛らしく盛り合わされていた。

 シンシアはどちらもひと口でぺろりだ。

 シンシアは上級侍女といっても誰かひとりの主を頂いている訳ではない。だからこそいろいろな部署からいろいろな場面に呼びつけられる為に、休み時間は移動時間となり、ゆっくりと食事を取るのは久しぶりだった。


 薄く切られたやわらかなパンに挟まれた野菜は瑞々しく味が濃くて、ハムの塩気により更に味が引き立っていたし、キッシュは生クリームが使われているのかしっとりと滑らかだった。

 どちらも大変美味しかった。どちらもひと口で終わってしまったが。

 空になった皿を下げて貰いながら、できればもうちょっとガッツリと食べてみたい程であったと見送る。


「ここでサンドイッチをお代わりするよりも、どこか酒でも飲める場所に移動してもうちょっとしっかりしたものを食べに行こうか。この後についても少し話を詰めておきたいしね」


「心が読めるんですか?」


 自身が口走った言葉の非現実さに、シンシアは羞恥に頬を染め、ふしゅーっと空気が抜けたように、肩を落として身を縮こませた。


 消えてしまいたいと願うそんな姿を優しく見つめるグレゴリーの視線に、シンシアはまったく気が付いていなかった。



*****



 次に連れていかれたのは、街中の賑わったリストランテだった。


「いきなりふたりきりで個室というのも困るだろうが、隣の席が気になって会話もままならないままでは先に進められないからね」


 こういう猥雑な場の方が盗み聞きなどの心配がないと聞かされて、シンシアは意外だと思ったが、すぐにその理由について思い当たって納得した。

 確かに、自分達のテーブル内で楽しい酒と旨い食事を飲んでいる時に、わざわざ隣のテーブルでの会話に聞き耳を立てている場合ではないだろう。

 酒は温くなるし、食事は他の奴らに搔っ攫われるからだ。


 ならば最初からここに来ればよかったのではないかと思ったが、どうやらつい先ほど開店したばかりらしい。開店してすぐにこの賑わいにも吃驚したが、庶民の仕事は太陽が外を明るく照らしている間に済ませるのが普通だ。

 暗くなってからランプの灯りの下でなど現実的ではない。

 日が昇ったら仕事を始め、暗くなってくる前に後片付けまで済ませるのだ。


 服を着替えて髪を染め、デザートを食べることで、この店に入れたということのようだった。


「なんだ、デートじゃなかったのですね」

「なにか言ったか?」


「いいえ、さ、さすが騎……グレゴリー様だなー、何でもご存じだなあって」


 うんうん、と頷いて誤魔化していると頼んでいたエールが届いた。

 シンシアが知っているジョッキよりふた回りは大きいだろうか。

 豆と肉の煮込みや、トマトとチーズのサラダ、黒くてナッツの入ったパン、焼いたソーセージなどが次々と並べられ、あっという間にテーブルの上は料理でいっぱいになった。


「さあ、まずは腹ごしらえといこう。ご令嬢の口に合うかはわからんが、王都で此処より旨い酒場を私は知らないな。腹が減っていると思考は下降していくものだ。碌でもない閃きばかりが頭に奔る」


「ふふっ。上級侍女とは名ばかりの補充要員を甘く見ないで戴きたいものですわ。主付きの上級侍女は主と同じタイミングでお茶や食事を摂れるのでしょうが、あっちこっちに時間指定で呼び出されるので移動に時間を取られて昼休みなどないに等しいのです。変な時間に食堂にいくことになるので、いまそこに残っている(ある)食事をありがたく()()()()のです。何でもおいしく頂けるようになりましたわ」


 とはいっても、食べたことのない料理をいきなり頬張るようなことはしない。そこまでの勇気はまだシンシアにはなかった。

 慎重に、少しずつ上品に口へ運んで吟味しては感想を口にする。

 まずはサラダから。トマトも葉物野菜も新鮮で味が濃く、チーズは熟成したものではないようで、舌の上であっさり溶けた。

「あら。とても美味しいです」

 気持ちに弾みがついたのか、笑顔で次の料理へと移る。豆と肉の煮込みは、その大蒜とスパイスの効いた濃い味付けに驚きつつも、結局はこれも「美味しい」と結論付けた。


 ただ、次はあまりシンシアの口には合わなかったようだ。眉の間に皺が寄る。


「この黒パンは、単独で齧ると酸味が強くてキツイですね」

「だが、その酸味があるからこそ、こうした脂の乗った料理と合わせると堪らんのだ」

 あまりの酸味の強さとぼそぼそとした食感に眉を顰めたままでいるシンシアへ手本を見せるようにして、グレゴリーが豆と肉の煮物を上に少しのせるとかぶり付く。


「最高だ」


 満足そうな顔をして噛みしめるグレゴリーに勇気を貰い、シンシアは見様見真似で黒パンに熱々の肉の煮込みをのせて零れ落とさないように口に含んだ。


 肉の脂がパンの酸味を和らげ、更に酸味が脂をすっきりさせてくれる。組み合わせの妙というものはこの事かと合点する。 


「まぁ。これはマリアージュというべきものですね」

「私としては、肉の脂はエールで流すのが一番だと思うがな」


 ひと通り味見をしたシンシアは、グレゴリーのいう通りに、この店の料理は何を食べても美味しいと結論づけたようだった。


 その後は大いに食べて飲んだ。

 もっと話し合わねばならないことがあるとお互いに分かっていたが、今はその気になれなかった。


 この楽しい時間を、もっと味わっていたかった。


 グレゴリーはしゅわしゅわと泡立つそれを喉を鳴らして美味しそうに飲み干して、二回目のお替りを頼んでいた。


 シンシアは、残念ながら器が大きすぎて一気に飲むことはできなかった。

 まだ半分以上も残っているそれは、確かに不思議なコクがあって癖になる味がした。

 だが、如何せんジョッキが大きすぎた。片手では到底持ち上がらないし、下手をすると顔から浴びる危険まで感じる。

 慎重に両手で掲げ持ち、ゆっくりと中のエールを啜る。

 美味しいけれど、そろそろ炭酸が抜けかかってきていて、最初の感動は薄れてしまっている。しかし捨てる訳にはいかない。なにより失礼だし、まだ充分おいしく飲めるものを捨てるなど忍びない。


「よっと」


 酔いも回ってきているからだろうか。中身は減っているので軽くなっている筈であるのに、なぜか重くなったような気がするジョッキを、シンシアは軽く掛け声をかけて持ち上げた。


 ふらり、手が滑ってジョッキがシンシアの細い指の間で揺れた。


「おっと」


 隣から手が伸びてきて、シンシアからジョッキを取り上げた。


「あら」


「すまなかった。君には大きすぎたな。景気づけにはいいかと思ったのだが。ホラ、こちらを飲みなさい」


 大きなエールジョッキを取り上げられた代わりに、かなり華奢なグラスが差し出された。

 綺麗なピンクの酒が入っている。


「これもエール、といっていいんだと思う。柑橘の果汁でエールを割ったものだ。女性に人気なのだと教えて貰った」


「どこの女性にですか? やっぱり騎士団長は、女性にお詳しいんですねー」


 ぷふふ、と笑いながら揶揄する。けれどシンシアは無自覚であったが揶揄したいだけではなかった。それは子供っぽい確かめ行為。男性に対する猜疑心が強くなってしまったシンシアの心の表れであった。


「しまった。君はあまりアルコールに強くないのか。教えてくれた女性は給仕の方だよ。先ほどこれを頼む時に相談したんだ」


「ふーん」

「信じてないな?」

「別にー、そういう訳ではないですけどぉ」


 信じていないとあからさまに態度で示すシンシアに、グレゴリーはちょっと困った様子で目を細めた。


「シンシア・ハート伯爵令嬢。君にだけは私の言葉を信じて欲しい。私は君に嘘を吐かない。君のきびきび働く姿に心惹かれたのは本当なんだ。確かに私は君より10も歳上で、オジサンかもしれない。けれど」


「止めて下さい」


「シンシア嬢」


「私より10歳上ってことは、えーっと31歳前後ということですよね? 全然オジサンじゃないじゃないですか。大体、この国でもっとも結婚したい相手連続ナンバーワンの座をずーーーっと保持しているモテ男な王弟様が、なにを言ってるんですか? 鏡を見たことないんですかー?」


 顔にはまったく出ていないが、シンシアはかなり酔っていた。


 すこしだけ舌ったらずな口調。敬語が時々どこかへ行ってしまい、ほんのりとではあるが目元が赤く染まっている。女性が酔ってそうなることに不快さを感じる男性はいるだろう。

 けれどもグレゴリーは、そんなシンシアを愛らしく思えた。より愛しさを覚えた自分を、少し面白くさえ感じていた。


「では君にとって私は、充分結婚したい相手たり得るということでいいかな」


「うふふ。婚約者からですら、花とカードしか贈られたことがないほど、モテたことのない私からすれば、それはもうすばらしき理想の男性でぇす」


 かんぱーい、とシンシアが華奢なグラスを掲げた。


 彼女のさりげない自分下げ発言の内容に、グレゴリーは眉を顰めつつ、シンシアから取り上げたジョッキを掲げ応えた。


 お互いに、一気に飲み干す。


 給仕に頼んで、シンシアのグラスにはほとんどエールを入れないで作って貰っていた。

 まだ飲む気満々の酔っぱらいにジュースを渡しても怒り出す事が多い。

 だからほんの少し香り付け程度にエールを入れて貰ったジュースを作って貰ったのだ。合わせるジュースは給仕のお勧めにしておいた。二日酔いになり難くなるらしい。


「もっと酒に強いイメージだったがそうでもないのか。やはり、見ているだけでは分からない事は多いな」


「む。弱くなんかないですぅ。普通ですぅ」


 どう見ても酔っている。そうして言い返しておきながら、シンシアは空いていたテーブルの上におでこを乗せてしまっていた。そのままふにゃふにゃと「弱くなんて、ないんですぅ」と反論し続けている。


「酔って笑う顔も愛らしいとはな」


 おもわず呟いて、グレゴリーは頬を弛ませた。


 艶のあるブルネットをひと筋の乱れもなく綺麗に纏め上げ、姿勢正しく廊下を歩く彼女を、目で追うようになったのはいつ頃だったろうか。


 それまで未婚既婚問わず、異性から秋波を送られる事に慣れていたグレゴリーは、仕事上の会話だけであろうとも、一切色を見せることがないひとりの上級侍女を好ましいと思うようになった。


 多分、始まりとしてはそれだけだ。


 ある日、グレゴリーが万年筆を落としてしまった事があった。

 運が悪く慌てた人々の足に蹴られ続け、少し離れた場所にいるひとりの上級侍女の足元まで転がってしまった。

 それをさっと拾い上げたその侍女は、周囲の予想を裏切って、グレゴリーの個人紋が入ったそれを持って駆け寄ってくることはしなかった。

 自身のハンカチでさっとついてしまった汚れを拭きとると、辺りを見回し、グレゴリーを先頭とする一団に目星をつけ、一番近くにいた若い者へ「こちら、あなた方の団長の物だと思います」と言付けて、さっさと自分の仕事へと戻っていってしまったのだ。


 ──あの上級侍女だ。


 遠目でも、後姿だけであろうとも。すでにグレゴリーは、その上級侍女を見分けられるようになっていた。

 だから、彼女ではなく預かった若い騎士が、「拾ってくれた侍女さん、綺麗だったけど、なんかおっかない感じですよね」という軽口を叩いた事が、とても許し難かった。


「誇りある白竜騎士団に、どんなにちいさな恩であろうとも、受けたその相手を蔑むような団員はいらん」

 その団員としては、突然憧れの騎士団長に直接手渡す機会が廻ってきたことで、緊張と興奮でのぼせ上がり軽口を叩いてしまっただけだったのだが。

 憧れの騎士団長からそう冷たく言い捨てられ、顔面蒼白となって震え出すことになってしまった。勿論、グレゴリーが本当に退団を迫ることはなかったが、本人は深く反省し、以後礼儀正しく過ごしている。


 そうやって、いつしか目で追うだけでなく、目で探すようになっている事に気が付いた時には、グレゴリーは自身の心の真ん中に彼女が住んでいることを認めるしかなくなっていた。


 だから、この春になってからというもの、それまでキビキビと仕事を熟していた彼女が時折その男を見つめていることに、グレゴリーは気が付いてしまったのだ。


「婚約者がいることは知っていたし、想いを告げるつもりは毛頭なかったんだがな」


 彼女が、その心を捧げた男から辱められているのを黙って見過ごすことなど、グレゴリーにはできなかったのだ。


 シンシアを誰より見ていたグレゴリーだからわかったのだ。

 仕事一筋であると思っていた彼女の視線が、時折、ある男に向かって注がれていることを。

 どこか諦めたような切ない瞳が、なにを意味しているのかも。


「まぁいいさ。彼女の為に道化になることくらいどうっていうことはない。それに、そろそろあの男にも現実が見えている頃だろう」


 ほぼジュースなカクテルを飲み干したシンシアはとっくにふにゃふにゃで、職場で見せる顔とはまったく違っていた。


 こんな油断しきった表情を見ることができる機会など、グレゴリーにはもう二度と巡ってこないだろう。


「そう。充分だ。私は満足している」


 想いは甘いのに、胃の腑が捩れそうなほど苦しいほど切なかった。

 苦い心を誤魔化すように、グレゴリーは炭酸の抜けた温いエールを飲み干した。




「シンシア! ピアーズ騎士団長にご迷惑をお掛けして」


 グレゴリーの腕に横抱きにされたまま馬車から降りてきた娘に、ハート伯爵は顔面から血が下がった気がした。


 それにグレゴリーは笑顔で冷静に応える。


「伝達は届いていたでしょうか。ご心配をお掛けしてしまいましたね、ハート伯爵。シンシア嬢はいろいろとあってお疲れだったのでしょう。ほんの少しのお酒を召されただけで、帰りの馬車の中で眠ってしまわれました」


 そう言って後ろを振り返ると、同じ馬車から先に降りていた侍女が頭を下げた。

 起きているならいざ知らず、馬車の中でだろうと眠っている令嬢とふたりきりになる訳にはいかない。

 眠気を訴えるシンシアをなんとか励ましながら途中でピアーズ家の侍女を拾ってハート伯爵家へと向かうことにした。

 お陰で予定より更に遅くなってしまったのだが、仕方がない。


 なによりシンシアの紹介を受けられないのが厳しいが、グレゴリーは笑顔で乗り切ることにした。


「まずは正式に名乗らせてください。白竜騎士団団長グレゴリー・ピアーズです。爵位としては公爵を拝しております。本日、僥倖にもシンシア嬢が婚約破棄を受ける場に居合わせる事が出来たお陰で、ご令嬢への求婚者名簿の一番上に名前を連ねる栄誉を授かりました。どうか、そのおつもりで」

「婚約の破棄なんて、しない!」


 屋敷の奥から大きな声が割って入った。

 目をランランとさせて屋敷から飛び出してて来たのは、シンシアの元婚約者イナス・エイトだった。


「イナス君、不敬だぞ」


 ハート伯爵が不快そうにイナスを諫めた。

 前触れもなくシンシアに会わせろとやってきて帰ろうとしない娘の婚約者。ハート伯爵は、イナスのその顔を見るのも久しぶりだった。


 婿養子予定だというのにハート伯爵家による領地経営に関する指導を受け入れようともしなかったこの男を、ハート伯爵は嫌いだった。

 先代伯爵が決めた婚約でなければ、とっくに婚約そのものをなかったことにしていただろう。


 先代が、爵位継承を行う寸前に「最後のひと仕事を終えてきた」と満足そうに愛娘シンシアの婚約を決めてきた時には顎が外れそうになるほど驚いたものだ。

「あれくらいの気概がなくてはな」

 自分たちがイナスに不満を持てば持つほど、なぜかイナスに肩入れをする先代と、なにより当人であるシンシアが、まるで出来の悪い弟ででもあるかのように擁護するので我慢していたが。


 学園卒業時に何の資格も取らず職にもあり付けずに終わったと聞かされた時は、なぜそのような落ちこぼれを婿に迎えねばならぬのかと情けなく思った。

 だが、なによりも気に食わないのが、シンシアに対する敬意を全く感じさせないことだ。


 学生であった頃もだが、卒業しても一度たりともシンシアをデートに誘い出すこともなく、誕生日プレゼントは誰が選んだのか分からないような花束とカードが届くばかり。

 ようやく職を得てこれで結婚に向けて本格的に動き出せると思ったというのに、話し合いに呼び出しても来るのはエイト伯爵だけ。

 シンシアと結婚してハート伯爵家へ婿入りするのがそれほど厭なのかと不快でしかなかった。



 今日の午後、突然仕事中のシンシアから走り書きで婚約破棄を突きつけられたという手紙が届けられて驚いている間に、それを補完する形でグレゴリー・ピアーズ王弟殿下からシンシアを連れ出す許可を願う手紙が届いた時には、椅子から転げ落ちるほど驚いた。


 そのすぐ後だ。

 イナスが屋敷にやってきて、「シンシアに会わせろ」と騒いだのだ。

 「すべてシンシアの勘違い」だと喚くばかりで、手紙にあった浮気の事も、シンシアに婚約破棄を突きつけたことも、一切「勘違いです」と繰り返すばかり。

 娘はいないと帰るようにいっても「では帰ってくるのも待たせて貰う」と帰ろうとしない。エイト伯爵家に迎えに来るようにと要請を出したが迎えもまだ来ないままで、この状態だけでこの婚約を考え直すべきだと思うほどだった。


 挙句の果ての、この王族に対する不敬行為に、ハート伯爵のこめかみの血管が今にも切れそうだった。

 ハート伯爵家の屋敷内で起こされてしまったからには、たとえそれが強引に押し入って来た客であろうとも事件の監督責任は、ハート伯爵その人にある。





 しかし、イナスはそれを聞き入れようとせず、ずかずかと近付いてきてグレゴリーの腕の中で眠るシンシアへと手を伸ばした。


 グレゴリーは、イナスのその手をステップでくるりと躱すと、勢い込んで体勢を崩したイナスの後ろへと廻り込み、その膝裏へと踵で踏み込んだ。


「ぐあっ」


 イナスは悲鳴を上げて膝を押さえてもんどりを打つ。


 グレゴリー・ピアーズは王国最強の白竜騎士団の団長である。本人自身が王国最強の騎士であるとも謳われている。

 その彼が、たかが文官に遅れを取る筈がなかった。

 きちんと手加減もしてある。膝関節を砕くこともしなかった。ただ、骨を繋ぐ腱はしばらく伸びたままかもしれない。戻るまでは歩き難くなるだろうし、当然痛みも出る筈だ。

 致命傷ではない。これが理由でイナスが歩けなくなるような事にでもなられてしまっては、シンシアに対して理不尽な難癖をつけ出す可能性があるからだ。

 小者であればあるほど、権力者や力の強い者に対してはおよび腰になる。対して、自分より弱い者、女性や子供へ強く出るものだ。


「大きな声を上げるのはやめてくれないか。シンシア嬢の安らかな眠りが妨げられてしまうではないか」


 膝を抱えて転がり廻るイナスを声で諫めながらも、グレゴリーはシンシアが酔って寝ている顔から瞳を離そうとしないままだ。


「君が麗しきシンシア嬢へ理不尽な言いがかりを付けて婚約を破棄すると王城内の廊下で叫んだことは、勘違いでも何でもない。間違いなく、その場に居合わせた私自身が確かに聞いている。そして、私以外にもその場にいた大勢の者から君の上司である事務次官殿へ苦情が届けられたそうじゃないか。『仕事中にも関わらず、王城の廊下という公共の場で不埒な真似をした輩を追い出せ』と」


 途中で拾った侍女から受けた情報を突きつければ、元婚約者であるイナスは激しく動揺した。


「なんでそれを……お、おま、貴方がそう訴えるように仕向けたんですね!?」


「まさか。私は、落ち込むシンシア嬢を励ますべく王城から出ていたよ。まさかほぼジュースのようなアルコールとも言えないようなモノを飲むだけで、寝てしまうとは思わなかったが。よほど心労が祟ったのだろう」


 実際にはエールも最初に飲んでいたが、それは口にしなかった。

 婚約者でもない男の前で眠ってしまったのは、心労が祟ったからだということにしておきたかった。


「……シンシアと、ふたりだけで話をさせて頂けませんか。私達は長年婚約者でいたのです。あれは、ちょっとした恋人同士の諍いのようなもの。私達の中でだけ通じるものなんです」


「浮気をした自分から婚約破棄を言い出しただけでなく、長年の婚約期間、デートに誘った事すらないお前にだけは言われたくない言葉だろうな」


 少しだけ、グレゴリーの想像を加えて批難する。

 しかしその想像は、イナスの表情を見る限り、当たっていたようだ。

 拳を握りしめ、はくはくと口を開くが満足に言い返せていない。


「それはっ、その」


「そうだな。シンシアと君はデートなどしたことはないな。ついでに言えば、シンシアが君から受け取ったことがある物といえば、花とカード、それだけだ」


「ハ、ハート伯爵」


 これ以上言い争いは無用とばかりに、ハート伯爵がグレゴリーの言葉を肯定した。


「事務次官殿のところへ苦情か。なるほどね、君があれだけ冷遇していた私の娘との婚約にこれほどしがみつく理由が分かったよ。今年事務次官の補佐になれた訳を知ったんだね」


 ハート伯爵は、吐き捨てるように、はぁ、と大きく息を吐いた。


「そうだよ、シンシアに頼まれて私が事務次官殿に君の就職をお願いしたんだ。婿に入る前だけでも、王城に職歴を残したいのだと。そうして、期間限定ならと受け入れてもらった」

「最初から教えてくれていれば、俺だってもう少し」


 必死の形相でイナスはハート伯爵へ取り成そうとした。その背中へ、声が掛けられた。


「いいえ、少しでは足らないわ。貴方は、我がハート伯爵家を馬鹿にし過ぎよ。わたくしの事もね」


 イナスが振り返ると、そこには冷たい瞳をしたシンシアが立っていた。

 心配そうなグレゴリーに寄り添われているが、すでにすっかり酔いは醒めているようだった。


 いつもひと筋の乱れもなくきっちりと纏めて結い上げているシンシアのブルネットの髪。それが今は緩やかに巻かれていた。彼女の動きに合わせて、艶やかな髪がさらりと流れる様は、色香さえ感じさせるものがあった。

 ドレス工房で直して貰った化粧は、シンシアのシャープな美しさに、自然な親しみやすさを付け加えていた。アルコールの影響はもうないようだったが、肌の色艶もいい。

 普段の彼女なら選ぶことのない柔らかな素材でできたシャツワンピースは、彼女のほっそりとした肢体によく映えた。


 つまり、イナスの瞳には、シンシアがまるで別人のように見えた。


 そう。イナスの守備範囲に、入れてやってもいいと思えるほどに。


「シンシア。あぁシンシア。すまない、君の献身を、君の俺への愛に胡坐をかいていた俺を許してくれ」


 そういって縋る手を、しかしシンシアは冷たく振り払った。


「エイト伯爵令息。婚約者でもなんでもないのですから、気軽に私へ触れようとしないで戴きたいわ。勿論、わたくしを名前呼びするのもお止めください」


 温度を感じさせない平坦な声であった。

 まだ上級侍女として仕事中のシンシアの声の方が柔らかいと感じるほど冷たい声。


「し、しんしあ……」

「貴方とわたくしの婚約は、お互いの祖父同士が友人であったことで結ばれたものであって、わたくし達の意志はまったくそこに関与しておりませんでした。ですが、ハート伯爵家に私しか嫡子がいないのです。わたくしが産んだ子以外にこの家を継がせる訳にはいきません。貴方に種馬になる気が無いのですから、この婚約は貴方有責で破棄になるのは当然では?」


 滔々と、澱みなく理路整然と問い詰められて、イナスは生きた心地がしなかった。

 

「なんて品性の低い事を口にするんだ。いくらなんでもこの俺を種馬呼ばわりすることは。でも、そんなに俺に振られそうになったことが、ショックだったということだね。ごめん、シンシア。でももうなんの心配は要らない」


 あまりに的を外したイナスの反応に、シンシアは怒りを覚えた。

 この男は、シンシアの事をどこまで馬鹿にすれば気が済むのだろう。

 ふうとちいさく息を吐いて、シンシアは口調を真似て、それを諳んじた。


「『やっぱりお前を嫁にすることなどできっこない。子作りだって無理だ。勃つモノも立たない。抱ける訳がない』でしたわね。こんな長々と下劣な言葉を垂れ流すよりずっと、種馬とひと言で表した方が品があると、わたくしとしては思いますが」


 自身が言い放った言葉を一文一句披露されると思わなかったイナスは、「あ」とか「う」とちいさく呻いては、顔を赤くしたり青くしたりと大忙しだ。


「この血を繋いでいくことは、祖父達の友情云々などよりずっと重要です。ですから、貴方の方から自身の有責をはっきり表して、身を引いて下さったのでしょう? ですわね、エイト伯爵令息」


 言い逃れは許さないとばかりに、冷たい視線を緩めようとしないシンシアの言葉に、心が挫けたイナスがその場へと頽れた。


 ハート伯爵やこの場にいるハート家の使用人一同の態度が、シンシアが諳んじた自身のセリフを聴くにつれてシンシアと同じように冷たい物へと変わっていくのを肌で感じ、奇跡的にここからシンシアのご機嫌を取れたとして強引に婿入りを果たしたとしても、針の筵となることは確実なのだと、ようやく現実を理解したのだった。



*****



 ハート伯爵令嬢シンシアとエイト伯爵令息イナスとの婚約は、エイト伯爵令息の有責で正式に破棄された。


 王城内という公の場で起きたこともあり、あまりにも沢山の証人がいたことで、エイト伯爵家側も、先代ハート伯爵であるシンシアの祖父も、諦めて受け入れるしかなかった。


 ただし、シンシアも昼休みではあったものの、勤務中に職場を騒然とさせてしまったと訓告としばらく出勤停止の処分を受ける事になった。

 とはいっても出勤停止については、くちさがない者たちによる興味本位の追及を躱す為であったり、なにより婚約を破棄されるという未婚の令嬢としてはあまりにも不名誉な目にあったシンシアを労わる意味が大きい。



 そうして。出勤停止処分を受けて三日の日が過ぎた初夏の風が気持ちよく吹く晴れた日の午後。

 ハート伯爵家の庭では、ちいさなお茶会が開かれていた。


「よかったのか」

「なにがでしょう?」


 ずっと黙ってお茶を飲んでいた同席者がようやく発した言葉の意味がわからなかったシンシアは、素直にそれを訊ねた。


 しかし、その問いに対する答えはなかなか返って来なかった。


 彼の前に置かれたカップの中身はあまり減っていなかったけれど、もうとっくに冷めている。

 新しい物へ淹れ替えて貰うべきだろうと、シンシアは後ろに控えていた侍女へちいさく合図を送った。


「……ずっと、見つめていたじゃないか」


 誰を、とも何も言われなかったが、その言葉だけでシンシアには彼が何を言いたいのか理解できた。


「嫌だわ。わたしったら。そんなでしたでしょうか」


 仕事中の自分はきちんと仕事に集中できていたと思っていたシンシアは羞恥に染まった頬を片手で隠した。

 自身では、それほど彼を見ていた自覚はなかった。まさか忙しい騎士団長の目に留まるほどだったとは。


「あの、男爵令嬢は有名でね。実家が火の車だというのに散財をやめる気が一切ないらしい両親の娘らしく、王城内で職に就いている男性なら誰でもいいとばかりにしなだれかかる、とね。王城勤めは市井で働くより高給だ。社会的信用もあるからね。借金取りに追われる身としてはどんな事をしても手に入れたい相手らしい」


「そ、そうなのですね」


「そこまでは計画が立てられる頭があるのに、いまだカモが捕まえられていない事でわかるだろうが、詰めが甘いようでね。婚姻前から給与を入れろと騒いでしまっては、何度も破談の憂き目にあっている。彼が夜になって慌ててここへ婚約破棄について取り消しにきたのは、上司に紹介者の名前を教えられたこともあるかもしれないが、これまでの被害者男性と同じ目に遭った可能性も高いだろうな」


 職場を失う可能性に恐怖し、しかし男爵家を継ぐなら構わないかと悠長に考えて令嬢と結婚に逃げようとしたのに、金を稼いでこいと吠えられたのだとしたら。あれだけ嫌っていたシンシアのところに頭を下げに来るのも分かる気がした。


「では、イナスが彼女に振られるかもしれないと最初から考えていらしたのですか。それを知っていらして、わたしを連れ回されたということなのですね」


「ハート伯爵へ君から直接報告をしてしまったら、君の婚約は破棄するしかなくなってしまうからね」


 その割に、想像していた通りにハート伯爵家へ姿を現していた元婚約者が、あのシンシアに対する侮辱を勘違いですまそうとするのを見過ごすことができず、グレゴリーは強く批難した上で、閉ざしておこうと思っていた胸の内を洗いざらい告げてしまった。


 グレゴリーは、自身が水を向けたりしなければ、シンシアの未来は彼女が願ったものになっていたのではないかと悔いていた。


「そうですね」

「ああ」


 さぁっと、風が強く吹いた。

 庭に咲き誇るガーデニアの白い花が、風に揺れた。甘い香りが漂う。


 グレゴリーにとってなにより優先すべきことは、恋した上級侍女の幸せだ。

 その為の当て馬になる覚悟で、名乗りを上げた筈であった。


「……では、やっぱりあの告白は、ただの、時間稼ぎの口実、でまかせだったのですね」


 シンシアの苦し気な言葉に、グレゴリーはハッとした。


「ハート伯爵令嬢、それは違うっ」

「違わないではありませんかっ」


 苦し気なシンシアの言葉を慌てて否定したグレゴリーが目にしたものは、いつも知的で冷静な輝きを宿した緑の瞳から、涙が溢れているところだった。


「シンシア嬢」


「大丈夫です。本当は、わかっていたのです。ほとんど接点のないわたし如きが、……王弟殿下から、お、想われるなど。そのような、夢のような事が、わたしのような行き遅れに」


 気丈にも、震える口元に笑みを浮かべようと努める姿に、グレゴリーは胸が張り裂けるような気がした。


 この恋を失う覚悟を持っていると自身に戒めることで、心を守ろうとしていたことに気が付いて、自分で自分が恥ずかしくなる。


 心を捧げたその人の足元へ駆け寄り、持っていたハンカチで涙で濡れた頬を拭った。


「違う。それは違う。シンシア・ハート伯爵令嬢。あの日言ったように、私は君に嘘を吐かない。私の心があなたにあるのは真実。たとえ君からであっても、私の想いを疑って欲しくはない」


「ほ、んとうですか。わたしへの求婚者名簿へ、あなたのお名前を、本当に書きこんでも良いのですか」


 グレゴリーはすぐに頷いてしまいたかった。だがある一点を確認してからでなくては、彼は一歩たりとも今の現状から動けそうになかった。

 確かめねばいけないと分かっていたが、それを口に出すことは、グレゴリーにとってあまりにも苦行であった。

 だから、王族特有の銀眼を散々動揺に彷徨わせ、何度も口籠りながら、問い掛けた。


「……でも君は、彼の事が、好きなのだろう?」


 それをついに口にした時、グレゴリーの瞳はついには完全に下へとその視線を落としてしまった。


 上からその様子を見ていたシンシアは、怖い白竜様が叱られた犬のようになってしまったわと目を瞠る。そうしてゆっくり笑顔になった。


 だから、素直にそれを口にできた。


「ふふっ。そんな頃も、あったと思います。彼とは長く付き合いがありましたから。情というか友情のようなものとして、でしかありませんが」


 婚約者として紹介された頃は、まだ幼くて「将来ふたりは結婚するんだよ」といわれても、よく分かっていなかった。

 だからただ歳の近い相手として、彼の自慢を聞いているのはシンシアには苦痛というほどでもなく、仲が悪いという訳でもなかった。


 成長と共に交友が広がっていくに従い、彼は彼が望んでいるほど優秀ではなく、周囲に比べて凡庸むしろそれすら盛っているといえる事が判明していった。

 ひと目を引くのは見た目だけという陰口を言われている所に遭遇し、悔しそうにしているイナスを何度か目にした事がある。

 そんな彼の事がシンシアはずっと心配だった。悔しいなら一緒に努力しようと励ましたこともあったが、シンシアのその言葉はイナスを怒らせただけだった。


 そして、同じ学園に通い出し、特に自慢などしたことのなかったシンシアの方がよほど優秀であると分かったことで、ふたりの関係は決定したのだった。



「プライドばかり高い彼が心配でした。ですが、彼は私にそれを指摘されるのが何より嫌いでした。何も役に立てない婚約者であることが、不甲斐なくて。それで、目が追ってしまったのでしょう」


 でも、それだけなのです。


 そう続けようとしたシンシアの言葉は、グレゴリーの腕の中に囲い込まれたことで、途切れて消えた。


「ぐ、グレゴリー様」


「ずっと、ずっと好きだった。勿論、王城内ですれ違うばかりだった私が、君について知っていることはまだ少ない。それでも、この心に住んでいるのは君ひとりだ。あの日、偶然手に入れた君との記憶だけを頼りに生きていくつもりでいたが、あなたの傍で、あなたを守って生きていくことを許して貰えるならば」


「それでは、満足できそうにないです。わたしにも、貴方を守り、愛し、慈しむことを許して下さらなければ」


 シンシアの言葉に、グレゴリーは目を瞬かせる。

 そうして笑顔になって頷き返した。


「シンシア・ハート伯爵令嬢。どうか私グレゴリー・ピアーズの名前を、愛しい貴女への求婚者名簿の一番上に記す栄誉を与えて欲しい。いや、書かせてくれ。そして他の男の名前など書かないと約束してくれ」


 眩しい。

 光り輝きこの国を正しく導く伝説の白竜のようなこの人から、どうして自分がここまで想って貰えているのか。シンシアにはどうしても分からない。


 それでも今この、まっすぐで嘘がないその瞳に映っているのはシンシアただひとりだ。


「グレゴリー様だけでも身に余るというのに。その他にまで、どうして私に他の崇拝者がいると思われているのか。とても不思議なのですが」


 シンシアは少し呆れた様子で、けれど笑顔でグレゴリーの手を取った。


「私は、このハート家の次代当主です。それは変えようもありません。それでも、公爵であるあなたの隣に立つ栄誉を、私に下さるというのですか」


 覚悟を決めて、最後の問い掛けをした。


「勿論だ。現在、我が公爵領を任せている家宰は大変優秀だ。その男にハート伯爵領の管理を任せてもいいし、ハート伯爵領をあなた自身でみたい、私に婿入りして欲しいというのなら、喜んで私は公爵位を返上しよう。領地は王領へ戻るだけだ。心配はなにもいらない」


 あまりにもあっさりとグレゴリーがそういうから。


 シンシアは、とても幸せな気持ちで、申し出を受け入れられた。


「窮地を救って下さっただけでなく、ずっと不甲斐ないわたしを見守って下さった。あなたを、好きになってしまいました。わたしこそ、グレゴリー・ピアーズ様への求婚者名簿の一番上に名前を」


 シンシアの求婚の言葉は最後までいうことはできなかった。


 それを紡ぐべき唇が、声ごと奪われてしまったから。





クリスマスの朝に。

年内最後の投稿になります。

今年も最後までお付き合いありがとうございました!


******


ギルバート@小説垢様(@Gillbert1914)より

シンシア嬢のイメージイラストを描いて頂きました!


仕事できそう! 有能そう!! 惚れる♡

清潔感溢れるホワイトブリルがお似合いでとっても素敵だと思いませんか!


挿絵(By みてみん)


いつもありがとうございますー♡

感謝しますー!

 


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[良い点] シンシアとグレゴリーのまっすぐで気品のある恋模様が読み応えがありました。 途中の食事シーン・飲酒シーンはとても美味しそうで、飯テロ要素もある二度美味しい作品でした。 イナスもなかなかにしぶ…
[良い点]  主人公シンシアが婚約者の不貞を目撃する序盤がよくできています。そこを切っ掛けにして、物語が勢いよく転がりだしていました。それぞれがエキサイトしながら主張をぶつけ合う様子は興味深く、また先…
[良い点] 年長者として道理をわきまえているグレゴリー。 貴族や富裕層の子女が王城で働くのは花嫁修業の一貫でもありますが、見目の良い貴人相手に媚を売ったり態度を変えたりせず真摯に仕事に取り組むシンシア…
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