07 焦燥感
生憎と、「相棒」の努力は無駄足だった。
町憲兵隊には、昨夜屋根を走り回った泥棒の話も、屋根の上で発見された遺体の話も、上がってきていなかった。
八方ふさがりだ、と戦士は思った。これ以上、どうすればいいのか。
「診療所でも、当たるか」
イリエードが提案した。
「生きていれば、医者が必要だっただろう」
閉店前の〈縞々鼠〉を訪れてもう一度ルー=フィンの不在を確認したタイオスとジョードは、イリエードに会うと店の裏の仮眠室に招かれ、ジョードは限界とばかりに寝台で丸くなっていた。
「お前も少し休んだらどうだ、ヴォース。俺が調べておいてやるから」
「有難いが」
タイオスはちらりと友人を見た。
「そんなにアスト酒を集めてどうするんだ」
「四本目はキイリア酒にしてもらうか」
イリエードは笑った。
「何、この仕事は大した波乱もなくてな。たまには刺激が欲しいんだよ」
「すまんな、本当に助かる」
彼は心から礼を言った。
「休みたい気持ちじゃないが、休んでおかなきゃならんこともある、か」
眠気が湧いてくるような状況ではないものの、必要なときに睡眠不足で身体が動かせないなどということになってはたまらない。戦うためには休息も義務だ。タイオスは少々横になることにした。
「何か判ったら、どんなささいなことでもいいから叩き起こしてくれ」
「了解」
敬礼の真似事をして、イリエードは部屋から出て行った。タイオスは息を吐き、すやすやと寝息を立てているジョードの隣の寝台に上がる。
(ルー=フィン)
(リダール)
(胃が……痛くなる)
こんなふうに誰かを心配したことは、あまりなかった。街道上で賊に襲われでもすれば護衛対象を守ろうと躍起になるが、ことはその場で済む。警護の類も、一定期間だけ対象にひっついて周囲を警戒していればいい。仕事であるからしてもちろん真剣に当たるが、たいていは戦士が隣にいれば何事もなく終わる。
リダールに関しても、ルー=フィンに関しても、ひとりで行かせたのは自分だ。前者は事故のようなものだが、少年の様子がおかしいのに気づく機会はあった。後者については、引き留めることができたはずだ。
後悔。しても仕方のない。だが、せずにいられない。
タイオスはごろりと寝返りを打った。
(休んでおかなけりゃ)
瞳を閉ざし、余計なことを考えまいと、数を数える。
やがて、眠りの神が彼のまぶたを撫でていった。
――気づけば、夢のなかの彼は、どこかを走っていた。
どこだか判らない。薄暗くて、辺りの景色はちっとも見えなかった。
焦燥感に駆られて、彼は走っていた。急いで、どこかへ行かなくてはならない。だが、どこへ。
ここはどこなのか。コミン。カル・ディア。幾度も通り過ぎた街町のどれか。それとも、シリンドル。
走り続けた。息が荒くなり、額に汗がにじんだ。足が重くなり、動かしにくくなった。それでも、目的も行く先も判らないまま、タイオスは走り続けていた。
どこへ。どこかへ。急いで、行かなくては。
すうっと、遠くに何かが見えた。まるで、月の女神が雲の隙間から顔を出したかのように、光が射した。
(あれは……何だ)
目的地だ、と根拠なく思った。しかし、何なのか判らない。
(あとひと息)
タイオスは走った。もう、足が棒だ。だが意地になって、彼は走った。
(誰か……いる)
かすかな明かりはその向こうから射しているのか、影になって顔は見えない。いったい誰だ、と彼は目を細めた。彼はその人物を知っている。そう思った。なのに、判らない。
(ええい、苛々する)
(だが近づけば、判るだろう)
走り続けた。しかし、近づいている感じがしない。
(足が……)
動かしている感覚がなくなってきた。
(まずい)
(もう、駄目だ)
膝が折れた。そのまま、彼は前方へ転ぶことになる。
(立ち上がらなけりゃ)
(くそ、力が入らん)
焦燥感ばかりが募る。早く、早く行かなければ。
「タイオス」
声がする。
「早く」
「判ってる!」
彼は叫んだ。誰に叫び返したのか、判らなかった。早くこいと言われたのか、早く行けと言われたのかも。
「早く――」
声は繰り返す。
「月が、満ちてしまう」
満月の夜。それまでにリダールを。
エククシアの台詞だ。あと一旬ほど先の夜、生きた少年を殺して死んだ少年を蘇らせると。
「させるか」
彼は呟いた。
「いま、すぐ」
よろよろと彼は立ち上がった。地面を蹴ろうとしたが、やり方を間違えたかのように、巧くいかない。気ばかりが焦って、彼はふざけているかのように、ぴょんぴょんと飛び跳ねていた。これではろくに進まない。
あの場所で彼を待っているのは、誰なのか。
リダールなのか。それとも、エククシア。或いは、違う誰か。
判らない。ただ、急がなくてはならないとだけ。
青白い光が何かを照らす。少しだけ近づくと、何かの上に、誰かが横たわっているのが判った。
(リダール)
戦士ははっとする。
そこにいるのはリダール少年だ。そして、その向こうには。
風にはためく真白い衣装を身につけて、誰かもうひとり、立っている。
その人物の手に光ったのは、鉈のような刃物だった。振り下ろす場所を確かめるかのように、もう片方の手が少年の首筋に触れている。
「やめろ」
タイオスはうなった。
「よせ!」
刃が、少年の首筋に向かって、振り下ろされる。
「やめろ、エククシア!」
世界が暗転した。
光は消え、横たわる少年も、白い衣の〈青竜の騎士〉も消えた。
「タイオス」
誰かが呼ぶ。彼を呼ぶ。
「早く」
まるで、声は言っているかのようだった。早くしなければ、この出来事が本当になるのだと。
「タイオス」
「――判ってる!」
叫んで飛び起きれば、彼の肩に手をかけて起こしたイリエードは目を丸くし、隣でジョードも飛び起きた。
「な、何だ何だ!?」
「ああ……」
タイオスは額に手を当てた。
「ちっとも、休んだ気がしない」
「悪い夢でも見たのか」
「そりゃもう、悪かった」
げんなりとタイオスは答えた。身体は少し休めたかもしれないが、心の方は激しく疲労した気分だ。