01 一族に必要なもの
飲みつけぬ酒に、リダール少年は顔を真っ赤にし、すやすやと寝息を立てている。
大量に飲んだ訳でもない。葡萄酒を小さな杯に半分。少年はそれも飲み干せなかった。あとはミヴェルとジョードがみな飲んだ。
と言っても彼女らは、ぐでんぐでんになるほど飲むような愚は犯さない。少し気分をよくして寝付きもよくするために嗜んだだけだ。
大人たちはどちらも酒に強く、ほぼふたりで一本をあっさり空にした割には、頬を上気させもしなかった。ジョードに至ってはその後、塀の上を逃走している訳だが、彼の足下はしっかりとしていた。
もっともミヴェルはそれを知らない。ジョードは、もう一本追加するべく近くの酒場に酒を仕入れに行ったと思っている。
それは事実であったが、それからの混乱をまだ知らぬまま、ミヴェルは黙って酒の残った杯をもてあそんでいた。
何かの気配が、感じられた。
はっとして、ミヴェルは顔を上げた。
ジョードが戻ってきたのかと思ったのは、一瞬だった。
そうではない。この気配は、違う。
彼女は素早く椅子から降りると、軽い酔いを覚ますように頭を振って、床に膝をついた。
「――〈月岩の子〉エククシア様」
ミヴェルがそう言って頭を垂れたのと、部屋に音もなく金髪の騎士が姿を見せたのとは、ほとんど同時だった。
「レダクと酒を飲み交わしているか。ずいぶんと余裕があるようだな」
「は……あ、あの、これは」
彼女はすうっと血の気が引くのを覚えた。
「その……浮ついた気持ちではなく、き、緊張感をほぐすために」
「酒について言っている訳ではない。お前はいささか、あのレダクに振り回されているようだ。レダクのなかでも、下等な男に」
「い、いえ、そのようなことは」
「それとも、情が移ったか」
「と、とんでもありません」
女は顔を上げて首を振った。
「ジョードは、余計な口も多いですが、仕事はしています。酒を飲み交わす程度であれば、特に問題がないかと」
「お前は〈しるしある者〉であり、あれはレダクだ。それを忘れるな」
「忘れなど、いたしません」
ミヴェルは眩しそうに、エククシアを見上げた。
「私は常に、我らがソディ一族とライサイ様、そしてエククシア様の御為になるように」
「お前の忠義を疑いはしない」
囁くように、騎士は言う。
「レダクに気を許すなとだけ。お前は誇り高きソディの女。ましてや、しるしを持つ。その辺りの女のように、レダクの男に脚を開くような真似はするな」
「決して!」
ミヴェルは悲壮な顔で首を振った。
「私は……わたくしには、エククシア様だけです!」
「ほう?」
騎士は口の端を上げた。
「ライサイは、孕まぬお前を見限り、私にフィレンを与えた。お前は、その役割を終えたと言うのに」
「はい……私は、〈月岩の子〉の子供を身籠もることができませんでした。ですが、私は」
そこでミヴェルは言葉を止め、顔を伏せて唇を噛んだ。
こんなことを言って、何になるのか。何にもならない。何にも。
「ミヴェル」
エククシアが彼女の名を呼んだ。
「顔を上げよ」
その言葉に女は、おそるおそる、男の顔を見た。青と黄色の瞳で見つめられ、ミヴェルの心臓が高鳴った。
「お前は私のために、何ができる?」
「何でも、いたします」
彼女は即答した。
「エククシア様のためでしたら、何であろうと」
「そうか」
男はうなずいた。
「では、カヌハへ戻れ」
「は……」
答えながらミヴェルは困惑した。彼女たちはいま、カヌハへの道を取っているのだ。なのに何故、騎士はいまさらそのようなことを言うのか。
「そうではない」
男は手を振った。
「お前とリダールだけで戻れ。仮面が術でお前たちを連れる。子供を起こし、支度をしろ」
「では、ジョードは」
「拐かしの手も御者も、もはや不要。捨て置け」
淡々とした台詞に、ミヴェルは少し躊躇を見せた。エククシアは片眉を上げる。
「やはり、情があるか」
「い、いえ」
彼女は首を振った。
「決して、そのようなことは」
「リダールの世話はお前に任せる。逃亡はせぬだろうが、儀式のときまで身体を壊させることのないようにせよ」
「は、はい」
返事をしながら、ミヴェルは不思議に思った。
「しかし、何故いま? 仮面殿にそうしたことができるのであれば、最初から……」
「私の判断に、意見があるのか?」
「ま、まさか!」
ミヴェルは顔を青くした。
「わ、私はただ」
「――〈白鷲〉だ」
「え?」
「〈白鷲〉がリダールを追っている」
エククシアの視線はミヴェルを離れ、どこか違うところを向いた。
「このまま追わせるのも一興。だが、途中でリダールに何かあれば、ライサイが機嫌を損ねる」
騎士はゆっくりと続けた。
「それに……同じ道筋をたどらせるだけでは、大して証明にはならない」
「証明」
ミヴェルは首をひねった。
「何の、証明なのですか」
「〈白鷲の騎士〉は、ライサイの欲する神秘だ。ソディ一族に必要なもの。――これだけ言えば、判るな」
「では」
彼女は伺うようにエククシアを見上げた。
「〈月岩〉に……」
ミヴェルはそれだけ、言った。
「その通りだ」
エククシアはうなずいた。
「私は確信している。だがライサイは、まだ懐疑的だ。あれがただの、人の好い雇われ戦士ではないという証拠が要る。それには」
〈青竜の騎士〉は口の片端をわずかに上げた。
「あやつの道行きをもっと厳しく、険しくしてやること」
「それで、リダールを術でカヌハまで」
判ったと言うようにミヴェルはうなずいた。
「エククシア様。私のような者にそこまでお話しくださり、感謝の念に堪えません」
女は心の底から言って、騎士の足に口づけた。エククシアはただ、されるままでいた。
「ヴォース・タイオス」
彼は呟いた。
「必ずや、ライサイに認めさせよう。そして、必ずや」
〈青竜の騎士〉は、片手の拳をきゅっと握り締めた。
「――その力、我がものとする」