13 家族のような
「ば、馬鹿か? この状態で、一緒に飛べってか」
「それはさすがに無理だろうな。だが、そこに扉があるじゃないか」
若者はあごをしゃくった。屋上、彼らにとっては現状、床に当たる部分に、四方一ラクト強ほどの扉らしきものが確かにあった。
「……侵入するのか?」
「通らせてもらうだけだ」
「こんな夜中に?」
「礼儀にはもとるが、仕方ないな」
淡々とルー=フィンは言い、ジョードはこの若い剣士が冗談を言っているのかそれともまさか本気なのか、いまひとつ判断できなかった。
「いや、ちょっとまずいだろ、それは。逃げんから、少し戻って、下りられるところを探そうぜ」
彼はそう主張した。
「逃げても無駄だと、本当に判っているなら、それでもいいが」
「うんうん」
判ってるとも、とジョードは両手を上げた。ルー=フィンは胡乱そうな顔つきをして、剣を手にしたままジョードを促した。盗賊はゆっくりと動き――目をぱちくりとさせた。
「え」
ジョードの目線は、ルー=フィンの後方に注がれた。
「何をしている。行け」
ルー=フィンは振り返らなかった。盗賊の、罠ではないかと思ったのである。彼の背後に何かあるように思わせ、気を引こうとしているのではと。
剣士は、誰かの気配など感じなかった。
誰もいるはずがないと考えた。
それは誤りではなかった。彼の後ろには誰もいなかった。
ただその代わり、先ほどジョードが闇雲に投げた刀子が――それを持つ手のないままで、ゆらゆらと浮かび上がっていた。
「いや、お前、ちょっと……あ、いや、何でも……」
ジョードはその奇態な現象をルー=フィンに告げたい欲求と、「これは助けだ」という勘に、意味のない半端な言葉を呟いた。その煮え切らない様子に剣士は背後を気にせざるを得ず、ルー=フィンはジョードを警戒しながらそっと背後を確認た。
その瞬間、刀子は、まるで見えぬ手に投げられたかのように彼に向かって飛んできた。
「何っ」
空気を切る音に振り返った天才剣士は、間一髪で、それを避けた。
だが、避けきれなかった。じん、と頬が熱くなる。かすかに、本当にかすかに、刃が彼の左頬をかすめた。
「何奴!」
若者は叫んだ。そこには、誰もいない。
「姿を見せろ、卑怯者が!」
それは、同時だった。
ルー=フィン・シリンドラスはその緑色の両目で、同時にふたつの出来事を認めた。
月明かりの下、薄闇から生まれ出でるように、ひとりの男が現れた。
――非日常的なものを目にすると、ひとは反射的な嫌悪感を覚えることがある。「自分からかけはなれたもの」「理解できないもの」への拒絶や、恐怖でもあるとも言えよう。
タイオスも、リダールも、ジョードも、ロスム伯爵も、男の仮面に違和感を覚えた。それを相手や周囲に見せたかどうかはそれぞれだが、巧く隠しおおせたとしても、内心ではぎょっとした。
しかしルー=フィンは、その仮面の奥にあるものを見ていた。
無論、彼が魔術師のように、顔を覆う金属を透かしてその先の素顔を目にできた訳ではない。
そうではなく、タイオスの考えたように、ただ見れば判るのだ。
彼らの関係は決して良好なものではなかったが、それでも十五年に渡って、同じ神殿のなかで寝食をともにしてきた。ふたりのどちらも「家族のような」などという表現は好まないとしても、彼らはひとりの神殿長――父親のもとで、家族か兄弟のようなものだったと言えた。
後ろ姿であろうと顔を隠そうと、身体の線、ふとした動き、魔術師たちが「波動」と表現する目に見えない何か、もしかしたら魂と呼ばれるようなものは、はっきりとルー=フィンに伝えていた。
「ヨアティア!」
その男は、ヨアティアだった。間違いなかった。
ルー=フィンが同郷の男の名を鋭く叫んだとき、魔術師ではない男の右手が、タイオスに向かって振り下ろされたときと同じように、風を切った。
剣士は、魔術師ではない。彼は魔術のことを知らない。ただ、戦い手の反射が、彼を動かした。何か考えた訳ではなく、彼は細剣で、飛んできた「何か」を斬ろうとした。
斬れない、ものを。
一陣の光刃は、銀髪の若者が持つ剣を弾き飛ばした。
「それ」は、そのままの勢いを保ち、若者の左わき腹から右肩にかけて、大きく切り裂いた。
「な……」
ルー=フィンは目を見開いた。何が起きたのか、彼には判らなかった。
「うげ……」
ジョードは、自分の胸から激しく出血しているとでも言うように、蒼白になっていた。
「いい気味だ」
仮面の男は、満足を声ににじませながら、呟いた。
「驚いたぞ、ルー=フィン。だがお前も驚いたことだろうな。俺にこんなことのできるはずがないと」
その声は、銀髪の若者の耳に届いたのか、どうか。
「世界は広い。お前たちが変わらず〈峠〉の神などをせせこましく崇めている間、俺はもっと力ある存在と触れ合った」
仮面を身に着けた男――ヨアティア・シリンドレンは天を掴もうとするかのように、右手を高く差し上げる。
「命乞いの台詞ひとつも聞けずに残念だ。だがそれは、タイオスから聞き出すとしよう。いずれはハルディールや、アンエスカからも聞きたいものだな」
「な……にを」
「お前は」
再び、手が振り下ろされた。細い三日月のような光の刃が、もう一度ルー=フィンの胸を襲った。
「ここで死ね」
鮮やかな、赤。
それを見ていたジョードは、子供の頃にのぞき見た、芸人一座の見せ物を思い出していた。
子供心に、怖がるよりも大げさすぎると笑ってしまうくらいに勢いよく、斬られた人形から血が噴き出したこと。
あれは何も大げさではなかったのだと知ったのは、もっとあとのことだった。
(こういうのは、何度見ても――)
(気持ちのいいもんじゃない)
広範囲に飛び散った血しぶきと、がくりと崩れ落ちた銀髪の剣士の姿を比べるように眺めると、ジョードはゆっくり、追悼の仕草をした。