09 少し酒でも
食欲がなくてもとにかく食べろと言い続ければ、少年は仕方なさそうに食事を摂りはじめた。
「……これ」
「どうした」
「これ、何?」
「ああ?」
ジョードは片目をしかめて、リダールの手にしているものを見た。
「ただの、挟み麺麭だろ」
小麦を練って発酵させ、焼成して作る麺麭に切り目を入れたり、薄く切ったものを重ねたりしてその間に具を挟んだ食べ物。非常に一般的だ。少なくともジョードにとっては普通のものだ。だがもしかしたら貴族の坊ちゃんは知らないのだろうか、とも思った。
「そうじゃなくて」
リダールは首を振った。
「この、挟んである具のこと。鳥みたいだけど、違うような」
「蛙だろ」
簡単にジョードが答えれば、リダールは固まった。
「蛙!? じょ、冗談でしょ?」
「何だよ。食ったことないのかよ」
「あ、ある訳……」
リダールは蒼白になって、口に手を当てた。ジョードは慌てる。
「好き嫌いはないって、言ったじゃねえか!」
「蛙を食べるなんて、思わなかったからだよ!」
少年としては、もっともだと思われる抗議をした。キルヴン家の食卓にのぼったことのないものである。
「リゼン名物だぜ? どこでも食えるっちゃあ、食えるけどな、ここからはアカラ池が近いから、安くて新鮮なのが」
「し、新鮮……」
少年は目を回しそうだった。
「何を騒いでいる」
ミヴェルが部屋に戻ってきた。
「お坊ちゃまは、蛙なんぞ食えんとさ」
「――それくらい、気を遣ってやれ!」
「俺のせいかよ!」
彼にとっては珍しくも何ともない食べ物だ。ミヴェルも、何も嫌な顔はしなかった。仮面は知らない。彼の食事の世話までは、ジョードの仕事ではない。ミヴェルの世話も仕事にはないが、これは好意だ。
「もう、屋台は店じまいだぜ。これしかないんだ。食えよ」
「でも……蛙……」
「味は鳥に似ている」
ミヴェルが口を挟んだ。
「私も食べ慣れてはいないが、原型を思い出さなければ、どうということはない」
「げ、原型」
その言葉は却って、少年の顔色を悪くさせる。
「原型なんて言われたら、余計に思い出すわなあ」
ジョードは笑った。
「だがな、明日の朝は屋台に寄る暇はない。出立の支度をしなけりゃならんからな」
〈縞々鼠〉だが何だかというふざけた名前の店に行って、結果を聞かなければならないのだ。
「俺は忙しいんだよ」
「勝手に忙しくしてるんじゃないか」
ミヴェルは指摘した。
「お前にそんな手間をかけろなんて言っていないのに」
「面と向かって痛い目に遭うのなんかご免でね」
げんなりと彼は言った。
「一度はエククシアのおかげで、二度目はリダール解放で逃れたけどな、三度目はないと言うか、次こそ」
殺されると盗賊は首をすくめた。
「あの」
リダールは蛙のなれの果てから目を逸らしてジョードを見た。
「手紙を読んでくれれば、タイオスは判ってくれますよ」
能天気な台詞を聞いた男は乾いた笑いを浮かべた。
(こいつはやっぱり、阿呆だな)
戦士が能天気な手紙を信じると信じている。だがそのことだけでもない。
(手紙は俺が持ったままなのになあ)
計画は大幅に変わったのだ。リダールの手紙でタイオスに追跡を諦めさせるというのはもともと少年の考えにすぎない。エククシアの命令は「殺すな」だが、「放っておけ」と言うよりは「追わせろ」であるかのようだ。仮面は戦士に恨みでもあるようだが、エククシアの指示には従った。タイオスを殺したい気持ちを抑え、振り回せ、足止めしろとジョードに命じた訳だ。
この時点で、手紙など何の意味も持たない。理由はどうあれ、彼らはタイオスをまだ先に――もしかしたらカヌハまで、連れたいからだ。
(俺は、俺の都合のために、何でもやる訳よ)
(あんまりヤバいことは避けたいが、やらざるを得なけりゃ仕方ない)
(甘やかされたお坊ちゃんのお手紙一通握り潰すことくらい、どうってことないんだが)
純粋にタイオスと、それからあろうことか誘拐魔を信頼している少年を見ると、良心の呵責とまでは行かないが、何だか気の毒にも思う。
「とにかく」
こほん、とジョードは咳払いをした。
「いまこれを食っておかないと、明日の昼くらいまでなんも食えんぞ。鼻をつまんででも食っとけ」
「ん……」
リダールは顔をしかめていたが、思い切ったように瞳を閉じると、本当に鼻をつまんで、麺麭にかじりついた。
(妙なところで素直だ)
殺されるための旅路に、体力をつけろも何もない。倒れられては面倒だし、弱りすぎて着く前に死なれても困るから、リダールに飯を食わせたいのだ。何も少年の健康を案じているのではない。
なのにリダールは、「好き嫌いをすると大きくなれませんよ」と言われた子供のように、頑張った訳である。
健気と言うか、やはりどこか足りないと言うのか。
(だが、だいぶ落ち着いたようだな)
(俺が戻ってきたときゃ、振り出しに戻ったみたいに無言だったからな)
ジョードが買い物とちんぴらの手配をしていた間、リダールは仮面の部屋にいた。何を話したものか、それとも話さなかったものか、死人みたいに顔色を悪くして押し黙っていた。ミヴェルはこちらの部屋にいて、どんな様子だったか知らないと言う。
「なあ」
ジョードはそっと、ミヴェルに囁いた。
「仮面は、あいつを脅したりしたと思うか?」
少年を、或いは戦士を殺してやるなどと言い立てる利点はないと盗賊は思う。脅しというものは効果的に使わなければ意味がなく、リダールは自分が殺されるかもしれないことに無頓着だ。戦士の身は心配しているようだが、ここでびびらせる意味はないのではと思った。
脅しつけておとなしくさせるのは常套手段だが、リダールは既に、いや、はなからおとなしいのに、これ以上びくつかせる必要もないのではと。
「どうして仮面殿がそんなことをしなければならない?」
ミヴェルは返した。しかし、ジョードの考えとは違った。
「彼はお前の不在に、わざわざお前の仕事を代行してくださっただけじゃないか」
「あー、はいはい」
俺が悪かったです、と盗賊は手を振った。
もっとも、仮面の男が少年をいたぶったとも限らない。あの無表情な仮面とひとつ部屋でふたりきりなどとは、リダールにはさぞかし怖ろしい経験だったろう。それを思えば、いまにも倒れそうでいたのも納得できる。
「少し酒でも飲るか」
ふと盗賊は、少年に尋ねた。
「え、ぼく?」
リダールはまばたきした。
「夢も見ないほど、よく眠れるぞ」
ジョードは何気なく、一般的な話をした。
「え」
だが少年は、とても不思議な話を聞いた、というような顔をしていた。
「夢も……」
「ん?」
「ください。お酒」
「え? あ、ああ」
てっきり「要りません」とくると思っていたので、ジョードは少し驚いた。
「夢を見たくないんです」
リダールは呟いた。
「そりゃ、仮面野郎が夢に出てきたら、嫌だわなあ」
そうした話かと思って、盗賊は笑った。
「よし、ミヴェルと飲むつもりで買ってきた一本があるんだが、いっちょ酒盛りでもするか」
「何が酒盛りだ。明日も早いんだと判ってるだろう」
ミヴェルは顔をしかめた。
「じゃ、飲まないのか?」
「……飲む」
むっつりと女は答えた。決まりだ、とジョードは指を弾いた。
「飲んで、いい気分になって、休んだら、明日からまた旅だ」
それからジョードは、自分でもちょっと妙な台詞だなと思いながらこう言った。
「仲良くやろうぜ」