11 もっと聞かせてくれ
夕暮れ刻の部屋に、赤い日射しが差し込んでいた。
広い部屋は空虚だった。大きな書斎机がひとつ、窓を背にしてそれに座る椅子が一脚。
壁には一枚の絵画もなく、細長い棚はがらんどうで、酒杯と酒瓶がふたつみっつあるばかり。ぱっと見たところでは、空き部屋のようだった。
だが、その部屋は空いてはいなかった。
部屋の主が、赤い窓を背にして、ただ一脚の椅子に腰を下ろしている。相対する人物は、卓から一ラクトほど離れた場所で立ったままだった。
それで、と部屋の主は書物に目を落としたまま、続きを促した。
「どうだった」
「そのような曖昧な問い方では、困るな」
訪問者は肩をすくめた。
「何を知りたいのか、具体的に」
「具体的か」
主はそこで書物を閉じ、訪問者を見た。
「お前の印象を」
「印象」
訪問者は繰り返し、考えるように両腕を組んだ。
「最初の印象は、『ただの戦士』。気にとめる理由が、さっぱり判らなかった」
「ほう?」
主は肩をすくめた。
「判らなかったか」
「そう。最初はな」
訪問者はうなずいた。
「だが、あの」
彼は右掌を上に向け、何かを握るような仕草をした。
「――護符」
息を吐いて、彼は首を振った。
「驚いた。あのようなものが、文献のなかにではなく、現実に存在すること」
「そこに興味を持ったのか」
「ああ。とても興味深い」
ゆっくりと、訪問者は掌を開いた。
「ヴォース・タイオス自身は、護符の力にほとんど気づいていない。戦士である故、仕方のないことだろう。だが、正直に言って」
彼は肩をすくめた。
「宝の持ち腐れ」
「言うものだ」
主は少し笑った。
「お前はもしや、自分であれば、例の護符をあますところなく利用できると考えているか」
「それは、判らない」
慎重に訪問者は返した。
「我が物としてみなければ」
「奪うか?」
「その必要はないだろう」
彼は答えた。
「護符は彼の手元に在って力を発揮した。私はそれを見ていようと思う。少し揺さぶれば、簡単に手放しそうな態度も」
「ほう?」
「売り払うなどして金に換える気はないようだが、助力の引き替えに護符を――という取引には、迷いながらも応じかけた」
「手放すことが何を意味するか、知らぬ故か」
「知らなかったようだ。だが、私は教えた」
「何」
「教えた。自らの意志で手放すことは、時に奪われるより危険であると」
「教えたのか」
またしても、主は笑った。
「お前が手にするも、容易であったであろうに」
「だからこそ」
訪問者は言った。
「危険を教え、いつか、自らの意志で手放すときがくれば――どうなるか」
「成程」
知ったように主はうなずき、にやりとした。
「そのときがくれば、私も見ていたいものだ」
「お前も?」
「その通り。私は、護符そのものには興味がないが、そのときに何が起こるものかは気にかかる」
「おかしなことを気にかける」
「それは、お互い様だ」
主は肩をすくめた。
「では、次だ。何か、力の発現はあったか」
「あった」
こくりと彼はうなずいた。
「一度は大きく、二度目は小さく」
訪問者は片手を上下させた。
「ひとつ目のそれは、攻撃的だった。だが同時に、攻撃の意志はなかった。牽制と感じた」
それから、と彼は続けた。
「ふたつ目のものは、ささやかだ。何かの効力を打ち消した。タイオスは二度目の出来事に気づいていない。面白いことに、彼は何も理を知らぬまま、護符の力を引き出している」
「いや」
報告を遮り、主は片手を上げた。
「彼の仕業ではない」
「何と」
訪問者は目をしばたたいた。
「彼でなければ、誰だ」
「それを成すのは」
ふ、と主は笑った。
「神秘――だ」
「これは、また」
訪問者も少し笑った。
「らしからぬことを」
「そうかな?」
主はかすかに首をかしげた。
「私がいつでも、説明のつけられぬことを探していると、知らずにいたか?」
その問いかけに訪問者は黙り、考えるように沈黙した。
「そうだな」
数秒ののちに、彼は答えた。
「お前はいつでも、神秘を探していた」
彼の返答に、部屋の主はにっと笑った。
「もっと聞かせてくれ。〈白鷲〉ヴォース・タイオスはお前にどんな依頼をし、どんな話をし、どんな行動を取ったのか。そして、〈峠〉の神は」
「欲をかくな」
訪問者は手を振った。
「全て、話して聞かせよう。そのために、私は出向いたのだから」
「生憎だが、いまは少し、出なければならない。話の続きはまたあとで聞かせてもらうことにしよう。それでいいな」
部屋の主は音もなく立ち上がった。
「――サング導師」
「仰せのままに」
優雅に宮廷式の礼をして、戦士の前で一度も笑わなかった黒ローブ姿の魔術師は、ふっと笑った。