10 神の騎士として
「殺すつもりはない」
「てめえが勝つことを前提にするなよ」
戦士は顔をしかめた。
「やったら負ける、死にたくないからやらない……と素直に言ってもいいんだぜ」
不敵に笑って見せた中年戦士だが、騎士は表情を変えなかった。
「殺し合いは望まない。もっとも、お前には私を殺すなどできないが」
「言ってくれる」
彼は乾いた笑いを洩らす。
「見せてやるよ。見たいならな」
タイオスは剣先をちょろちょろと動かして、エククシアを挑発した。
「熟練者の技術ってもんをよ」
〈幻夜の鏡〉の裏路地で見たエククシアの動きは速く、あのとき、対処は容易ではなかった。
(だが)
(ルー=フィンはもっと速かった)
銀髪の天才剣士に比べれば、どうということはない。
ただし、タイオスはルー=フィンに勝ったことはない。エククシアがルー=フィンよりいくらか遅かったところでタイオスの勝利を暗示するものではなかった。
「おら。こいよ。騎士様」
手招いた。エククシアは動かない。
「それなら、遠慮なく」
こちらからだ、とタイオスは地面を蹴った。
戦士が騎士を間合いに収めようとした瞬間、エククシアはばねでもついているように飛び退いた。かまわずタイオスは追う。
「見たかったんだろ!? 逃げ回ってちゃあんまり見せてやれないぜ!」
強く地面をけり、広刃の剣を大きく振る。いささか素人じみた動きだが、エククシアのような「腕力より技術」のタイプには、大振りを見せつけてやって怯ませる手法もある。
(こいつが可愛らしくびびるとは思わんがね)
ぶん、ぶん、と中年戦士の剣は繰り返し空を切った。騎士は舞踏でもしているように、ひらりひらりとそれをかわしていた。
「何だよ」
思わずタイオスは呟いた。
「やる気あんのか、やる気」
彼が言うのは、エククシアが剣の柄にすら手をかけぬままだからだ。
まさか本当に「見る」だけのつもりなのかと、いくらか拍子抜けたものを感じた。
(それとも)
はっと戦士は気づいた。
(路地裏の再現か?)
あのときはエククシアが剣を振るい、タイオスは抜かなかった。街なかという意識が強かったからだ。ここではそんな制限はない。だからこそタイオスは躊躇わず抜剣をしたが、エククシアはここで敢えて剣を抜かないことで、前日との均衡を取ろうとしているのではないか。
(――騎士の誇り、自尊心かい)
自分とて、剣を抜かずとも対抗可能なのだ、というそれは意思表示なのか。
(悔しいが)
(お前さんのが巧いぜ)
少ない動きで、かわしていく。彼の攻撃を見切っているかのように。
(上等だ)
(技術や才能の差だってなくしちまうのが経験ってもんよ)
これは本心と言うより、自分を鼓舞するための考えだ。若い才能には敵わない、などと思うことはしょっちゅうである。
だがいまは、物わかりのいい大人を演るときでもない。
騎士の誇りも何もない。
相手が剣を持たないのは丸腰だからではなく単に抜かないからだ。たとえタイオスが騎士道精神を持っていたところで、気に病むことはない。
シリンドルの若者たちであれば気にするかもしれなかったが。
「うりゃあああ!」
気合いを込めたかけ声とともに、戦士は間合いを詰めた。ひらりと騎士は逃げる。
「もう少し」
彼はうなった。
「やる気を見せろってんだ!」
いったい、何を考えているのか。六度目の邂逅でもってもさっぱり判らないまま。
だが、向こうの目論見などどうでもいい。いや、どうでもよくはないが、この場で考えあぐねることでもない。
タイオスは、相手も剣を抜いているものと考えることにした。殺らなければ殺られる。その精神に基づき、本気で、殺しにかかる。
(こいつを殺ってどんないいことがあるのか判らんが)
(少なくともひとつは、問題が減る)
ぐん、と戦士は速度を上げた。
勝負どころ。エククシアは素手のままでも、朝から働き通しの中年の体力が既に限界近い。
(ここで決めて)
(休んでやる!)
いまひとつ格好のよくない決意と共に、タイオスは最速級の一撃をエククシアの頭めがけて振り下ろした。
(捉えた)
戦士は確実に、そう思った。長年の経験が、既に勝利を告げていた。
だが、それは誤りだった。
「何」
タイオスが驚愕したのは、自信を持った一撃がかわされたためだけではない。
まるでそれを待っていたかのように、エククシアは音もなく細剣を抜いていた。
そのまま下方から彼の左腕に斬りつけたかと思うと、堰を切ったように反撃をしてきたのだ。
思い切り踏み込んでいたタイオスは、世辞にも華麗とか軽やかなどとは言えない、鈍重な動きで次撃を避けた。避けられただけ運がよかった。紙一重の差で、〈青竜の騎士〉の刃は戦士の髪をかすめた。寿命が縮まる思いがする。
(この野郎、いきなりやる気出しやがって)
戦士は必死で、騎士の攻撃に剣を合わせた。一方的な攻撃から一方的な防御へ。頭も身体もついていかせるので精一杯だ。
「唐突、じゃねえか!」
どうにか離れて戦士が怒鳴れば、騎士は涼しい顔をしていた。
「お前が剣を抜かなかった時間だけ、私も抜かなかった」
これで公正だ、などとエククシアは言葉を発した。
「まじで言ってんのか、んなことを」
訳の判らない奴だ、と思った。
それとも、当然なのだろうか?
青竜の、騎士。この男の選んだ規範なりの、正義。誇り。名誉。公正。そうしたものに基づいて、エククシアは行動をしているのか。
(んなこと)
(知るか!)
鋭い突きを剣で受け流す。
(くそ、巧いなこいつ!)
舌を巻く思いだ。
ルー=フィンほどに速くはない。それは彼が思った通り。
だがルー=フィンよりも、経験を積んでいる。
それはそうだろう。単純に年齢だけ見ても、エククシアはシリンドルの若者より七、八年は長い経歴があると見ていい。タイオスよりは十年以上少ない訳だが――。
タイオスの腕と経験、エククシアのそれら。
果たしてどちらが上であるものか。
じくじく、と左腕が痛んだ。エククシアの初撃が作った傷から、赤いものが飛び散る。
(無視だ!)
右手が痛んだ。
(――まずい)
(サングの術が)
(包帯が)
解けそうだと感じた。
いや、それ以前に、手が滑りそうになる。「痛みを感じさせない」サングの術は、右手に再び血がにじみだしたことを彼に気づかせていなかった。
(やべっ)
剣を落としたら。
カン、と金属音がして、剣と剣とが合わさった。激痛が走る。
(放すな!)
タイオスは心で叫んだ。
(くそっ、しっかり握れ、ヴォース!)
意志の力は、時に反射や本能を凌駕する。
戦士は右手に強く力を込め、剣を引くと同時に握り直した。
否、握り直した、つもりだった。
しかしその意図とは裏腹に、愛用の剣は、血に塗れた包帯と共に、彼の手から脱走を遂げていた。
くるくるくる、ときれいに宙を回るその姿が、奇妙にゆっくりと見えた。カン、と石畳にそれの落ちる音が、鐘の音のように大きく聞こえた。
エククシアの片頬が歪められた。
笑ったのだと、判った。
「安心しろ。殺しはしない」
その代わり、と騎士は言った。
「次の試練だ。頼みの剣を操る利き手を失っても、お前は追ってくるのか、どうか」
「何を」
血の気の引く思いがした。右手を斬り落としてやると、この男はそう言ったのか。或いはそこまで行かずとも、ハシンの右手を刺し貫いたように、使い物にならなくしてやると。
(こいつ、狂人か)
笑って、言うのか。彼の根性を見るために、腕を斬り落とすと。
(冗談じゃない)
逃げるか。だが、後ろを見せれば背中を斬られるだけ。昨日のように避け続けるのも、長くは保たない。
(昨日)
(昨日は、どうだった)
(もう駄目だと思ったとき)
(――ええい、神様になんぞ、頼りたかないが!)
〈白鷲〉の護符が、奇跡を再度、見せてくれぬものか。
情けなくも戦士は、気づけば神頼みをしていた。
(剣が握れなかったら)
(俺には、何もできない)
じりじりと、彼は後退した。エククシアは余裕たっぷりに、ついてくる。
騎士が細剣をかまえた。
(どう、くる)
右か左か。上か下か。タイオスは緊張の極限で後退を続けた。
無論と言おうか、足下を確認する余裕などなかった。
「っと」
街道に敷き詰められた石と、何もない地面の段差が、その足を取った。わずかに乱れた足さばきの、その隙をエククシアは見逃さなかった。
矢のような速さで、騎士が剣を繰り出す。避けようとすれば、今度は大きく均衡が崩れた。
路地裏の、再現。
タイオスは草むらの上に倒れ込んだ。
(やばい)
神よ――と、戦士が祈ったのは、それこそ反射のようなものだ。フィディアルともラ・ザインともヘルサラクとも、シリンディンとも定めず。
それは命の危機に願う、奇跡。
しかしそのとき、〈白鷲〉の護符が、再び不思議な力を放ったというようなことは、なかった。
その代わり、何かが風を切る音が、タイオスの耳に届いた。
「何」
異口同音に、タイオスとエククシアは声を出していた。
より驚愕を覚えたのは、どちらであったことか。
飛んできた短剣は〈青竜の騎士〉の左肩をかすめ、タイオスの頭部のわずか十数ラクト後方の大地に刺さった。
「何と情けない姿か。剣を落とし、地べたに倒れ込んで」
苦々しい口調で、新たなる声が言った。
「そんな間の抜けた死に方はよしてもらいたい」
顔をしかめて、剣士は首を振る。
「仮にも〈白鷲〉がそのような。〈峠〉の神の騎士として恥ずかしいとは思わないのか」
「お……」
タイオスは口をぽかんと開けた。このときは間違いなく、タイオスの方がエククシアよりずっと驚いていた。
「ルー=フィン! お前、何でここに」
驚愕の叫びに、銀髪の若い剣士は肩をすくめた。
「〈峠〉の神のお導きに決まっている」