06 キルヴン邸
リダール坊ちゃまがいない、とキルヴン邸はけっこうな騒ぎになっていた。
門番は伯爵の息子を見ていないが、戦士が泡を食って出て行ったという話を主人に伝えた。その際、リダールはどっちへ行ったかと訊かれたことも。
そうした辺りからキルヴンは、どうしてか息子が戦士の目を盗んで自ら出て行ったことと、タイオスが捕まえてくれようとしていることを理解した。だが、そこまでだった。
彼には息子の行動の理由など判らなかった。無論、判るはずもなかった。戻ってきたら詳しく聞かねばと考えるしかなかったが、リダールもタイオスも、太陽が高く昇る頃になっても戻ってこなかった。
「いったい、何があったと言うんだ」
苛々と伯爵は卓を叩いた。
「心当たりはないのか、ハシン」
治療を終えて帰邸した使用人は、リダールに何かあったのではと父親以上に顔を青くしていたが、そこは熟練、取り乱すような真似はしなかった。
「話をみな聞いていれば、判ったこともあったやもしれませんが」
悔しそうに使用人は言った。
「ただ、その」
彼は言いづらそうにした。伯爵は促す。
「……タイオス殿がリダール様に乱暴をして、それでリダール様はお逃げになり、戦士殿もまた逃げ出したのだと」
「何を言う」
驚いてキルヴンは声を大きくした。使用人は慌てて手を振る。
「いえ、私はそうは思いません。しかし、まことしやかにそのようなことを言う者もおります」
「使用人か。誰だ」
「それはご勘弁を。彼らとて、リダール様を心配する故に口にするのですから」
告げ口のような真似はできない、と初老の使用人は言った。判った、と伯爵はうなずいた。
「だが『彼ら』か」
キルヴンは、ハシンが「そう考える者はひとりではない」と示したことに顔をしかめた。
「私はタイオスを信頼する。彼のことはほとんど知らぬも同然だが、サナースを信じるように」
「彼がサナース様と同じ称号を持つためですか」
「それもある。しかしそればかりではない」
キルヴンは手を振った。
「彼は私の信頼をいいように使えたのに、何もしなかった。失敗も認め、報酬の話もせずにリダールを救うと」
伯爵は肩をすくめた。
「職業戦士にあるまじきよな。彼は玄人であるからこそ、金勘定には厳しくあるべきだ。情で流される護衛などでは、頼りない」
「ですがナイシェイア様は、そこを好まれた」
「サナースにもそういうところがあった。私は彼の友人であると同時に雇い主であった故、彼への特殊な依頼には全て賃金を支払った。だがサナースは、使用人の勘違いで三月ほど無報酬でも、気づかなかったからな」
思い出して彼は可笑しそうに笑いを洩らした。
「『飯と寝床はあるから気にしなかった』。そんなことを仰いましたね」
「無頓着すぎる男だった」
その笑みは、少し寂しげになった。使用人は主人の卓に、茶杯を置いた。
「タイオス殿にある、同じ無頓着さを好いていらっしゃるのですか」
「そのように言えば、貶めているかのようだが」
「いえ、このハシンは判ります」
使用人が頭を下げれば、伯爵は礼代わりにうなずいた。
「彼が〈白鷲〉でなければ、出会うことはなかった。このたびの事情に、私は異なる戦士を探さねばならなかっただろう。ほかの人物であればリダールを守れたとも思えない。同じことが起き、そこらの戦士ではそのまま逃げたろう。タイオスを雇うことができたのは、サナースの導きであるように感じている」
もしも当のタイオスが聞いていれば、過大な評価に顔をしかめたに違いなかった。護衛戦士とならず者は違う。「戦士」と名乗る者の多くがただの乱暴者であることは確かだが、契約を守るのはタイオスだけではない。
しかしそれは、何も正義感や倫理観によるものではないのだ。評判が落ちれば次の仕事に差し障りがあるからである。
一度結んだ契約は、よほどの破綻が生じない限り、守る。それは無難に生きるため。
報酬云々も、崇高な心から「金は要らない」などと思ったのではなく、交渉はあと回しだと考えただけである。だいたい、護衛対象をさらわれながらその救出にいくら出す、などと尋ねられる人間はずいぶんと厚顔無恥だとタイオスは考えていた。
それくらいの美意識は、「剣を振り回すだけの乱暴者」にだって存在する。
もっともキルヴンとて、タイオスが「騎士の名に相応しい、謙虚な人物」と思う訳ではない。上流階級に育った彼からしてみれば、やはりどうしても品がないと感じられることはあるし、サナースであればやらないような無茶もある。眉をひそめることも、皆無とは言えない。
しかし、リダールが懐いている。
息子の気に入りだからひいきにする、と言うのとも違う。伯爵は、戦士タイオスを信じて彼と南の故郷に戻った少年王子を思い出していた。
父親として情けないながら、リダールよりも年下のハルディールは立派な少年だった。若さ故の性急さはあったが、大人顔負けの賢さも持っていた。
彼はヴォース・タイオスを信じ、国へ戻って国を取り戻した。そして、戦士を〈シリンディンの白鷲〉と呼んだ。
かの少年王と同じ目が、我が息子にあれば――と思うのは親馬鹿、または過大な期待であるやもしれなかったが、ハルディールの信じた男をリダールも信じている、それはどことなく喜ばしいことだった。
「とにかく、根も葉もない噂はしないよう、たしなめておいてくれ。彼は私の雇い人のままだとな」
「はい、そのようにいたします」
「もしも彼が……いや」
伯爵は首を振った。
「信じているのに、後ろ向きのたとえ話などはいかんな」
もしタイオスが本当に逃げたのなら、などと言おうとした自身を戒めて、キルヴンは息を吐いた。
「信じて、待つ。タイオスのことも。リダールのことも」
「ただ、待つので」
ハシンはいささか不満そうだった。
「何か、坊ちゃまのためにできることはないのでしょうか」
「お前は、リダールがいつ帰ってきてもいいようにしていてくれ」
「では、旦那様は」
「――ロスムのところに行こうと思う」
声をひそめて、伯爵は言った。使用人は驚いた顔をした。
「まさか旦那様、ロスム閣下が何か関わりを?」
「さあ、どうであろうな」
キルヴンは渋面を作った。
「ただ、彼に話を聞く必要がある。昨日の、エククシアのことと言い」
「そうでもないでしょう」
と言ったのはハシンではなかった。キルヴンは目を見開き、ハシンは口を開けた。
彼らは、慣れていない。タイオスであっても、慣れているとは言い難い。たったいまのいままでいなかった人物が、突然、その場に立っているということ。
「な、何者だ」
「誰か! 侵入者が――」
「待て、ハシン」
顔を青くはしながらも、キルヴンはハシンが護衛を呼ぼうとするのをとめた。
「魔術師。よもや、タイオスの言っていた人物では? 確か……」
サング、と伯爵が呟けば、黒ローブ姿の魔術師はうなずいた。
「何と」
ハシンは目をしばたたいた。恐怖と激痛に苛まれた前日の記憶が彼の内に蘇り、彼に話しかけた魔術師の顔と目前のそれが重なった。
「これは、失礼をいたしました」
彼は丁重に謝罪の仕草をすると、頭も下げた。
「お恥ずかしながら、いささか混乱をしていましたようで」
使用人が包帯の巻かれた右手を左手で包み込めば、サングは何でもないことだと首を振った。あのような目に遭えば当然だと言うのだ。




