03 何の価値もない
つう、と涙が頬を伝った。
少年は慌てて、それをぬぐった。
(泣いて、どうする)
(泣くような、ところじゃない)
(ただ……)
心配だった。タイオスのこと。
怒っていると思っていた。あんなふうに逃げ出して。
リダールの護衛などもうやめだと、そんなふうに思うのが当然だ。怒って、ナイシェイアに辞意を伝えて、カル・ディアを去ろうとしていると。
彼が逃げたのだ。彼の意志で逃げたのだ。信頼するなと再三言われた騎士エククシアの言葉に従って。
なのに、助けにきてくれた。
こんな、何の役にも立たない自分を。
それがたとえ、報酬のためであったとしても、リダールはとても嬉しかった。そのタイオスが危ない目に遭うのが怖ろしくて悲鳴を上げた。十八の男として情けない限りだと自分で思った。だが何もできなかった。
(タイオス)
(無事でいるだろうか)
ミヴェルに手を踏まれ、馬車に乗り込めずに倒れたタイオスの姿は、リダールからすぐに見えなくなってしまった。仮面の男が少年を押しやったからだ。非力な彼は、そうされるままに床の上に転ぶしかなかった。
(全く――)
それから、仮面の男は呟いたのだ。
「全く、忌々しい男だ」
吐き捨てるような口調に、リダールはびくっとなった。
「〈白鷲〉の称号を得て、正義の騎士気取りか。ただの、金に汚い、流れ戦士が」
「タ……タイオスは、そんなんじゃ」
リダールは弱々しく反論を試みた。仮面の奥から、燃えるような瞳が彼を睨んだ。
「あれは、金のためなら何でもする男だ。余程、お前の父親からむしり取れる自信があるのだろう。単なる伯爵家に金貨数百枚はきつかろうが」
「き、金貨」
少年は目をしばたたいた。
「そんな大金、まさか」
「あれがどれだけ金の亡者か、お前は知らないのだ、子供」
「仮面殿は……あの戦士をご存知なのですか」
遠慮がちにミヴェルが尋ねた。
「――知っている」
うなるように、仮面は言った。
「私はあれに、恨みがある。次は必ず、殺すとも」
少年は、まるで彼を殺すと言われたかのように、心臓がどきりとするのを感じた。
(殺すだなんて)
(タイオス)
(きちゃ、駄目だ)
少年は祈った。
(ぼくのことなんて、どうでもいいから)
(こんな……何の価値もないぼくのことなんて)
劣等感は、常にあった。誰もが簡単にできることが、自分にはできない。
と言っても、自分を蔑むというのとは違っただろう。
リダールは卑屈なところのない、素直な少年だった。素直である故に、自分を客観視しすぎていた。
年若い少年少女が抱きがちな「自分は特別な存在である」という夢想は彼を訪れず、その代わり、体力にも知能にも秀でていない、平凡以下の人間であるという感覚を抱いていた。
理想が高すぎるせいでそこにたどり着かない自分を嘆くというのとも違う。客観的に見て、同年代の少年たちに劣っていると判定した。それをして、自分には価値がないと、少年はいつしかそうした前提を育ててしまっていた。
そこに、思いもしなかった言葉が投げかけられた。
どんな理由、目的があるのだとしても「必要だ」と言われたことへの誘惑は大きかった。
そして何より、いくら有り得ないことだとと言われても、彼は失われた友に帰ってきてほしかった。
(ごめんなさい、タイオス)
(ごめんなさい、父上、母上)
(ごめんなさい、ハシン)
彼は膝を抱えた。
(でも、ぼくのことなんて、すぐに忘れる)
(迷惑をかけてばかりのぼくがいなくなれば、きっとみんな、楽だ)
(シィナやランザックは、少し寂しがるかな)
(でも、彼らにはほかにも友だちがたくさんいる)
(ぼくのことなんて、忘れるさ)
膝の間に、少年は顔を埋めた。
「飲むか」
声をかけられて、リダールは顔を上げた。ミヴェルが、革の袋を差し出していた。彼は黙ったまま、ふるふると首を振った。そうか、と女は手を引っ込めた。
「のどが渇いたり、腹が減ったりしたら、言え。先はまだ長いからな」
「……どれくらい」
「何?」
「長いって、どれくらい」
「そうだな」
ミヴェルは考えるようにした。
「一旬は、かからないはずだが」
「そう」
気のないように少年が返すと、ガタン、と馬車が大きく揺れた。
「ジョード! 気をつけろ!」
ミヴェルが前方に向かって怒鳴った。
「石くらい、落ちてるさ! 俺のせいにするなよ!」
御者席から盗賊が怒鳴り返した。
「急いで逃げるのと、安全走行と、両方同時には行かないっての!」
その返答にミヴェルは少しうなって黙った。
女が、男の言葉にやり込められたのか、それとも「逃げる」という言葉に難色を示したのか、それはリダールには判らなかった。
「仮面殿」
どちらであったにせよ、ジョードへの反論を口にする代わり、ミヴェルは仮面の男に話しかけた。
「リゼンでの滞在予定は、いかが致しましょう。あの戦士は……」
仮面は何か小さな声でぼそぼそと応じた。釣られるようにミヴェルも声を落とす。リダールに、彼らのやり取りは聞こえなくなった。
(戦士)
(どうにかタイオスには、カル・ディアへ帰ってもらわなくちゃ)
(ぼくのために危ないことをする必要なんて、無い)
(どうにか父上に手紙を書かせてもらって、タイオスにぼくを助けたのと同じ報酬を渡してください、とでも綴ろう)
少年は、彼なりの決意をしていた。それを戦士が聞けば、どれだけ的外れだと思ったことか知れない。
(ぼくは、いなくてもいいんだ)
いつだって、彼はいてもいなくても同じだった。両親は優しいが、彼をもてあましている感じがあった。ハシンは彼を大事にしてくれるけれど、リダールがいなくなっても違う仕事をするだけだろう。
(でも)
(――フェルナー)
フェルナー・ロスム。彼だけが、リダールを見てくれた。
彼と一緒に遊んだ時間は、リダールの短い人生のなかで、最も幸せな思い出だった。
元気で、強くて、賢い友だちだった。彼はフェルナーが大好きだった。憧れていた。
もしかしたらフェルナー少年も、いずれリダールをつまらない友だちと考えて、別の友だちと仲良くなったかもしれない。
だが、そうなる前に、フェルナーは死んだ。
リダールにとって、いい思い出だけを残して。