06 彼自身の意志で
「のどが乾いたな」
「枕元に水差しがあったろ」
「うん。でも、あったかいものが飲みたい」
「……俺は使用人じゃないと判ってるよな?」
「も、もちろんだよ! タイオスに持ってきてくれなんて言ってないじゃないか。そういうのはいつもハシンが」
そこでリダールは黙った。タイオスはうなる。少年につきっきりの初老の使用人は、診療所に行ったきりだ。
「判ったよ。俺じゃ茶を淹れるのは無理だが……誰に言えばいいんだ?」
「だ、誰でもいいよ」
少年はぱちぱちと目をしばたたかせた。
そうか、とタイオスは応じたものの、叩き起こしてよい使用人の部屋など判らない。
「厨房に行けば、誰かもう起きてるかもしれんな」
戦士はリダールを手招いた。
「早めの朝食と行くか」
「早すぎるよ」
少年は笑った。
「それに、まだ誰も起きていないんじゃないかな」
躊躇いがちに彼はつけ加えた。
「ぼく、自分で淹れるよ。ハシンがやるのをいつも見ているから、上手にできると思う」
「無茶言うなよ」
湯と茶葉と茶杯と揃っていればリダールでもできるだろうが、それならおそらくタイオスでもできる。水を汲み、火を起こし、湯を沸かして、器を用意し云々、と具体的になると、お坊ちゃまには厳しいだろう。
「まあ、誰もいないようなら、我慢してあとひと眠りするんだな」
「うん……」
曖昧にうなずいて、少年は戦士と厨房への通路をたどった。
やはりと言おうか、いくら朝の早い料理人にもまだ早すぎる時間帯であり、厨房には人気がなかった。リダールは部屋に戻ることに同意し、彼らは一部の護衛兵を除いて誰も彼も眠っている館のなかを歩く。
「……ハシン」
ふと、少年は呟いた。
「あいつなら、大丈夫だ」
使用人を案じているのだなと考えて、タイオスは言った。
「医者がどんな治療をしたのかは知らんが、閣下もかかるような立派な先生に診てもらったんだろ。一日だけ様子を見て、すぐに戻ってくる。仕事を全部こなすのはまだ難しいだろうが、何、お前さんの話し相手くらいなら問題ない」
「ハシンの部屋、そこなんです」
少年は戦士の言葉に応じず、そんなことを言った。
「そうか」
としか言いようがない。
(何だかこいつ)
(さっきから、散漫だな)
目が覚めたなどと言っているが、寝ぼけているのだろうかとタイオスは思った。
「そうだ」
リダールは呟いた。
「ぼく、ちょっとあなたに見せたいものがあるんです。ハシンの部屋にある。取ってくるから、待っててください」
「何?」
今度はいったい何だ、と戦士は目をしばたたいた。その間にリダールは小走りになり、鍵のかかっていないハシンの部屋にするりと入り込む。
「何なんだ」
戦士は歩いてついていき、扉をのぞき込んだ。
「おい」
「見ないで! 内緒です」
「そうは言っても」
「すぐですから!」
「……何なんだ」
仕方なくタイオスは、部屋の外で待つ。
十秒、二十秒。がさがさ音がする。だが探し物は見つからないようだった。
一分、一分半。とんとん、とタイオスは指で自身の腿を叩いた。
いつしか部屋のなかから、何かを探っている音はしなくなっていた。
「おい、リダール」
返事はなかった。
「……リダール?」
そっと部屋をのぞいて、タイオスは目を見開いた。
「――おい!」
いない。
開け放たれた一階の窓から、朝の風がふうわりと吹き込んだ。
「な……」
彼は使用人の部屋に駆け込むと、窓の向こうを眺めやった。
いない。どこにも。
「な、何だ。どういうことだ」
自分こそ寝ぼけているのか、と戦士は思わざるを得なかった。
まさか、あのリダール少年が、彼から――。
(逃げた)
悲鳴などはなかった。たまたまハシンの部屋に誰かが忍び込んでいたとは考えづらい。魔術師であれば、不審な物音ひとつ立てず、リダール自身に気づかせずに、つまり抵抗をさせずに連れることができるかもしれなかったが、そうではないと感じた。
(蒸し暑いから、窓を)
(厠に)
(のどが渇いた)
(ハシンの部屋に)
不自然な言動が、思い出される。
間違いない。リダールは、彼自身の意志で、タイオスから離れようとしていた。
「何を考えてる!」
戦士は怒鳴って、窓枠を飛び越えた。
「リダール!」
彼は叫んだが、一分もあれば充分すぎるほど余裕で、裏庭の向こうにたどり着ける。裏門には護衛兵がいるが、伯爵の息子が外へ出ようとするのをとめる理由もないだろう。彼らはリダールが狙われているなど知らないのだ。夜着姿のままというのは不自然だが、いや、ハシンの上着くらい借り受けたのかもしれない。
(ずっと様子が、おかしかった)
走りながら、戦士は思った。
(なのに俺はサングとばかり話して、リダールと話さなかった)
(どうしたんだ、ともっと訊いてやらなきゃならなかったのか)
エククシアに何か吹き込まれたのだ。
死者が、戻ってくるというようなことを言っていた。タイオスもサングも一蹴したし、納得したようなことも言っていたが、内心では違ったのか。
(フェルナー、か)
(そんなに……会いたがってるのか)
タイオスはここで、それに思い至った。
何故、もっと早く気づかなかった。彼を子供と考えて蚊帳の外に置き、サングやキルヴンとばかり、話を。
「いいや、ガキだ」
クソ、とタイオスは罵りの言葉を吐いた。
「ガキだから、馬鹿なことをしやがるんだ」
サングの話をちゃんと聞いていれば、奴らの狙いは判ったはずだ。フェルナーが戻るためには「何」が必要かということ。だいたい、その話自体、ちっとも信憑性がない。
だと言うのに。
逃げたのだ。友人に会いたくて。
「馬鹿野郎! どこ行った! 戻ってこい!」
戦士の虚しい叫びが、早朝の裏庭に木霊した。