04 春の一日
以前には、世界はこんなふうではなかった。
以前には、何もかもが明るく鮮やかで、ただ笑っているだけで喜びが感じられた。
あれは花咲き乱れる春の一日のこと。
かすかな風に乗るように、それとも喧騒から逃れるように、一匹の蝶が庭園を飛んでいた。
大人たちの笑いさざめく声は遠い。館の前にある広場で行われている春の宴から少し離れて、小さな男の子がひとり、飾り彫りのされた木の長椅子に座っていた。
そこに、もうひとりの男の子が走って現れた。目を合わせて、ふたりは一緒にびっくりする。
「あ、あの」
挨拶をしようか、と座っていた子供は立ち上がった。
「どっちへ行った?」
やってきた子供の第一声はそれだった。
「え?」
「蝶だ。珍しい色の蝶を見た。追いかけてきたんだ」
真剣な顔で子供は説明した。
「どっちへ行ったか、見ていないか」
「蝶なら、あっちへ行ったと思う」
子供は指差した。
「でも別に珍しくなんかなかったよ。普通の白羽蝶だと思った」
彼が言えば、新来者は顔をしかめた。
「お前の暮らす町には、青い白羽蝶がいるのか?」
「いないよ、そんなの。白いから、白羽蝶と言うんじゃないか」
「白かったのか。それなら、違う。僕が見たのは」
子供は言葉をとめ、大きく目を見開いた。
「いた! あれだ」
「えっ?」
「あれだよ、ほら!」
「あっ、ほんとだ。青い!」
「よし」
子供は拳を握った。
「捕まえるぞ。こい!」
「え」
「お前、暇なんだろ? こんなとこでぼうっとして」
「まあ、うん、向こうだと、どうしていいか判んなくて」
「僕もだ。ちょうどいいひまつぶしができた。行こう」
子供は子供の手を引っ張った。
「お前、名前は?」
「リダール」
「そうか。僕はフェルナーだ」
走りながらフェルナーは名乗った。どこか可笑しい気持ちになって、リダールは笑いながらついていった。
知った姿を見つけると、彼は手を上げて走り寄った。
「フェルナー、ひさしぶり」
「ああ、リダール。元気だったか?」
「うん。ねえ、フェルナー。この前の蝶、わかったよ」
「なに?」
「オーズ大青蝶と言うんだって。本で見つけたんだ」
「ほんとか? どの本だ。僕も見る」
「コーギン侯爵のおやしきで見せてもらったんだ。こんど、フェルナーもお願いしてみるといいよ」
「聞かない名前だな。父上の友だちじゃないかもしれない」
「ふうん? ぼくの父上とは仲がいいよ。いつでもおいでって言ってくださったから、こんど、行ってみる?」
「……父上がゆるしてくだされば」
「ああ、ぼくも父上におゆるしはもらわないといけないけど」
「そうじゃない」
「え?」
「何でもない」
フェルナーは手を振った。
「蝶のことは、もういい。それよりリダール、ナイフを買いにいかないか?」
「ナイフだって? どうして」
「使用人が、ずいぶんかっこいいものを持っていたんだ。僕も欲しくなった」
「ぼくは、いいよ」
リダールは手を振った。
「なんだって? 嫌なのか?」
「ナイフなんて、危ないじゃないか」
「つかいかたをまちがえなければ、危なくなんかない」
フェルナーは自信たっぷりに言った。
「おそろいのを買おう。友だちになった記念だ」
「記念」
リダールは目をしばたたいた。
「……うん!」
笑みを浮かべて、リダールはフェルナーの提案に乗った。
「――これなんかどうだ。かっこいいだろう?」
「ぼく、よくわからないよ」
リダールは正直に言った。フェルナーは笑った。
「男なら、こういうものを持っているべきだぞ」
十歳程度の子供がそんなふうに言うのを聞きながら、店の人間は微笑ましく彼らを見ていた。
「ここの飾り、すごくいい。そう思わないか?」
「うん、それは思う」
リダールはうなずいた。
「ここに、石をはめ込んだらきれいじゃないかな。赤っぽい色の……」
「それ、いいな」
フェルナーは同意した。
「おい、これのここに石をつけられるか?」
おとなびて呼びつけるフェルナーに、店員は怒らず接した。
「できますよ。ただちょっと、料金がかかりますね」
「どれくらいだ」
「ナイフ自体とは別に、五百ほど」
「何だ、それくらいか」
貴族の息子はふんと鼻を鳴らした。
「大したこと、ない」
「ぼく、ちょっとお小遣いが足りないかも」
がっかりしてリダールはうなだれた。
「そんなにもらってないんだ。買い物はいつも、ハシンと一緒だし」
「気にするな。僕が買ってやる」
「ええ? だめだよ、そんなの」
「僕が誘ったんだから、いいんだ。おい、いつできる?」
「お急ぎでしたら、三日の内には」
「支払いはまとめて、ロスム伯爵邸のフェルナーに」
「だめだってば。あの、ひとつは……キルヴン邸のリダールに」
「足りないんだろう?」
「ハシンに言えば、だいじょうぶだと思う」
「友だちなんだから、気にするな」
「友だちだからこそ、気になるよ」
リダールは主張した。
「ふひつようなお金のやり取りは、むだな争いを生むんだよ」
「何だって?」
「父上が、そう言うんだ」
少し恥ずかしそうにリダールは言った。フェルナーはまばたきをして、それからにっと笑った。
「よし。それじゃ僕たちの間では、どうしてもっていうとき以外、金のかしかりはなしだ。その代わり、手助けはおしまない。何か困っていれば、かならず助ける。そういう……ええと」
フェルナーは両腕を組んで考えた。
「一緒……おんなじ……何て言うんだ」
「対等?」
思いついて、リダールは口にした。
「そう、それだ」
彼はぱんと手を叩いた。
「僕たちは対等だ。いいな、リダール」
「うん!」
目を輝かせて、幼い子供たちは約束を交わした。
――あの頃の世界は、こんなふうではなかった。
友人と一緒にいるだけで世界はとても光り輝いていて、何か残念なことがあってもすぐに忘れてしまった。
哀しみや憤りは尾を引かなかった。
友人と笑っていられた間は。
いま、彼を取り巻く世界は灰色だった。色はなく、笑いや喜びは続かない。
彼はあの日からずっと、墨色の王国にいた。