01 じゃあ俺が言おう
こんなに沈黙が痛いこともない。
ジョードは重い空気に長らく耐えていたが、ついに限界を覚えてばしんと卓を叩いた。
「なあ、ミヴェル」
女の顔を上げさせようとしたが、ミヴェルは人形になったかのようにぴくりともせず、膝に置いた自身の手の辺りをじいっと見つめていた。
「おい、ミヴェルってばよ」
不自然なほど大きく、そして明るい口調で男は女を呼ぶのだが、やはり反応はない。ジョードはうなった。
いかつい戦士に獲物を取り返されたあと、ミヴェルは彼女を抱え上げた彼の肩やら頭やらをばしばし叩いては放せ下ろせと叫び続けた。どこから見てもジョードがミヴェルをさらっているように見えてしまい、盗賊は女を下ろさざるを得なかった。だがリダールを取り戻そうと駆け出しかねない彼女の手首をしっかと捕まえては、やはり悪い男のように見えた。
幸いにして彼らの叫び合いはせいぜい痴話喧嘩とでも思われたらしく、町憲兵を呼ばれる事態にはならなかったものの、ずいぶんと注目は浴びた。
しばらく行けばミヴェルももうリダールを追えないと諦めたが、まるでジョードを仇のように睨んで、それからずっと黙っている。
(それにしたって)
(あれから、一刻は経ってるってのに)
子供みたいな意地を張っている。最初はジョードもそんなふうに思ったが、宿屋のひと部屋に落ち着いてからは、そうではないかもしれないと考え出した。
(俺に怒ってるだけじゃない)
(びびってる)
もともと白っぽいミヴェルの肌はいつもに増して白く、唇は青ざめるほど。酒を勧めても瓏草を勧めても、うんともすんとも言わない。
座らせようと肩に触れたとき、彼女の身体が小刻みに震えているのが判った。
時間をおけば震えは治まったようだが、顔色の悪さはいかんともしがたいまま。
ミヴェルはエククシアの、或いは仮面の、それともライサイの叱責を怖れている。
(何で、そこまでびびるのか)
ジョードには判らなかった。彼は、彼女のことを何も知らない。
知っているのは、彼女がライサイに畏敬の念とでも言うものを覚えていること。
盗賊はまだ、ライサイという人物に会っていない。「ライサイ様のご指示だ」と騎士も仮面も彼女も口を揃えてそう言うが、それが何者なのかジョードは知らない。すごい魔術師の末裔なんだというのがミヴェルの説明だったが、あまり説明になっていないように思う。
「なあ、ミヴェル」
無駄を承知で、彼は繰り返し、彼女に話しかけた。
「何か食おうぜ。俺ぁ、腹が減ったよ」
「……しろ」
ようやく、返答があった。
「うん?」
「好きに、しろ」
すげない答えだが、無反応よりはずっといい。ジョードは胸をなで下ろした。
「外に出る気にはならないみたいだな? 何か買ってきてやろうか」
返答はなかった。ジョードは話を続ける。
「この前の汁麺、美味かったよな。でもあれは店で食うのがいいし、割包でも買ってくるか?」
「好きにしろ」
ミヴェルは繰り返した。
「私に、かまうな」
「そう言われてもなあ」
ジョードは頭をかく。
「気分が暗くなるのは、腹が減ってるからかもしれんぞ。美味いものを食うと、それだけで幸せになったり」
「するか! 馬鹿かお前は!」
怒鳴り声がきた。ジョードはにやりとする。
(こいつは、こうでなけりゃな)
「幸せまでは行かんでも、ちょっとはましな気分になるさ。ほら」
盗賊は女の手を取ったが、すぐに振り払われた。
「飯は要らない」
「嫌だと言うなら食べなくてもいいさ。でも、ちょっとつき合えよ。見張る相手もいないんだし、一緒に歩いても」
「見張る相手がいないのは、誰のせいだ!」
ミヴェルは声を裏返らせて、ばんと卓を叩いた。
「お前が……」
「はいはい。そうそう。俺です。俺が悪いの。ライサイ様のお叱りは俺が受けるさ、あんまり心配すんなよ」
「馬鹿なことを言うな」
「何だよ。自分の失態を認めるのが馬鹿なことなのか」
「ライサイ様は、お前のことなど何とも思っていない。お前の失態は、私の失態だ」
「うん?」
ジョードはまばたきをした。
「それはつまり、こういうことか。ライサイ様は、俺なんかが口を利いてもらえるお人じゃないと」
「そうだ」
「……そこで認めるなよ」
男は渋面を作った。
「そんなお偉いさんなんて、いるもんか。まあ、王様だとでも言うなら判るが」
いくら何でもそんなことはないだろう、とジョードは続けた。
「国王と言うのではないが……」
ミヴェルも認めた。
「私には、それにも等しい方だ」
「へえ」
「――馬鹿にしているのか」
「違う違う」
驚いたんだよとジョードは言った。
「これまでそんな話、してくれなかったからな」
盗賊は、外へ行こうと繰り返すのをやめて、ミヴェルの向かいにあった椅子をわざわざミヴェルの隣に運ぶと、彼女のすぐ近くに腰かけた。
「話してくれよ」
「……何を」
「だから。ええと」
どう言ったものか、と彼は迷う。
「あんたのこと」
「私の?」
思いがけない言いように、ミヴェルは目をしばたたいた。
「私のこととは、どういう意味だ」
「だから。ええと」
男は手入れをしていないぱさついた茶髪をかいた。
「何でライサイに……ライサイ様についてんのかとか。いや、それより遡って。あんたの、故郷とかさ。両親とか、兄弟とか」
「意味が判らない」
だいたい、とミヴェルは首を振った。
「そんな話をして、何の益がある」
「あんたのことが知りたいんだよ」
ジョードは答えた。
「最初は、まあ、あれだ。金をもらえて、あんたみたいな美人の顔を見ていられるならそれでいいか、くらいのつもりだったんだが」
何気ない調子で言えば、ミヴェルの眉がつり上がった。
「馬鹿にしているのか?」
「何?」
「美人、などと」
「これは褒め言葉って言うんだ」
どこをどうしたら馬鹿にしていることになる、とジョードは呆れた。
「言われたことないか?」
「ある訳がない」
「じゃあ俺が言おう」
ジョードは片目をつむった。
「あんたは美人だ」
その言葉に、女は顔を赤くしたりはしなかった。やはり、ジョードが彼女を馬鹿にしているのだと思う風情で、むっつりと黙っている。男は少し笑った。
絶世の美女、とは言えなかろう。いつもしかめ面で文句ばかり、それが出ないときはむっつりと黙るか怯えている、そんな様子はむしろ彼女の美しさを引き下げているくらいだ。
だが均整の取れた身体と、大きくはないが形のいい胸は男心をそそるし、たまに見せる笑顔は男をどきりとさせる魅力がある。と、少なくともジョードの感覚ではそうしたところだった。
実際、いまやジョードは、ミヴェルが仏頂面をしていても美人だと思うようになっている。
これは、彼が彼女に惚れているということになるのかもしれなかったが、口説いてどうこう、という段には進まなかった。ジョードはこれまでは女に惚れれば甘い言葉も発すれば贈り物もして気を惹き、陥としたり振られたりしてきたが、不思議とミヴェルに対してそうする気にならなかった。
彼女のことをよく知らない、というのもあったかもしれない。
一夜の恋を語るのであれば特に互いを知る必要もないが、なまじ半年近いつき合いがある。
なのに、知らない。