09 騙した訳でもないですから
「リダール・キルヴン」
少年の惑いを読み取ったかのように、騎士は的確に続けた。
「お前が必要だ」
「――クジナ趣味にしたって、礼儀がなってねえな!?」
バタンと遠慮会釈のない音を立てて扉が開いた。そこでは、この世でいちばん不味いものを食べたような顔で、戦士が剣を抜いていた。
「タイオス!」
「おうよ」
少年の安堵したような声に、戦士はにやりとした。
「待たせたな。正義の戦士、参上だ」
それからタイオスは笑みを消し、エククシアを睨んだ。
「二度も三度も、騙されてなるもんかね」
「けっこう。闘争心は悪いものでもない」
エククシアは淡々と、タイオスの登場は少しも意外ではない、とばかりに応じた。タイオスは唇を歪めた。
「聞こえたぞ。一緒にこいだの、お前が必要だの、口説いてるんじゃあるまいし」
お前はクジナか、と戦士はまた言った。
「――聞こえた、と?」
エククシアは片眉を上げた。
「聞こえたはずもない」
「まあ、普通はな」
「助力者が、ここに」
タイオスの背後で、黒ローブを着たサングが挙手をした。
「二度目があるとは、正直、思ってなかったが。お前が……お前たちがその気なら、きちんとつき合ってやらあ。いいか」
タイオスは、広刃の剣を突きつけるようにかまえた。
「これで二勝二敗か?」
リダールを拐かされたことと騙されて眠らされたことで二敗、護符の助けがあったとは言えエククシアを退けたことと少年を取り戻したことで二勝、と彼は実に勝手な数え方をした。
「五分だな。まあ、次も俺が勝つがね」
挑戦的な台詞に、騎士は何も答えなかった。その代わり、エククシアは――笑った。
「何だ、てめえ」
タイオスは真面目に剣をかまえ直した。
「やろうってんなら」
いつでもきやがれ、と言うより早く、エククシアは指を弾いた。ぱちん、と嫌味なほどきれいな音がした。
「――ライサイ!」
鋭く、エククシアは声を発した。
「何」
タイオスは警戒した。
かと思うと、〈青竜の騎士〉の姿はそこになかった。それは風が靄を払うに似て、晴れ渡ったあとは霞がかっていたことが夢であるかのような。
「すみません」
続けて、サングが言った。タイオスは目をしばたたく。
幻であったかと思うほど、エククシアは気配も残さず、一瞬でかき消えていた。
いったい何が起きたのかと戦士は一秒考え、どうやら魔術師は向こうさんの魔術をとめられなかったことを謝ったらしい、と理解した。
「いや、まあ、リダールが無事なんだからいいさ」
戦士はそう言って肩をすくめた。
「ですがそちらの方は、あまりご無事とも」
サングは冷静に言いながら、ハシンに向かった。使用人は苦悶の表情を浮かべ、息も絶え絶えにあえいでいた。
「ハシン」
タイオスが渋面を作る間に、サングは彼に近寄るとその視線を受け止めた。
「しいっ、静かに。目を閉じて。いま、楽になります。私を見て。――ほら」
ぱん、と魔術師が手を叩くと、使用人の身体がくずおれた。体重がかかればその手はますます無残なことになったろうが、サングはきちんとハシンを支えた。
「タイオス殿。抜いてください、これ」
「ああ、任せろ」
顔をしかめて、タイオスは荒仕事に向かった。熟練戦士にとっては、どちらかと言えば慣れた光景だ。無感動に見ていられると言うほどではないが、目も当てられないということもない。
素人は、かすったような傷でもぎゃあぎゃあわめく。それは仕方ない。むしろ当然だ。だがハシンは気丈にも、或いは呆然として、結果としては賢いことにほとんど身動きせず、じっと痛みに耐えていた。
しかし、刺さった刃を引き抜かれるなどということになれば、タイオスだって相当きつい。刺された部位や深さによっては、痛みに耐えきれずに死んでしまうことも有り得る。それを避けようと、魔術師は魔術でハシンの意識を落とし、そこで戦士の出番という訳だ。
「リダール、見るなよ」
念のため「お姫様」に警告を発してからタイオスは壁に不気味に留められた小刀を抜いてハシンの手を解放した。すぐさま血が飛び散ったが、サングが術でそれを押さえ込む。
(こいつ、場慣れしてるな)
タイオスはサングを見ながら、こっそりと思った。
以前につき合いのあった魔術師のなかには、こちらがいちいちああしろこうしろと指示しなければならない者もいた。だが魔術で何ができるものか、タイオスら戦士は完全に把握している訳でもない。できないことをやれと言って「できません」で終わるのならまだいいが、できることを指示できなかったために悪い事態を迎える可能性だってある。
魔術師が酷い出血を一時的にとめることができるというのは、いまではタイオスも知っている。魔術師ならば誰でも可能なのではなく、そうした技を持つかどうかは個人の能力如何ではあるが、タイオスが「できるか」と問うことも「やれ」と命じることもないままで、サングはそれをした。
(銀貨三百以上の能力があるってのは、はったりじゃないかもな)
サングは見栄を張る気質には見えないが、この魔術師の術を目にしたのは初めてである。少なくとも口先ばかりではない。
「ハ、ハシン!」
少年は戦士の忠告に従って生々しい瞬間からは目を背けていたが、魔術師に抱えられてぐったりとしたハシンの姿に悲痛な声を出した。
「タイオス、ハシンは、ハシンは大丈夫!?」
「ああ、大丈夫だ。痛みで苦しませることのないよう、この魔術師が意識を失わせただけ。出血も少しで済んだし、すぐに治療をすれば傷跡も残らない」
これはいささか言い過ぎだった。完全に手を貫通したのだ。運が悪ければ、指が動かなくなる。最上だって、酷い傷跡が残るだろう。
だがいまは、リダールをなだめねばならない。
「なあ、リダール」
ゆっくりと寝台に歩み寄りながら、タイオスは声をかけた。
「落ち着けよ。落ち着いて、聞かせてくれ」
何があった、と戦士は問うた。
「エク、エククシア殿が」
それでもまだ敬称がつくのだな、と戦士は少し顔をしかめた。
「彼が突然、この部屋に現れて、ぼくを……連れて行こうと」
「まさかとは思ったが、本当にやるとはな」
サングの話に不安を覚え、すぐさまキルヴン邸に戻ったのは大正解だったという訳だ。いや、リダールをひとりにすべきではなかった。少年が無事だったとは言え、ハシンに怪我をさせたのは自分の読みが甘かったせいだなと戦士は自戒した。
「力ずくって訳じゃ、なかったようだが」
彼は確認するように尋ねた。騎士が無理矢理リダールをさらおうとしたら、少年に抵抗できたとは思えない。先ほどのように魔術を使われればなおさらだ。
「ええ。その……」
リダールは視線をうろつかせた。
「おかしなことを言っていました」
「どんな」
タイオスが引き続き尋ねようとしたとき、ようやく異常を知った護衛兵やほかの使用人らが部屋の外に集まりだしていた。
「何ごとだ」
「ハシン!」
「いったい、どうしたんです」
「あー」
タイオスは頭をかいた。
「俺が襲った訳じゃないぞ」
まさか疑われるとは思わないが、館のなかにはエククシアの作戦通り、タイオスを役立たずのごろつき戦士だと考える者もいる。伯爵の息子と、彼を守ろうと頑張った使用人を助けたが、魔術でやってきた侵入者は魔術で逃げた、などという話を信じてもらえるかどうか。
「何よりまず、彼を医者に」
サングが言った。黒いローブの不吉な姿にびくりとした使用人もいたが、護衛兵は幸いにして偏見を持たず、判ったとうなずいてハシンを抱え上げた。
「術で血止めをしてありますが、包帯で押さえているのと大して代わりありません。傷口には気をつけて」
魔術師はそんな注意事項を口にし、兵士とハシンを見送ると使用人たちを見回し、状況を簡潔に説明した。それは事実に即し、かと言ってあまり詳細には触れない、タイオスが考えたのとほぼ同じ内容だった。戦士は、使用人たちがどこまで信じるものかと顔をしかめてそれを見ていたが、意外なことに彼らは胡乱な顔ひとつ見せず、納得した様子でサングやタイオスに会釈までして部屋をあとにした。
(……いや、意外でもないか)
「サング」
「何でしょう」
「魔術、使ったか」
「ええ」
さらりと魔術師は認めた。
「騙した訳でもないですから、咎められる謂われはないものと信じます」
案の定サングは「魔術師なんて不吉だ」「信じられるはずはない」「この戦士も信用がおけない」そうした不信感を魔術で押さえ込んで、事実を認めさせてしまったらしい。
(便利だな)
(便利だが……)
(いささか、怖いな)
タイオスは正直なところを思った。
サングはいま、事実を事実と認めさせただけだ。だが、やろうと思えば魔術師は、とんでもない出鱈目であっても、太陽が東から昇るのと同じように当然のことだと思わせる術を振るえるのではないか。
何もサングがタイオスにそうすると思っているのではない。彼がいま警戒するのは、エククシアの傍らにいたあの仮面の男だ。