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墨色の満月―シリンディンの白鷲―  作者: 一枝 唯
第2話 再会 第1章
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07 墨色の王国

 消化のいい食事をし、香りのいい風呂に浸かったリダール少年は、寝心地のいい寝台の上に横になると、ほうっと息を吐いて瞳を閉じた。

(ああ……疲れた)

 丸一日、経っているのだと言う。眠らされていた少年には時間の経過がよく判らず、せいぜい数刻のような気分でいるのだが、さらわれたのは夕刻で、いまも夕刻だ。ぐったりしているのは薬のせいだけではなく、丸一日、何も口にしていないせいもあるのだろう。

 貧しい下町の子供であれば、珍しい話ではない。だが伯爵令息は空腹などというものと無縁だった。夕飯前になれば腹は減るが、すぐに満たされるもので苦しんだことはない。

 空腹や疲労による目眩、などというのは初めての体験だった。慣れた自室で横になるというだけのことが、こんなに幸せとは。

(きっと、タイオスが助けてくれると思った)

 彼はごろりと、寝返りを打った。

(タイオスがいなかったら、ぼくは北だかに連れていかれるところだったんだな)

(北なんて嫌だなあ。寒いんだろうなあ)

 どこか的外れなことを考えながら、リダールはまた寝返りを打った。

(それにしても、タイオスって格好いいなあ。ぼくは、あんなふうにはなれないけれど)

 タイオスが聞けば、最初から諦めるなと言うかもしれなかったが、リダール少年は「諦めている」というのとは違った。「伯爵になる」ことに不安を覚えても、「戦士になる」ことは、彼の選択肢にないだけなのだ。

(でももし)

(もしもぼくに、あんな力があったら)

「――フェルナー」

 ふっとリダールは呟いた。

「リダール坊ちゃま?」

「うわっ」

 少年は心臓を跳ね上げさせ、一緒に上半身も跳ねさせた。

「び、びっくりした。ハシンか」

「お休みでしたか、申し訳ありません」

 眠っているところを起こしては悪いと思ったのだろう、ハシンは戸を叩かずに入ってきていた。主人によっては礼儀がなっていないと怒鳴りつけるところだろうが、リダールにそうした気質はなかった。

 もっともハシンも、キルヴン伯爵の私室に許可なく入るようなことはしない。これは、彼もまた「坊ちゃま」を小さな子供のように思っているという証左であったろう。

「ううん、大丈夫。横になってただけだから」

 少年は首を振った。

「何?」

「お茶と焼き菓子(サラエ)をお持ちいたしました」

「ああ、有難う」

 寝台を椅子のようにして腰掛け、素足をぶらぶらさせながら、少年は使用人が卓上に茶杯や皿を並べるのを見守った。

「クロツの作る焼き菓子が食べたいな」

 リダールはキルヴンの町の料理人(テイリー)を思い出しながら呟いた。

「彼の菓子は、絶品だ」

「こちらの料理人も、なかなかですよ」

 諭すようにハシンは言った。

「キルヴンも田舎ではありませんが、やはり首都の方が洗練されていますね。わたくしは不調法ですから慣れぬ香草などは苦手なのですが、ナイシェイア様は好いていらっしゃる」

「ああ、この前の食事のことだね。ぼくもあまり香りが強いものは苦手だ」

「では、茶は換えましょうか。穏やかに眠れるからと、香茶のご用意をしましたが」

「香茶なら好きだ。淹れて」

 少年は促し、使用人はうなずいた。

「ねえ、ハシン」

「はい、何でございましょう」

「この一日のことなんだけれど……」

 彼が呟くと、ハシンは眉をひそめた。

「本当に、ご無事で何よりでございました。このハシン、坊ちゃまに万一のことがあればと、食事ものどを通りませんでした」

「ごめんね、心配をかけて」

「とんでもありません。坊ちゃまは何も悪くなど」

 憤然としてハシンは言った。

「悪いのは、誘拐などという怖ろしい真似をしでかす悪党たちです」

「よかった」

「は?」

「お前も、タイオスを悪く言わないね。ぼくのせいでタイオスが肩身の狭い思いをしているようだったらどうしようと思ったんだ」

 リダールはほっとした。ハシンは穏やかに笑む。

「彼は〈白鷲〉と呼ばれる、サナース殿の後継なのでしょう。そのことだけでも彼を信じられます。僭越ながら、閣下もご同様かと」

「シリンドルの話を聞いた」

 リダールは目を輝かせた。

「タイオスは〈シリンディンの騎士〉を褒めてばかりだったけれど、彼もまた、同じ国の騎士なんだ」

「リダール様はリダール様で、そうしてタイオス殿をご信頼なさっている。ハシンはそうした方を悪く言うなど、いたしません」

「タイオスは、強くて、優しい。ぼくを馬鹿にしたり、無視したりしないで話してくれる。すごく嬉しいんだ」

 にっこりと言ってから、リダールは視線を落とした。

「――帰りたいな」

 彼は呟いた。

「キルヴンに帰りたい。怖い目に遭ったからじゃない。ぼく、カル・ディアは、あんまり好きじゃないんだ」

「坊ちゃま……」

「女子供みたいだとからかわれるのなら、まだいい。でも近頃、こっちの人たちはみんな、ぼくがいないみたいに話をするから」

 貴族の息子たちは、キルヴン伯爵の息子をいたぶるような真似こそしなかったが、話し相手にすらならないと、無視を決め込んだ。勇気を振り絞って話しかけても、聞こえないふりをされた。次第に少年は何も言わなくなり、夜会や茶会に出向いても、深窓の姫君よりも「壁の花」になっていた。

 故郷の町では、そんなことはなかった。ナイシェイアの息子だからだとしても、みんな彼に優しくしてくれた。市井の子供たちだが、友だちもいる。シィナにランザック、オーウィン。

 彼らは、リダールがいなくても楽しくやっているだろう。だがリダールは、カル・ディアで独りだ。

 早く、キルヴンに帰りたかった。

 父親には、そんなことは言えない。がっかりさせてしまうと判っているからだ。行ってきます、と笑って出かけるようにしている。ハシンにだけ、リダールは本当のことを言えた。

「フェルナーのことが、懐かしい」

 少年は言った。

「このカル・ディアで、彼だけは、ぼくを笑ったりしなかった」

 フェルナー・ロスム。ある宴の席で偶然、彼と出会った。同じ年、同じ日に生まれたと知ってからは、誰より仲良くなった。

 フェルナーが生きていた頃は、リダールもカル・ディアへくるのが楽しみだったものだ。また彼と会える、一緒に遊べるだろうと。

 だが彼は、十二歳の誕生日をリダールと一緒に祝おうとキルヴンへやってくる途中で、事故に遭った。リダールはしばらくそのことを知らず、次にカル・ディアへ行ったときに周りから聞かされた。何でもフェルナーは、父親と喧嘩をして、ひとりでキルヴンへ向かったのだという話だった。

 リダールは酷く衝撃を受け、何日も食べ物がのどを通らなかった。あのときはサナースが慰めてくれたが、その彼も一年と経たず、ナイシェイアを守って逝ってしまった。

 何だか、自分が親しくなった人間はみんな死んでしまうような気がして、怖い気持ちになったのを覚えている。

 もちろん、そんなことはないと判っている。キルヴンにいる友人は誰も死んでなどいないし、彼に優しいハシンだって元気だ。

 ただ、カル・ディアにはいい思い出がない。何も。

「ここは、墨色の王国みたいだ」

 少年は呟いた。

「ハシン、知ってる?〈墨色の王国〉のお話」

「はい、存じております」

 使用人はうなずいた。

「言葉や表情や、色を持たない人間たちの暮らす『墨色の王国』に捕らわれた子供の、冒険物語ですね」

「うん」

 リダールはうなずいた。

「ぼくにとって、フェルナーのいないカル・ディアは墨色の王国……ううん、そうじゃなくて、ぼくが墨色の王国の住人になったみたいな、そんな気持ちがするんだ」

 笑いさざめく人々の間で、自分だけが異質。城を訪れるたび、リダールはそう感じていた。

「殿下の前で、ロスム閣下がぼくを指名してくれたときは、嬉しかった。久しぶりに、世界に色が付いた気がした。閣下はもう、フェルナーとのことを怒ってないのかなって思った。でも、そうじゃなかったんだね」

 エククシア。捕らわれていた場所で聞いた声は、〈青竜の騎士〉のものに間違いない。

 タイオスはみなまで言わなかったが、ロスムがナイシェイアを嫌っているというのは、そういうことだったのだと判った。彼を危険に追いやって、彼が死んでしまってもいいと、いや、むしろ死んでしまえと思っていたのでは。

「もう嫌だ」

 少年は呟いた。

「こんなところに、もういたくない」

「……ナイシェイア様に、お話しいたします」

 使用人は言った。

「坊ちゃまがキルヴンへ帰りたがっていらっしゃること。何、王子殿下へのご挨拶も済みましたし、許可をお出しくださるでしょう」

「ハシン」

 彼は顔を上げた。

「ごめんね、ハシン。有難う」

「いいえ。リダール様のお望みのようにするのが、ハシンの務めにございます」

「ねえ、でも帰る前に、フェルナーのお墓参りに行きたいな」

 突然、少年は言った。ハシンは驚いた顔をする。

「ですが……」

「父上が、駄目だと言ったことは覚えてる。ロスム閣下の機嫌を損ねるからと。でも、こっそり行けば判らないよね?」

「それは、そうかもしれませんが」

 ハシンは戸惑った。

「何故、いま?」

「ええと……」

 リダールは頭をかいた。

「フェルナーの名前を聞いたんだ」

「誰にです?」

「あ、いや。聞いたような気がしただけ。たぶん、気のせいか聞き間違いだけど」

 少年は手を振った。


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