03 忠告をしましょう
タイオスは唇を噛み締めた。
こんなに、この護符を手放したくないと感じるとは、自分でも意外だった。
だが当然かもしれない。
若い頃に夢見たように、彼を英雄と呼んだ人々のいる国との、それはつながりであるのだ。
手を差し出したタイオスに、サングは眉をひそめた。
「タイオス殿。手を開いていただきませんと」
ゆっくりした口調で、魔術師は静かに言った。
「そう、だな」
タイオスは、ただ手を開くというだけのことに、とてつもない努力を要した。
(少しの間だ)
(手放す訳じゃない、手放す訳じゃ)
こんなにも、この白い石を大事に思っていた自分に驚いた。親の形見ででもあるかのように、胸が痛む。
「では、拝見いたします」
魔術師は細い指を伸ばし、そっと飾り紐を持ち上げた。
「……見事なものです。想像以上だ」
〈白鷲〉の護符を手にすると、サングは深く息を吐いた。それは嘆きのものではなく、感動によるもののようだった。
「けっこうです、タイオス殿」
魔術師はうなずいた。タイオスはうつむいた。
手放してしまったら、もう、戻ってこないような、気がする。
それは何と嫌な感覚であったことだろう。
「どうぞ」
そこで魔術師は、白い大理石を――戦士に差し出した。
「……ん?」
タイオスは目をぱちぱちとさせた。
「実に素晴らしいものです。感動いたしました」
どうにも淡々とした調子で、サングは言った。
「はあ」
中年戦士は間の抜けた声を出してしまう。
「手を出してください。あなたのものですから」
「そりゃ、まあ」
やったつもりはないが、と思いながらタイオスは、再び彼の上に乗せられた護符を軽く握った。魔術師はそれを見て軽くうなずく。
「タイオス殿、忠告をしましょう」
サングは視線を上げ、まっすぐにタイオスの焦げ茶の瞳を見た。
「――自らの意志で手放そうとする、それは奪われることより、危険です」
「何だって?」
「私はあなたに意地の悪いことを言った。売れと言っても肯んじないでしょうが、預かるだけである、という提案にあなたがどうするかを見たかったのです」
「何、だって?」
タイオスは馬鹿のように繰り返すしかなかった。
「一時的にであろうと絶対に手放さない、と言われるものと思っていました。しかしそうではなかった。危険なことです」
「意味が、判らんが」
正直にタイオスは言った。
「いまはこれだけ、覚えておいてください。あなたにそれを手放させようとする者には、注意すること」
「そりゃ、お前さんのことか?」
戦士が問えば、魔術師はわずかに口の端を引っ張った。笑ったように見えなくもないが、好意的なものと判断するのは難しかった。
「そういうことでもけっこうです」
「意味が判らん」
やはりタイオスはそう言うしかなかった。
「意地悪のお詫びも兼ねましょう。料金の不足分は、私が立て替えます」
「……はあ?」
と言ったのはタイオスのみならず、もうひとりその場にいた魔術師もであった。
「何だ、どういうことだ」
「あの、サング術師、それはちょっと異例で」
「異例だから何です。最近の協会は、何事にも前例あるべしと教えているのですか。私の学んだ頃は、新しいことに挑戦するのは大いに奨励されたものですが」
何も責めるような口調ではない。ただ尋ねているという感じだった。だが受付の魔術師は、冷や汗でもかいたかの額を拭った。
「は、しかし」
「いや、サング。お前さんは俺の金でもって雇われるんだろう。何でお前が金を出す」
変じゃないか、とタイオスは言った。
「私があなたに雇われるのでしたら、確かにいささか奇妙と言えます。しかし、あなたが支払うのは協会に対してであり、私は協会から受け取る。判りますか」
「まあ、そこは判るが」
同じだろうと戦士は言った。違いますと魔術師は答えた。
「ここであなたの資金が足りずに話がご破算になれば、私は仕事を取り損なう」
「まあ、それはそうだが」
担保の話はどうなったのか、とタイオスは怪訝な顔をした。
「これだけの品です。容易に魔術師には見せない方がよろしいでしょう、タイオス殿。なかには借り受けた品を気に入り、何だかんだと難癖をつけて返すまいとする導師もいらっしゃいますから」
「……ああ、その」
戦士は頭をかいた。
魔術師の言うことは、よく判らない。
しかしとにかくサングは、〈白鷲〉の護符を立派なものであると考え、だからこそタイオスが手放してはならないと言っているようだ。
「礼を言えばいいのかね」
「特には要りません」
表情を見せぬままで、サングは手を振った。
「わたくし個人の意見としましては、そうした力あるものが協会に死蔵していてはもったいないと思いますので」
「力」
昨日の魔術師も言っていた。タイオスには、ぴんとこないこと。
彼にとって「力」と言えば腕力体力筋力、そういったものだ。自分には縁がないが、権力という類もある。だがそういう話ではなさそうであった。
「ええ。魔力とも異なりますけれど、非常に興味深い」
サングの口調はとてもではないが熱心とは言えなかった。しかし少なくとも、言葉の上では興味を持っていると告げた。
「何故、これまでにあなたと出会った魔術師がそれに興味を持たなかったものか、不思議なくらいです」
「ほかに興味の対象があったんだろうよ」
協会内では判るが、すれ違った程度では判らないという話だ。だからタイオスが言うのは、名も知らぬ魔術師のことではない。
シリンドル国で体験した騒動の間に行き会った、アル・フェイルの魔術師のことだ。
初めは敵側にいた男だったが、最終的には中立を保ち、外側からシリンドルが安定を取り戻すさまを眺めていた。
あのイズランの興味は、少なくとも〈白鷲〉でもその護符でもなかった。
それは考え難いことだとサングは言うようだが、魔術師にもいろいろいるというところだろう、などとタイオスは適当に考えた。
「それじゃ早速、話をしたいんだが」
「判りました。参りましょう」
サングは黒いローブを翻した。タイオスはてっきり、また協会の奥へ案内されるものと思ったのだが、サングはすたすたと協会外へ向かった。
「お、おい」
「何でしょうか」
「外へ行くのか。支払いは、どうする」
「ああ、そうでした」
うっかりしていた、とでも言うようにサングは肩をすくめた。
「あちらの彼にどうぞ。お約束通り、足りない分は私が」
「何だか奇妙だが、まあいい」
払えないなら頑として駄目だと言うのではなく、担保に大事な護符を提供する羽目にもならず、向こうから一時的に差額の補填をしてくれると言うのだ。タイオスにとっては何も問題ない。
ただ、さっさと出て行こうとしたのは何なのか。本当は金を出したくないんじゃないかとも思ったが、そんな出し惜しみをするくらいなら最初から言い出さなければいいことだ。
(単なる、うっかりか?)
(そういう性格にも見えないんだが)
タイオスは首をひねった。
(……掴みがたい奴だ)
護符を渡せと言い、すぐに返しては、手放させようとする者に気をつけろと告げる。
差額を払うと言い、払い忘れたかのような様子を見せる。
戦士は、長い黒茶の髪を持つ魔術師がどういう人物なのか、さっぱり判らなかった。