11 祈っているといい
ライサイ。それは、マールギアヌの北方に住まうソディ一族の宗主だと言う。
詳しいことは、ロスムは何も知らなかった。ただ、かつて――遠い遠い昔、マールギアヌの地で起きた知られざる魔術戦争に打ち勝ち、ケイスト一族を他大陸へ追いやった魔術師の末裔だと聞いた。
ケイスト一族のことは、歴史書にも載っていた。西のリル・ウェン大陸で、やはり遠い昔に、魔術によって大陸全土を支配したという怖ろしい一族である。
彼らはやがて大戦争の果てに滅亡したが、ケイスト一族の城砦であったという〈失われた魔術師たちの砦〉の伝承は広大な海を越えてラスカルト大陸にも伝わり、いまでも語られることがある。
その力ある一族を追い払ったという、ライサイの祖先。事実なのかどうか、それをロスムに知る術はない。ただ、箔をつけるための出鱈目にしては、いささか胡乱すぎる感があった。魔術師相手ならばともかく、普通の人間はケイスト一族の名など知らないからである。ロスム自身、調べてみて初めて知ったことだ。
それはあまりにも遠い話であったが、ソディ一族については、もう少し彼らに近い話もある。カル・ディアルやアル・フェイルといった大国の誕生にも、その暗躍が関わっていると言うのだ。
普段は隠者のようになりをひそめ、北からマールギアヌを見守っている。彼らの求めるものが顕現したときだけ、使いを送ってそれを手に入れる。
ライサイが求めるものについては、ロスムはやはり判らなかった。エククシアからいくらか話は聞いたが、伯爵には判らない――興味のない分野の話だった。
魔術。神秘。
そんなものは彼には必要なかった。
利用できるのならば、利用することもある。〈青竜の騎士〉を連れ歩くのは、それに近い。謎の騎士。話題性がある。
だがエククシアの方では、何をどう考えているものか。
そして、ライサイは。
判らないこともあれば、判った上で、いささか怖ろしく感じる部分もある。しかしそれでも、ロスムはライサイの提案に乗った。
彼の望みを叶えてくれるのであれば。
「ことは、都合よく進んでいる」
声を発したのは仮面の男だった。
「リダールを連れ去るは、ロスム閣下の意向。だがあの様子であれば」
わずかに、仮面の男はうつむいた。
「〈白鷲〉は、追ってくる」
くぐもった声が言った。
「追ってくることが、好都合なのか?」
ロスムは不思議に思って尋ねた。〈白鷲〉タイオスがろくでもない騎士であろうと、追われれば面倒ではないのかと思ったのだ。
「サナース・ジュトンを覚えておいでだな、閣下」
今度はエククシアが言った。
「あ、ああ」
伯爵は視線をうろつかせた。
「キルヴンの、護衛戦士であった」
「その通り。キルヴン伯爵を守って死んだ、忠義の騎士」
「騎士? いや、あやつは」
そのような称号を持っていなかった、とロスムは言おうとした。
「知らぬであろう。だが、ジュトンは騎士の称号を得ていた。タイオスと同じ場所からな」
「何と」
驚いて、ロスムは呟いた。
「シリンドルとか言ったな。ジュトンに、タイオス。ではキルヴンは」
そこで伯爵は渋面を作った。
「内密に、他国と並々ならぬ縁を育てているということになる」
「そうとも言えよう」
「――叛意有り、と取られても致し方あるまいな」
「その辺りは、好きにするといい」
興味なさそうに騎士は応じ、伯爵は戸惑った。
「だが……この先も、お前にはいろいろと」
「協力はそこまで、と言ったはずだ」
すげなくエククシアは返した。
「お前はリダールを提供する。ライサイはフェルナーを返す。等価交換ならばそれだけでよいのに、キルヴンの評価を落とす手伝いまでしてやった」
黄色と青の両眼が、じっとロスムを見た。ロスムには、部屋の温度がすうっと下がったかのように感じられた。
「これ以上を望むのか?」
「いや……」
ロスムはごくりと生唾を飲み込んだ。
「すまなかった」
それから彼は、取り繕うように続けた。
「こちらのことは、全て任せよ。誘拐事件がこれ以上発生せぬのであれば、リダールのことは、最初で最後の気の毒な犠牲者という話で終わらせることができる。タイオスというあの騎士が何を言おうと、キルヴンがそれを信じようと、もはやどうでもいいことだ」
「宮廷の風潮は、ロスム閣下に傾いているか」
厳しい視線を向けたことなどなかったように、エククシアは穏やかに問うた。ロスムは安堵して、こくりとうなずいた。
「殿下は御自らが発端ということでリダールをいくらか案じていらっしゃるが、大方の者にとっては、功を焦って余計な手を出したキルヴン父子の不徳と思われている。私やお前は不幸にも巻き込まれたという印象だ」
「どうでもよい」
エククシアは手を振った。
「閣下は既に狐を射られたということ。その狐が兎をくわえていることを祈っているといい」
騎士は〈兎を仕留めた狐を捕まえる〉――少ない労力で多くを得ることのたとえを使って肩をすくめた。
「兎を得られるのであれば、狐のことはさして重要ではない」
息を吐いてロスムは言った。
「――頼む」
それから、彼は頭を下げた。カル・ディアの伯爵たる人物が、素性も知れぬ一騎士に。
「どうかフェルナーを……我が子を再び、この手に抱かせてくれ」
「ライサイに全て任せよ、閣下」
エククシアは静かに言って、遠く北方を見やった。
その黄色と青の瞳は何を映すものか。目的の判らぬ謎の騎士とその主に、ロスムは少しだけ畏怖めいたものを覚えた。
(私は、何と愚かしい頼みごとをしているのか)
一瞬。その思いはほんの一瞬だけレフリープ・ロスムの内を駆け抜けた。
(いいや。愚かなどではない。もしも本当に、息子が戻るのであれば)
キルヴンの息子と引き換えに、冥界神が彼の息子を返すのであれば、それは素晴らしい出来事だ。
ロスムは疑念と、それからかすかに覚えた怖れを振り払うように頭を振って、全て任せると繰り返した。