09 緊急なんだ
いったいいくらかかるものか、見当がつかなかった。
魔術から身を守らせるのには、最低で一日二百五十ラル。緊急の人捜しには? 三百程度で納まるのか、ちっとも足りないのか。
リダール同様すっかりタイオスを信頼しているらしいハシンは、自分の給金を全て差し出すと言った。高給をもらっているが、あまり使わないので貯まっていると。
有難い話だったが、生憎と現実的ではなかった。ハシンは普段、カル・ディアルの中程にあるキルヴンの町で暮らしているから、彼の貯金はそこにあるのだ。
それでも、必要に応じて必要なものを買う判断を任されているハシンには、二百ラルの手持ちがあった。タイオスは百ラル弱。彼もコミンにはもう少し置いてあるが、いまはどうしようもない。
交渉してどうにかしよう、とタイオスは決め、魔術師協会へと急いだ。
(昨夜、すっぽかしちまったみたいなもんだからなあ)
(怒ってないといいが)
魔術師たちは概して冷静であるが、冷静の仮面をつけた裏で腹を立てていないとも限らないのである。
がちゃん、と静かな協会の扉を乱暴に開いた戦士は、なかにいたふたりの魔術師を驚かせたようだった。
「あー、すまん」
タイオスは謝罪の仕草をした。
「昨日、約束をしてたんだが、ちょっとこられなくて」
「ヴォース・タイオス殿」
さらりと彼の名を口にしたのは、座っている魔術師と話すように立っていた、やはり魔術師と思しき――黒いローブでそれと知れる――男だった。
「ですね?」
「あ、ああ」
少し気圧され気味に、タイオスは認めた。いまの説明で彼を特定されたということはつまり、「昨日の約束を破った男はヴォース・タイオスである」と協会内に知れ渡っていることになりそうだからだ。
「お会いできてよかった。お待ちしていました」
三十代前半ほどの魔術師は、軽く会釈をした。長い黒茶の髪はまっすぐと肩よりも下まで伸び、その瞳は髪よりも濃い色をしており、底知れない感じがした。
「待ってたってことは、話を聞いてるのか」
「ええ、わたくしが担当を」
魔術師は言った。
「わたくしは、サング。アルラドール・サングと申します」
笑みひとつ浮かべず、彼は名乗った。丁寧すぎる礼がさらさらの髪を揺らした。
「ああ、俺はタイオス」
改めて戦士は名乗った。
「だが、すまんが、昨日とは話が少し違ってきてるんだ」
もう一度相談をしたいと彼は言った。
「かまいません」
サングは手を振った。
「私がお受けすることは、決まりました」
その声は格別低くも太くもないのだが、どうしてか重たい感じがした。
「いや、だが、ちょっと待て」
タイオスは片手を上げた。
「話によると、こっちが出す金額によって魔術師の質が違ってくるとか」
「乱暴な言い方ですが、間違いではありません」
サングはそう答えた。
「三百、とお聞きしています」
「――実は、ちょっとだけ、足りないんだ」
正直にタイオスは言った。サングは片眉を上げた。
「だが、まけてくれ。な?」
彼は両手を合わせたが、魔術師は顔をしかめた。
「それは困ります、タイオス殿」
ゆっくりとサングは言った。
「じゃ、あとで払う。資金提供者はいるんだ、ただ、いまちょっと留守にしてて」
本当のことなのだが、つたない言い訳に聞こえるだろうということは判った。
「では、その方がお戻りになったら」
当然の反応が返ってきた。
「頼む。緊急なんだ」
タイオスはもう一度、手を合わせた。
「必ず、払うから」
「それでしたら、担保になるものが要りましょう」
サングは淡々と言った。
「――その、腰の袋に入っている護符はいかがです」
「何」
昨日の魔術師の話を思い出した。協会内では、そうしたものはあからさまにされるのだと。
タイオスはうなった。
「おい。魔術師ってのは、人の持ちもんを魔術でのぞくのが趣味なのか」
昨夜は、話の流れ上で出てきた話題だった。だが、いまは違う。
「とんでもない。力あるものは、感じられるだけです」
魔術師は肩をすくめた。
「たとえば戦士殿が、相手が武器を隠していても気づくように」
「巧いことでも、言ったつもりか」
「いえ、特には」
サングの反応は薄かった。
「どうです。その護符になら価値があります。協会は高値で買い上げます」
「これを売る訳には……」
タイオスは口ごもった。
売る訳にはいかない。だが、金が必要なら。
「なら、担保ということでけっこうです。差額分をいただけましたらお返しを」
サングはすっと手を差し出した。タイオスはうなる。
魔術師の言うことは実にもっともだ。三百と言ったのはタイオスであり、それに足りないのであれば何らかの保障を用意するべき。差額を払えば返すと言うのだから、売り払う訳でもない。
だが、一時的にとは言え、手放すことになる。〈シリンディンの白鷲〉の証。
(くそ)
(リダールのためだ)
(それから、俺の責任)
(青竜野郎にひと泡吹かせてやるためにも、魔術師が必要)
彼はのろのろと、腰に手をやった。
ふっと思い出されることがある。
〈白鷲〉の護符は、持ち主がその資格を失ったとき、自然と手元から離れていくのだと言う。
ではこれは、そういうことなのか。
護符は、リダール少年を守れなかったヴォース・タイオスを離れて、シリンドルへ戻ろうとしているのか。
(――それも仕方ない、か)
タイオスはそっと息を吐いて、袋に手をかけた。サングはじっと見守っていた。
「これだ」
戦士はゆっくりと、白い大理石でできたそれを取り出した。
先の尖った菱形の石、かぶせられた瑪瑙に刻まれる、若木と白い鷲。神経質な絵師がこまごまと描き込んだかのように、葉の一枚、羽根の一枚まで精巧だ。
(ここで手放したら)
(もう二度と、俺のもとに戻ってこんような気がする)
タイオスは曖昧な予感を抱いた。
彼に神秘的な能力などはない。もしかしたら「戦士の勘」などと言われるものはそれに近かったかもしれないが、少なくともそれは「魔力」と言われるものとは異なり、不可思議なものだとはされない。
予感。曖昧で不確かなもの。
こんな感覚は好きじゃない。だが、感じてしまうものはどうしようもなかった。
彼は右手に護符を収め、とても重いものを持っているかのようにわずかに震えながら、それを差し出した。