09 捨てる訳には
心臓が、痛むように音を立てた。
手が汗ばんだ。
こんな経験は、これまでになかったことだ。彼はいつでも冷静でいた。たまにかっとなることもあったが、それは怒りや憤りによるものだ。このような、緊張ではない。
(――他人の戦いを見守るしかないというのは)
(これほど、歯がゆい思いがするものなのか)
剣を抜いて対峙した〈白鷲〉と〈青竜の騎士〉を前に、当人たちより気を張っていたのは、ルー=フィン・シリンドラスであった。
街道をやや離れた、乱立する木々の間。東にルー=フィンとリダール、西にアトラフとミヴェル、およそ五ラクトほど離れているだろうか。彼らに挟まれるように、タイオスとエククシアは睨み合っていた。
そ、とルー=フィンの手に何かが触れる。彼はぴくりとした。
リダール少年が顔面を蒼白にして、彼の指先を頼ってきた。
ルー=フィンとリダールの年齢は、それほど違わない。三つばかり、ルー=フィンの方が年上であるだけだ。だが戦いを目にすることなど、リダールは初めてであった。当然ながら少年は、剣士よりも、恐怖に打ち震えている。
親しい人間の命がけの勝負という限定をするのであれば、ルー=フィン自身、未経験だ。
彼は少年の手を取り、リダールを安心させようと思うと同時に、彼自身も落ち着きを取り戻そうとした。
(神よ)
シリンドルの騎士は祈った。
(〈白鷲〉に加護を)
まるで彼の祈りが開始の合図であったかのように、タイオスが地面を蹴った。
カァン、と剣が打ち合わされた。リダールがぎゅっと彼の手を握る。
(速い)
ルー=フィンはぎくりとした。
若い剣士は、エククシアの速度に驚いたのではない。
(一気に踏み込んだ)
(様子を見るような真似をせず、最初から全力で)
速かったのは、タイオスだ。あっという間に騎士の間合いに飛び込み、彼に勝ると思われる腕力で、エククシアの細剣を退けた。
(だが、無茶だ)
ルー=フィンは気づいた。
(向こうは読んでいる)
エククシアはタイオスの全力を真っ向から受け止めることなく、ひらりと受け流した。当然と言えば、当然だ。ルー=フィンでもそうする。広刃の剣の打撃をまともに受け続けては、彼らの操る細剣はすぐに押し負ける。
かまわず、タイオスは再度踏み込んだ。再度、エククシアは受け流す。
(そうじゃない、タイオス)
(――くそ、私がやると、言えばよかった)
戦士が聞けば、苦笑いをするであろう。若者に「お前では駄目だ」と言われることにではない。タイオスはルー=フィンの実力を認めている。
だがこれは、ヴォース・タイオスの仕事なのだ。ルー=フィンでは代行できない。
銀髪の若者も、そのことは理解していた。ただ、歯がゆいのだ。
三合、四合。一見したところ、タイオスの方が押しているように見えた。いや、文字通り、彼は押していた。だがそれは必ずしも、鷲が竜を制していることを意味しなかった。
(油断するな、タイオス)
ルー=フィンは歯を食いしばった。
(あの男、何か……考えている)
タイオスの猛勢に押されるふりで、反撃の機会をうかがっている。ルー=フィンには手に取るように判った。
忠告をするべきか。若者は業を煮やして、口を開こうとした。
だがそのとき、嫌な感じが彼を訪れる。
首の後ろの毛が――逆立つような。
「リダール!」
「え」
ルー=フィンは素早く少年を引き寄せ、抱えるようにして横に飛ぶと、そのまま少年を突き飛ばすようにした。その瞬間に、たったいままで彼らがいた地面には、大きな穴が開いていた。
「ち、勘のよい」
後ろで、舌打ちが聞こえた。ルー=フィンはさっと振り向く。
「それとも、これもまた、贔屓の激しい〈峠〉の神の加護か?」
倒れたリダールのすぐ横で揶揄するように言ったのは、仮面を身につけた男だった。
「――ヨアティア!」
かっと、頭に血が昇った。彼は剣の鞘走る音を耳にした。自ら抜いたと意識する間もなく、ルー=フィンは剣を抜いていた。
「な、お、ちょい、待った!」
中年戦士の、動じた叫び声が聞こえた。集中して真剣勝負をしていても、数ラクトと離れていないところで起きた轟音と異常には気づかざるを得ない。
「勘弁してくれ! こんなときに」
タイオスは悲鳴のような声を上げた。
「アトラフ」
彼の動揺と対を為すかのように、エククシアは変わらぬ囁き声を出した。
「邪魔だ。処理しろ」
「承知」
短く、アトラフは返答した。かと思うと彼は、〈魔術師の腕〉のもたらす術で短い距離を飛び、仮面の男と銀髪の剣士の間に立った。
「そこをどけ、アトラフ。さもなくばお前ごと、刺し貫く」
青い瞳を燃やして、ルー=フィンは告げた。
「そうは行かない」
アトラフは答えた。
「彼の処罰は私に任された」
「ふざけるな」
ヨアティアは低くうなった。
「何が処罰だ。こやつらを殺ってしまう、好機ではないか!」
憤りを込めて、ヨアティア腕を振り上げた。アトラフが素早く手を振れば、ヨアティアの指先に宿った火球は消えた。
「仮面殿。この場での無体はやめていただこう。名誉を傷つける行為だ」
「――はっ」
ヨアティアは笑った。
「どいつもこいつも、聖人ヅラか。アトラフ、お前も何とかの騎士様か?」
「騎士」の一語に憎悪と侮蔑が込められた。
「決闘だと。名誉だと? 茶番だ。くだらない。俺やお前の〈腕〉があればタイオスごとき確実に殺れるのに、何が一対一の」
「仮面殿」
アトラフは困ったように肩をすくめた。
「判っていただかなければならない。――与えられる慈悲は、もうないこと」
エククシアの言葉に逆らったヨアティアが生きていられるのは、宗主と騎士の慈悲にすぎない。ソディの男はそう言った。
「どいつもこいつも、俺を馬鹿にする気だな」
憤りにあふれた声で、ヨアティアは言った。
「後悔させてくれる!」
表情を持たぬはずの仮面が、顔を歪めたかに見えた。否、もちろん、仮面は仮面だ。ただ、ルー=フィンには見えたようだった。思い通りにならないとすぐに腹を立て、自省をせずに他人を酷く責め立てる、十年以上前から変わらぬ言動をしている、ヨアティア・シリンドレンの顔が。
「お前も死ね、アトラフ。俺を馬鹿にした。ルー=フィンともども、俺の火の餌食になれ!」
「何」
これはアトラフにとって、思いがけない発言だった。彼はヨアティアを仲間とこそ思わないものの、同じ側に立っていることを疑いはしなかった。タイオスやルー=フィンに恨みを保っている男が裏切るはずはなく、逃げることは有り得ても、彼に――ライサイに、エククシアに、ソディに牙を剥くなどとは。
(こんちくしょう、何が起きてやがる)
ほんの一瞬だけ騒ぎに目を向けたタイオスは、ヨアティアの乱入を知った。だがそこまでだった。
彼としては一旦、休戦でもしたいところだった。しかしエククシアはそれを許さず、攻勢に回った。となればタイオスは、守りに集中するほかない。「ちょっと待った」と言って騎士が乗らぬのなら、自分が待っても死ぬだけだ。
「くそ」
戦士は飛ぶように大きく退いて距離を取ると、危険を承知で決闘相手から目を離した。
端から、地面に座り込んでいるリダール、近くにヨアティア、それに対峙してアトラフ、ルー=フィンと立っているのが判った。
だがそれだけだ。それ以上のことを把握するのは、いまの彼には無理だった。すぐさま、〈青竜の騎士〉が追撃してきたのだ。
(先手必勝の作戦も、もうしまいか)
作戦とはとても言えない作戦の失敗を知ったタイオスは、拙いと感じ出した。
(こうなりゃ、とにかく、やれるところまでやるしか)
「もう少し、愉しむつもりでいたが」
何度目になるか、剣を合わせた瞬間、エククシアが囁いた。
「これ以上の邪魔は、望まぬ」
「そりゃあ」
タイオスは力任せに、相手を押した。
「俺も同感だ」
話しかけてくるとは、いささか意外だった。無視してやってもいいところだが、つい、タイオスは返事をする。
「月が満ちた。判るか、〈白鷲〉」
「そりゃあ」
彼はまた言った。
「今日が満月だ、ってことくらい知ってる」
彼はうなった。
「その通り。なれば今宵、〈月岩〉は力を持つ」
「意味が判らん」
タイオスはうなった。
「それが何だ。話をしたいなら、俺にも判るように言え」
「話す必要はない」
騎士はぱっと、後方に跳んだ。かと思うと、疾風のように飛びかかってきた。
「その代わり、見せてやろう」
「げ」
速い。これまで思っていたよりも。
タイオスは慌てて剣を上げた。
(ルー=フィンよりは、遅いと思ってたのに)
(この野郎、実力を隠してた?)
そうであったならば、馬鹿にされたものだ。そうでないのならば。
(満月?〈月岩〉? 何度か聞いたが)
(それがいったい、何だってんだ)
騎士の剣が戦士を襲う。タイオスは防戦一報となり、それも長くないと悟り出した。
(やっぱ、無理だったか)
(……いやいや! ここで納得しちまったら終わりだぞ、ヴォース!)
自らを叱咤し、必死で太刀筋を読む。
(いましかないんだ、これしかないんだよ。奴らの)
(満月がどうの、って戯言がまじなら、ここでどうにかしなけりゃ、リダールもフェルナーも)
(あのまま)
いましか、これしか、ない。彼にできることは、剣で戦いを挑んで、そして勝利することしか。
「――……!」
ヨアティアが何か叫んだのが聞こえた。彼は振り向きたい欲求をこらえる。
(駄目だ)
(向こうはルー=フィンに任せろ。俺は)
(集中しろ)
神の加護を捨てた身だ。奇跡は起きないのだ。
旋風が飛び込んでくる。金髪の騎士の姿をして。
その切っ先が戦士の籠手を切り裂いた。かろうじて、負傷は免れた。
「〈白鷲〉よ」
色の違う瞳が、タイオスのそれを捉えた。
見るな――と誰かが言った。
それとも、気のせいにすぎなかったのか。
「な」
更に、騎士が踏み込む。速い。タイオスは思い切り後方に飛ぼうとした。
だが、間に合わなかった。
エククシアの細剣は、誤りなく、ヴォース・タイオスを捕らえた。
「うご……」
声とも音ともつかないものが戦士の口から洩れる。
刃は彼の左脇腹を貫通し、そして、引き抜かれた。
激痛とすら理解できない、とんでもない熱が彼を襲い、瞬時に、何もかも判らなくなった。意識されるのは本能の声のみ。
傷をかばえ、動くことをやめておとなしくしろ、死ぬぞ――。
だが戦士は剣を捨てる訳にいかなかった。もはや敗北は必至だ。だがそれでも、捨てる訳には。
「タイオス!」
誰かが叫んだ。誰の声かも判らない。呼ばれたのが自分の名であるのかさえ、怪しかった。いや、本当に、誰かが叫んだのかさえ。
「死にたくはなかろうな?」
囁くような、誰かの声がした。
タイオスは、自らの身体から噴き出す赤いものをとめようと、いや、そのように考えたのでもなく、ただ傷口に左手を持っていった。しかし止まるはずもない。見る間に彼の手は赤く染まり、血が彼を濡らしていく。
「招待には招待を返そう、ヴォース・タイオス。くるといい」
声は続けた。
「月岩の向こう――墨色の王国へ」