07 それじゃ一緒に
天の神も気が利かないな――と、中年戦士がぼんやりと思ったのはそんなことだった。
(せっかくの満月、芝居も終盤、〈ホルサイアーの戦〉で言やあ、将軍同士の一騎打ちがはじまるってなとこなのに)
(曇天、とはなあ)
タイオスは恨めしげに夕空を見上げた。
もっとも、雨の気配はない。曇りと言っても、せいぜい「薄曇り」だ。
ただ、せっかくの大舞台なのだから、雲ひとつない夜空から月の女神が見守ってくれてもいいではないかと、柄にもなくそんなことを思った。単純に、明るい方がやりやすいのもある。
「そろそろ、だろうか?」
そわそわとリダールが言う。
決闘なんて危ない、と少年は長いこと言い立てていたが、戦士が相手にしなかったため、最後には仕方なさそうに黙った。
だが、今回は帰れというタイオスの指示に、リダールは再び首を振った。
『さっきだって――』
「さっきだってぼく、何も騒いだりしなかったでしょう」
「その代わり、役にも立たなかったが」
「タイオスは、ぼくが戦いに役立つことを期待しているんですか?」
「してるはずがないだろう。俺はお前に何かあったらいかんと」
「そこはほら、タイオスとルー=フィン殿が守ってくださるんでしょう?」
リダールはそう言って笑みを浮かべ、タイオスはまたしても仕方なく、彼の同行を認めた。
戦士は、この少年と初めて会ったときのことを思い出した。タイオスとエククシアが守るのだから大丈夫だと、リダールは彼らを信頼しきった発言をした。
あのときといまでは、状況がいろいろと異なる。
だが、それでも共通する点。
リダールはタイオスを信じている。
(……いや、こいつのことだ。もしかしたら)
(エククシアにも同じような言うのかもしれんが)
落ち着かない様子の少年を見ながら、タイオスはこっそりと考えた。
「どうして日暮れを指定したんだ?」
ルー=フィンが尋ねた。
「晴れていればともかく、薄闇のなかで決闘など、正気の沙汰ではない」
「昼間の街道じゃ、人通りもあるだろうが。夕暮れになれば出入りもぐんと減るし、少し道を逸れればほとんど人目につかん。決闘なんて言っても結局、剣を使った喧嘩だ。人目につく場所でやる方が正気の沙汰じゃない」
戦士は肩をすくめた。
「まあ正直、月明かりは期待した」
タイオスはまた天を見上げた。
「これ以上曇ることがなければ、それほど問題でもないだろう。条件は同じなんだし」
「向こうが受ける、という確信はどこから?」
「確信は、ない」
彼はあっさりと答えた。
「ただ、俺から奴に喧嘩を売ったのは初めてだからな。向こうは俺に買わせたくて仕方なかった。それを考えれば十中八九、応じてくるだろうとは踏んでる」
「本当に決闘をするんですか」
「何だ。まだ言ってるのか」
心配そうなリダールにタイオスは笑ってみせた。
「あの。タイオス。……これを」
「うん?」
少年が何かを差し出した。タイオスは首をかしげて彼の手を見る。
「織り紐か? ははあ」
戦士は苦笑した。
「もしや、お守りか」
「そんな感じです」
リダールはうなずいた。
「これ、持っててください」
「――ああ、有難うな」
彼自身は、あまり「お守り」の類に頼る性格ではない。拒否するほど頑なでもないが、その手のものは気休めだろうと考えている。
だがここは少年の気持ちを受け取ることにした。タイオスはくすんだ橙一色の細い織り紐を受け取ると、腰帯に結びつけた。
「きっと、助けてくれます」
「何?」
「それ、サナースのものなんです」
「へえ、そうなのか」
これもまた〈白鷲〉の護符という訳だ。タイオスは少し笑った。
「心強いね」
これは皮肉でもなければ、リダールへの追従でもなかった。噂に聞く前〈白鷲〉サナース・ジュトン。任務に殉じた男と考えれば不吉なところもあるが、大理石の護符よりも慕わしさを覚える。
(こんなものまで借り受けちゃ)
(負ける訳には、いかないな)
正直、厳しい。ルー=フィンの方が速いという判断はしているが、それでもタイオスより速い相手で、かつ経験を積んでいる騎士。
二度ばかり、渋々ながら剣を合わせた体験から考えると、長引かせるのは得策ではない。彼の勝機は短期決戦にある。
すう、と光が射した。雲の切れ間から、丸い月が顔を出す。
「あ……あれ!」
リダールが指した。少し先の木の下に、いくつかの人影が見える。
「お出ましか」
一、二、とタイオスは数えた。
(三人、か)
(エククシアと、アトラフと……ミヴェル、だな)
顔は見えないが体格で判定をした。幸か不幸か、ヨアティアはいない。
(首を切られたかな)
タイオスはそんなことを思った。
(本当に首を切られてりゃ、手間が省けるってもんだ)
(……まあ、ルー=フィンが納得せんだろうが)
彼はそっと若い剣士を見た。同じように、ヨアティアの不在に気づいていることだろう。だがルー=フィンはそのことには触れなかった。
「――やってくる気配がない」
「そうだな。俺たちにこいと言ってる訳だ。腹の立つやっちゃな」
向こうの影は、動いていない。タイオスは肩をすくめた。
「仕方ない。睨み合っててもどうしようもないからな。ここは連中の望み通りにしてやろう」
言うと、タイオスは歩き出した。黙って、ルー=フィンとリダールも続く。
「なあ、ルー=フィン」
「断る」
若者は素早く答えた。男は苦笑する。
「まだ何も言ってないんだが」
「自分が死んだら云々、と言うつもりではないのか」
「死ぬ気じゃないが、世の中、死にたい奴ばかりが死ぬ訳でもない。ただ……」
「お前には神の加護がある。それを忘れるな」
「神頼みだな、まさしく」
「私は〈青竜の騎士〉の腕を知らない。だが、勝つ自信があるのならお前は大言壮語を吐いているものと思う。それがないということは、勝機は薄いのだろう」
「言ってくれるねえ、その通りだが」
「だから忘れるなと言っている。シリンドルを離れても、〈峠〉の神は〈白鷲〉を見ている」
「前任のときは、見てるだけだったみたいだぞ」
「――タイオス」
「怒るなよ。本当のことだ。それに、神様のご命令は『ヨアティアをどうにかしろ』だ、たぶんだが」
彼は気軽に言った。
「この決闘には、くちばしを突っ込んでこないんじゃないかねえ」
一度放たれた奇怪な白い光。タイオスはそれを忘れていないが、あのとき、あの場にはヨアティアがいたことも忘れていない。〈峠〉の神はタイオスを救ったのではなく、ヨアティアに力を見せつけたのではないかと、そんなふうに考えていた。
(これは、シリンドルには関係のない戦いだ、ご加護は期待できん)
(もとより……期待する気もないが)
(それでも)
「――それでも、俺は〈白鷲〉だそうだ」
他人事のように彼は言った。
「結果がどう出るにせよ、お前は俺の仕事を見届けて、ハルに伝えろ」
「……それは」
「何だ、文句があるのか」
「お前自身で、やればいい」
ルー=フィンは、簡単に「帰る」とは言わなかった。タイオスは口の端を上げた。
「よし、それじゃ一緒にやろう」
「何」
「ヨアティアの掃討込みで、ハルに土産話だ。俺とお前で」
「……タイオス」
「答えは」
「――判った」
「よし」
タイオスは笑みを浮かべた。ようやく、この頭の固い若者に、国へ帰ると言わせることができた。