06 本当にそれで
「そうやって、馬鹿にしていればいい」
フェルナーは仇でも見ているようにタイオスを睨んだ。
「父上はちゃんと、僕をフェルナーと呼んでくださったんだ。僕が不安に思うことは、もうなくなった」
「おいおい」
タイオスは呆れた。
「お前、誰の身体を使ってると思ってんだ。友だちだろ? それは許せないと、そんなことを言っていたじゃないか」
「――僕は、あの場所が、大嫌いなんだ」
少年は絞り出すような声で言った。
「あの場所?」
突然の宣言に、タイオスは目をしばたたいた。
「カヌハのことか?」
かすかに首を傾げて戦士は問うた。
「語りたくもない」
フェルナーは吐き捨てた。
「逃れるためなら、僕は」
リダールの気弱な瞳に宿る、灼熱の炎。それは強い意志の現れのようでありながら、全てを焼き尽くす〈獄界の炎〉とも見えた。
「僕は、悪魔に魂だって、売り渡す」
「……俺はあんまり、信心深くない方なんだが」
神に選ばれし騎士はぼそりと言った。
「殊、お前の状況においちゃ、洒落にならん台詞だぞ」
戦士は厄除けの印を切った。
「ほら、お前もやっとけ」
「ふん」
フェルナーは相手にしなかった。
「お前には、判らない」
「そりゃ判らん。説明が足りん」
ふん、とタイオスも鼻を鳴らした。
「『あの場所』ってのは、何だ。カヌハで、怖い目に遭ったのか。地下牢にでも閉じ込められたとか」
戦士は適当に想像して追及した。
「地下牢、だと」
フェルナーは口の端を上げた。
「――ああ、そうだとも」
「何。まじか」
タイオスは顔をしかめた。
「子供相手に酷いことしやがる。あんな場所、俺だってめげるのに」
彼は、つい今朝ほどまで閉じ込められていた留置場を思い出した。冷たい石の床、日の光が射さない作り、頑丈な格子。閉塞感が絶望感を呼ぶ、あの嫌な感じ。
(いや……待てよ)
(フェルナーの拉致から、リダール発見の報告があるまで、半刻も経っちゃいないな)
根を上げるには早すぎないだろうか、と彼は思った。
(お坊ちゃんなんだから、そういうこともある、か?)
しかも、中身は十二歳。十分かそこらで泣き出しても、そんなに不思議ではない。少々言い過ぎにも思えたが、カッとなって過剰に言ってしまうのはよくあることだ。そう考え直した。
「それで、お前、また牢屋に入れられたくなかったら言うことを聞けとでも脅されたのか?」
「いいや」
「何だ、違うのか」
「だが、脅されなくとも、同じだ」
「ん?」
「お前は何も、判っていない」
「またか」
繰り返された言葉に、タイオスは唇を歪めた。
「自慢じゃないが、牢なら俺も入れられたぞ。確かに気分爽快にはなれんところだ。だがそこまでびびることでもない。万一、また閉じ込められるようなことになっても、心配するな。必ず助け出してやるから」
「いい加減なことを言うな!」
フェルナーは怒鳴った。
「お前に、何が判る! 判るはずがない。暗くて、寒くて、何もないあの場所。どんなに叫んでも誰にも届かない。いや、叫び声すら上げられない。時間の経過も何も判らず、何の救いも見いだせず、ただひたすら、そこにいるしかないという、あの恐怖」
大げさだ、とタイオスは思った。たかだか、半刻で――。
「六年間」
「……何?」
「六年間、僕はそこにいたんだ! この気持ちが、お前に判るか!」
「お前……」
タイオスは目を見開いた。
少年は、今日の話をしているのではない。フェルナー・ロスムが「死んで」から、こうしてリダールの身体に蘇るまでの、六年間。
(曇った月夜のような、薄暗い世界)
(全てが薄墨で塗りつぶされたかのような、灰色の道、灰色の木々、灰色の――)
そこでタイオスは思い出した。フェルナーがアル・フェイル王城の中庭で語った、色のない世界のこと。
少年は、その「場所」について言っている。
(その話を)
(していたのか)
六年間。半刻どころではない。ひと晩の捕縛経験など、その長き時間の前ではささやかすぎる。
「あの何もない、墨色の王国。僕はあの場所に閉じ込められるなど、もう」
「……フェルナー」
「触るな!」
少年は、伸ばされた手を振り払い、瞳を燃やして寝台から飛び降りた。
「僕はあの場所が大嫌いだ。あそこに閉じ込められずに済むのなら、友人の身体だって、使う!」
「フェルナー、落ち着け」
拙いな――とタイオスは感じた。
「話をしようじゃないか。な?」
「お前の話は、リダールを救うことのみだ」
「そんなこと、ないだろうが。俺はちゃんと、お前にもいいようにしてやると」
「何ができる?」
「それは」
タイオスはうなった。
「いま、イズランやらサングやらが、調べて……」
「何もできないに決まっている」
「そういう、非協力的な態度はなあ! 何もいいことを生まないぞ!」
「僕はもう、お前には騙されないんだ。お前には何もできない。僕に協力をしてくれるのは、お前じゃない。エククシアたちだ」
「エククシアだとう?」
嫌な名前を聞いた、とタイオスは苦い顔をした。
「どんなネタで言いくるめられたんだ。いや、だいたい想像はつくから、言わなくてもいい」
「牢屋」に戻りたくなかったら――と直接言わなくたって、ほのめかすだけで脅迫は可能だ。脅す方向でなくともいい。リダールを乗っ取れば「あの場所」に戻らないで済むんだぞ、などと親切ごかして教えてやるやり方もあるだろう。
とにかく、フェルナーがそのようなことを言われたのは間違いない。言葉の端々に現れている。
「だがお前、本当にそれでいいのか。リダールはお前を救うために命を捨ててもいいと思ったのに、お前は」
「それは、彼が勝手にやった決断だ。僕のせいじゃない」
「まあ……そうだがなあ」
ここでフェルナーを責めることはできなかった。まさしく、リダールが勝手にやったこと。
いや、そうでも、ない。
「勝手なのはむしろエククシアだのライサイだのだろうが。お前は」
「どうであろうと、僕はいま、この身体でここに立っている。重要なのはそれだけだ」
「誰の身体であろうと?」
「――誰の、身体であろうとだ」
それはフェルナーによる、リダールへの決別宣言でもあった。リダールの代わりに、タイオスは少しだけ胸を痛くした。
「お前……」
タイオスは何か言おうとした。だが、言葉が出る前に、扉が叩かれた。
「――タイオス殿。リダール坊ちゃま。少しよろしいですか」
ハシンの声だ。タイオスは焦った。
「あ、いや、ちょっと」
よろしくない、と戦士は思った。
「ハシン?」
少年は扉を振り向いた。
「あれ? ぼく……夢を見ていた、のかな?」
「何?」
「ああ、いいよ、ハシン。入って」
「……おい」
タイオスは額に手を当てた。
「……リダール、か?」
「はい?」
不思議そうな顔で首をかしげた、その瞳に怒りの色は、なかった。
「おい、おいおい。勘弁してくれ。いや、この場は有難いが。何なんだ、これはいったい」